第二十六話:魔物語り
一応、サフィニア視点です。
「い、異空間……?」
サフィニアは顔にはっきりと困惑を滲ませて、アマリリスの言葉を反復した。
魔術に精通したサフィニアでも、異空間という言葉にはあまり馴染みがない。ぼんやりと思い出す限りでは、『ひとつの世界の中にできた別の小さな世界』をそう呼ぶはずだ。稀に世界の時空に亀裂が入り、時間の流れも自然環境も何もかも異なる別世界が新たに生まれることがあるらしい。
ただし、異空間は非常に混沌としていて人間が生存できる環境ではほぼないと言われている。一億年にひとつできるか、できないか程度の割合でしか生まれず、大きさもそれほどではない。
言わば、異空間とは世界にできた小さな落とし穴である。
遭遇することすら天文学的確率になる与太話に近いものが、何故ここに関わってくるのか、さっぱり分からなかった。
「確証はないけど……異空間で間違いない。奴らは異空間の向こうの世界に本拠地を構えてる。西区の森は異空間に繋がる通路のある場所なんだよ」
「ちょ、ちょっと待ってアマリー。確証もないのに、異空間だとどうして言えるの? それに、奴らって……」
アマリリスの話に付いていけず、サフィニアは混乱を露わにする。
それはソファの傍らに立ったゲイルも同じようで、眉を難しそうに曲げて首を傾げている。オスカーに関しては静かに傍観に徹している。
アマリリスは一度口を閉じ、周囲の反応を確認すると大きくため息を吐いて詳しい説明を始めた。
「何て言えばいいかな、異空間だと思ったのはほとんど勘だよ。でも、外れてない、きっと。奴らってのは、敵の魔術師とそれに従ってる魔物のこと。……あと何体残ってるのか、知らねーけどな」
「あと何体って……おいおい、さすがに十体以上残ってたら三人じゃ、手に負えめーぜ。普通だって三人組で一体の魔物を倒せたら良い方なんだからよ」
「つっても、あの異空間の向こうは未知なんだから、しょうがないだろ」
ゲイルは先を思いやって、額に手を当て天を仰ぐ仕草をする。
疲れた様子で憮然と返すアマリリスとゲイルの会話を見やり、サフィニアは未だにオスカーに抱かれているテンテンに首を傾げて尋ねた。
「ねえ、あなたなら知ってるんじゃない?」
その声に釣られて、その場の全員の視線がテンテンに集中する。
テンテンは黄金色の瞳を不快気に細め、ぐるると喉の奥を唸らせる。
「そう言えば、そいつの問題もあったな……」
アマリリスは答える気配のないテンテンを見咎めて、顔をしかめる。しわの寄った眉間を手でもみほぐし、ちらりとサフィニアの方に視線を向け、提案した。
「取り敢えず、それぞれ何があったか、一から話し合った方が良さそうじゃないか?」
サフィニアは怒涛のごとく過ぎ去ったここ一日、二日の記憶を掘り返しながら、無言で肯定を返す。
互いの身に起こったことを把握しないことには、魔物騒動の収拾も現状の打開もならないだろう。情報を共有さえすれば、半月に渡って双子を悩ませた事件の概要も見えてくる気がした。
それじゃあ、とサフィニアは椅子にしっかりと座り直して、隣町での出来事をアマリリスたちへ説明し始めた。
******
ようやく互いのことを把握したのは、話し合いが始まって優に二時間以上経った頃だった。
その間に、知らぬ間に危険を冒していた片割れの所業に真っ青になったり、互いを心配するあまり再度喧嘩になりかける双子を慌ててオスカーとゲイルが止めたり、周囲の騒がしさに辟易したテンテンが勝手にどこかへ消えたり、いろいろとあったが、それは重要なことではない。
二転三転した状況を、アマリリスは頭痛を堪える表情でぴっと人差し指を立ててまとめた。
「えーっと、まず分かったことは……其の一、今回の魔物騒動の根本にはロドラルゴの遺産が確実に関わっている。
其の二、テンテンや今まで出没した魔物はロドラルゴによって生み出された初代の魔物、つまりロドラルゴの生きた遺産である。
其の三、俺が西の森で会ったテンテンそっくりの魔物はテンテンの対の魔物である。
其の四、西の森に異空間へ繋がる通路がある。
其の五、どうやら敵の魔術師はロドラルゴの遺産を使うことで、実力以上の力を以て魔物を従え、今回の騒動を起こした。――こんなところか」
間違いはないな、と尋ねられてサフィニアはひとつ頷く。
すったもんだの話し合いの末に得られた情報は予想以上に貴重だった。
当初、敵の魔術師は双子やゲイルのように何らからの事故でこの島国に来た魔術師だと思われていたが、今回の話を考慮するとそれは違うのかもしれない。もとより、多くの魔物と実力の伴わない初級魔術師が一緒になって大陸から転移してくるには、現実的に疑わしい面もあった。大陸からこの島国に来るには転移魔方陣を使用するしか方法はないはずだが、大陸の転移魔方陣はそれほど発展していない。十年前の時点で幼子二人を飛ばすだけで精一杯だったのだ。さらに、宝具術式に傾倒する初級魔術師が、魔物を操っているというのもおかしい。
しかし、ロドラルゴの遺産が関わっていると話は別である。
ロドラルゴの遺産は使用者が誰であれ、莫大な力をもたらすことで有名だ。ロドラルゴの遺産一つあれば、国を滅ぼすことも簡単だと言われる。過去に、新たに発見されたロドラルゴの遺産によっていくつもの歴史的重大事件が引き起こされていたことは大陸の史実がまざまざと語る。
それゆえに、大陸において発見されたロドラルゴの遺産は各国の連盟の下、厳しい監視を付けて封印処置をなされるのが通例だった。
「ねぇ、敵の持ってるロドラルゴの遺産でどれだけあるのかな」
サフィニアは厳しく引き締まった顔でつぶやくように問いかける。
頭の痛いことに、今回の事件で敵方の魔術師が持つロドラルゴの遺産はひとつではなさそうなのだ。
まず、魔物と魔術師の本拠地である異空間それ自体が脅威の存在となる。そこに住まう数も正体も分からない魔物たちはすべてロドラルゴの生きた遺産と思っていいだろう。あとは魔物たちを意のままに操る効果のあるロドラルゴの遺産があることは、想像に難くない。
今分かるのはそれぐらいだが、他に複数のロドラルゴの遺産が敵側にあることも可能性として否定できなかった。
アマリリスは分からねえ、と憮然とした顔で言う。
「幾つ持っててもおかしくねえだろ? 正直なところ、俺たちの手に負える問題じゃなくなってきてるぞ、これ」
「それはそうだけど……ここには魔導騎士団なんてないし、わたしたちしか対処できる人間がいないんだもの。国軍が突撃を掛けても、西の森に踏み入った時点で壊滅しちゃうわ」
「だな。っとに頭痛ぇ」
対魔物やロドラルゴの遺産など、特殊な魔術の関係する事件に対処する軍隊――魔導騎士団なるものが、祖国にはあった。確か双子の両親もそこに所属していたはずである。
本来はそう言った専門の軍隊が当たるべき事件を、たった三人の若者で解決しようという現状がすでに無茶苦茶だ。三人して充分な知識も対処方法も心構えも知らない。
およそ、円満な事件解決に至るにはほど遠い状態と言えよう。
いまさらと言えばいまさらだが、双子は憂鬱な顔で同時にため息を吐く。
「それで、異空間の向こうはどうなってんだ? 少なくとも、人の生存できる環境はあるみたいだけど、それだけじゃないだろう? ……いい加減、協力を申し出たって言うんなら、一言くらい説明してくれていいんじゃないか」
アマリリスが鋭い眼差しを向けた先では、テーブルの中央でのんびりと伏せっているテンテンがいる。この魔物は周囲の混乱ぶりなど知ったことかと言わんばかりの態度で、うたた寝までする始末である。話し合い中はいつの間に姿を消して、庭で日向ぼっこに興じていた。
必要最低限にしか口を出さないテンテンは、サフィニアの見たものが正しければ、例の異空間にいたことがあるはずだ。双子にとって必要な情報を山ほど持っている可能性は大きい。
しかし、テンテンは気だるげにまぶたを開け、半眼で見返すだけで反応を見せない。
しばらくの間、アマリリスとテンテンの睨み合いが続いた。
「ねぇ、こんな時間の無駄はやめましょうよ。テンテン、貴方だって早くイルのところへ帰りたいでしょ? それに、片割れの魔物とさっさと決着を付けたいんじゃない?」
サフィニアがため息混じりに諭すとテンテンは不機嫌そうにぐるぐると声を上げる。
詳しいところは知らないが、テンテンと片割れの魔物は生まれた頃から絶えず互いを食いつぶそうと争っている。テンテンがどれほど生きているか計り知れないが、数百年と言わず千年単位で生きているだろう。それほど長い間決着のつかないまま争うのは、そうとう気力を使う行為に思えた。――魔物と人間の感性は違う、と言われればそれまでだが。
だがテンテンは渋々と四足でテーブルの上に立ち上がり、しゅたっと床に下りた。
『知りたいと望むなら、相応の覚悟を持て』
テンテンは小さくとも鋭い牙を剥き出しにして、双子を炯炯と見据える。
サフィニアはその眼光の強さに、ひゅっと喉を鳴らして息を呑んだ。
「見くびるなよ」
まったく怯んだ様子もなく、アマリリスが獰猛に笑った。
その次の瞬間――ぶわっと濃密な魔力が家中にむせ返った。テンテンの足元から黒い霧が発生し、あっという間に全員を飲み込んで空間を覆っていく。
サフィニアが隣町で遭遇したのと同じ現象だ。
「っ……!!」
咄嗟の事態に魔術を構築しようとするアマリリスの手を取り、サフィニアは無言で抵抗を止めるように伝える。大丈夫だから、と視線を交差させる。
アマリリスは険しい表情で周囲を観察しつつも、取り敢えずは頷いてくれた。
「テンテン」
そこに、子どもが抱えられるほどの小さな体躯はなかった。サフィニアよりひとまわりも大きい、赤銅色の巨躯が闇に金色の双眸を光らせて立っている。息苦しいほどの魔物の魔力と相まって、その姿を目に入れるだけで呑まれそうになる。
二度目ということもあり、多少くらくらするものの、魔力酔いは起こしていない。
アマリリスも同様で、隣を見れば少し青白い顔ながらも威勢を失わずテンテンを鋭く睨み付けている。
「っ……ぅ、あ」
不意に、近くから苦しげな声を聞いてサフィニアはばっと声の方向を見た。
「オスカー!」
さっとサフィニアは顔から血の気を失せさせる。
オスカーは漆黒に彩られた足元に座り込み、片手を付いて今にも意識を失いそうな状態だった。原因は考えるまでもなく、魔力酔いである。むしろ、このねっとりと濃密な魔力の渦巻く空間で一般人がわずかながらも意識を保てている方が凄い。
慌てて傍により、恋人の身体を支えたサフィニアは急いで治癒の魔術を施す。それから周囲に狭い密封の結界を作り上げる。
ほとんど気休め程度の応急処置だが、何もしないよりはましなはずだ。
「ゆっくり息をして、吐いて。深呼吸しちゃ駄目よ」
紙のように真っ白な顔にじっとりと脂汗を滲ませ、オスカーは指示に従っている。
サフィニアは抱き留める彼の背をゆっくりと撫でつつ、テンテンを振り返って叫んだ。
「テンテン、この魔力どうにかならないの! わたしはともかく、オスカーまで巻き込まないで。彼は一般人なのよ!?」
今意識を保てているのは、オスカーが常に双子の周りにいたからだろう。最近ではサフィニアも頻繁に彼の周囲で魔術を使用していたため、無意識化に濃密な魔力に身体が馴染んでいてもおかしくはない。魔物の魔力は双子の総量よりは少ないが、これほど垂れ流されてはたまったものではなかった。
サフィニアの非難に続いて、アマリリスも「こっちもだ」と声を上げる。
先ほどオスカーに意識が集中して気が付かなかったが、ゲイルも苦しげに片膝をついていた。さすがにゲイルはオスカーより耐性があるようで、まだ余裕はありそうだったが、それでも辛そうである。
「何がしたいんだか知らねーけどな……、周囲にも配慮しやがれ。全員が全員、てめぇら魔物みたいに強靭な身をもってねえんだよ」
サフィニアと同様に周囲に結界を張った状態で、アマリリスは吐き捨てる。
「ねぇ、オスカーだけでも外に出して」
多少容体は落ち着いてきたもの、ぐったりとしたオスカーの肩を抱いて、サフィニアはテンテンに言う。これからの進展上、ゲイルにはいてもらわなければならないが、オスカーが無理をしてこの空間にいる必要性はなかった。
もしもの場合サフィニアは強硬手段に出ることも考えたが、その前にオスカーが顔を上げて止めた。
「サフィー、……大、丈夫、だから」
「でも!」
「頼む」
オスカーの意外なほど真剣な眼差しを受けて、息を呑む。
サフィニアが無言の懇願に困惑しているとふっと結界の外の魔力が薄くなった。肌に感じる威圧感が若干減る。
それと同時にオスカーも多少は呼吸が楽になったようだった。目に見えて顔の血色がよくなる。
「テンテン?」
ほっと安堵の息を吐いて、暗闇の中央に居座るこの空間の主を見る。
テンテンは周囲の喧騒など気にした風もなく超然と立っているが、放出される魔力が減ったせいか、当初ほどの威圧感はない。それでも悠然とした獅子姿は目を奪うものがあり、距離感もつかめない闇の向こうに視線を送る姿には、どこか人間的な感傷のようなものを感じさせた。
魔物の、それも知性を持つ自分たちより遥かに長い時を生きる魔物の思考など理解できず、サフィニアは言葉なく見守る。
ふっとテンテンが黄金色の双眸をサフィニアたちの方へ戻した。
『見るがいい、未熟な人間たち。――貴様たちの望む、我らの生誕の地の姿を』
その宣言と共に魔術が暗闇の中で静かにうごめくのが分かった。すぐにそれらは空間に閉じ込められた全員の身体に這いより、浸透していく。それは、隣町でサフィニアが独り体験したものと同じ感覚だった。
だからサフィニアは一切の抵抗を放棄して、意識を魔物の手にゆだねた。
*****
鈍い灰銀の輝きが天井に薄く広がっている。ゆっくりと流れる雲の数々さえ、雨雲でもないのに灰色で、世界を照らす色はあまりにも憂鬱な色彩を描く。
その天空に支配された大地のほとんどは鬱蒼とした森によって成り立っている。乱立する木々や剥き出しの岩山、人の手入れなど一度も受けたことのない大自然の中は、大小様々な生物が生息している。――否、生息していた、というのが正しい。
停滞したような世界。そこは正しく、ほとんどの生物が時間を止めている。
一般に人間が畏怖を込めて『魔物』と呼ぶ異形たちが、森のそこかしこで静かに深い眠りに落ちている。ともすれば、世界が滅ぶその瞬間まで永遠に目覚めないほどの深い眠りだ。
しかし、灰銀色の世界には一部、眠りから覚めた異形たちが確かにいた。
好き勝手に生殖する森の中心に一箇所だけ、人の手によって切り開かれた場所がある。そこには廃れた白い巨大な建物が、自然の猛威に何とか負けずに聳えている。時間と共に荒廃を極めた建物の塗装ははがれ、伸び放題の草と蔦に覆われようとしている。その草葉に隠れるようにして、ソレは腰を下ろしていた。
ソレは目を閉じ、じっと息を潜ませているが意識は常に鋭敏に外に向けていた。
今は草葉の下に隠れて見えないが、ソレの足元にはうっすらと魔方陣が複雑な柄を描いて絶えず発動している。その効果は拘束、である。この魔方陣によって、ソレは自由に動き回ることができないでいた。ソレが魔方陣の外に出ようとすると抗いがたい命令を含んだ魔力が立ち込め、ソレの四肢を硬直させることになる。
だから、ソレは大人しく機会をうかがっている。
グルルァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!!
不意に、灰銀色の世界のねっとりとした空気をびりびりと震わせる鋭い咆哮が響き渡った。
何度も何度も、連続して上がる咆哮にソレはびんっと全身の毛を逆立てる。喉からは対抗するようにぐるぐると唸り声が出るが、衝動のままに咆哮することはない。
ソレの本能的な敵愾心を刺激する咆哮は、白い建物の内側から聞こえている。中では、咆哮だけで辺りの魔力を蹴散らし、周囲の物体を壊すヤツの姿があるのは間違いない。ソレにはまざまざと想像できる光景だった。
それから何十分と騒音は辺りを支配したが、突然ぴったりと収まって元の静寂が戻ってくる。
ソレはにぃ、と牙を剥いて笑った。
時を同じくして生まれ、延々と殺し合いながら今日まで決着のつけ切れていない、忌々しい片割れ。
だがヤツの本能に忠実な暴走行為は、確かにソレの利益となって返ってきている。
ヤツに助けられていると思えば胸糞悪くなるが、利用していると思えば、そうでもない。
ほんのわずかではあるが、ソレの身体の下の魔方陣は先ほどまでと比べて効力を削がれ、輝きに影を落としている。これまでもヤツが建物の内側で暴れる度に、ソレを拘束する魔術は効力を落としていた。
ソレが深い眠りから覚めてどれほど経つかは曖昧だが、ソレがこの現象に気づいたのはわりと早い時期だった。
ヤツに限らず、ソレの同胞たちが暴れる度にソレを拘束する魔術は力を失う。他にも、この世界を構築する魔術自体がゆっくりと崩壊の兆しを見せ始めている。かつて灰銀色の世界は普通人間が生息できないほどの魔力が立ち込めていたのに、今は周囲に漂う魔力が若干薄い。人間にとっては大した違いではないだろう。しかし、魔物であるがゆえにソレはその小さな変化と意味に気づいていた。
ゆっくり、ゆっくりと。
全ての条件が整う機会を、ソレは草葉の影で目を炯炯と光らせ、油断なく狙っている。
『お前ならば、わたしの生む世界の先にまで届くかもしれん』
『その目で見てくるがいい、そして刻め。――わたしが残す世界の先を』
もはや数えることも無意味な大昔、ソレを生んだ創造主たる男が遺した言葉が脳裏に蘇る。人間の身で神に最も近づいた狂人のその言葉を、ソレはまるで今聞いたばかりのように声までまざまざと思い出せる。
おそらく、あの男は死したのだろう。どこでどのように、彼の研究者が自分の人生に終止符を打ったのか、ソレは知らない。
それでも畏怖と恐怖を持って語られた彼の狂人の時代が終わったことは、感じ取っていた。
(お前が)
ソレは苦々しい想いで、男のひょろっとした痩躯を思い出す。時折、常軌を逸した熱を孕んだ目でどこかを見ていた『親』を。
(お前が描いたものは、こんなものではない)
神の真似事まで軽々として見せた男が、自ら至ることを諦めた時の向こうの世界。
ソレとて、男が何を未来に求めていたのかは知らないが、あの男にとって取るに足りない羽虫のような存在にこの地を好き勝手扱われる現状には、嫌悪が降り積もっている。
ここは我らの縄張り。
この世界を創造したロドラルゴ以外が、支配者であってはならない。
――まして、ロドラルゴの威を借りて仮初の力で支配しようなど、笑止千万である。
本来目覚めるはずのなかったソレや他の同胞たちがこうしているのは、一人の人間が偶然この灰銀色の地に入り込んだからだ。ソレたちの創造主と似たような狂気を抱えた小さな人間は、永い時の中でできた小さな綻びから入り込み、男の遺したものを漁り、我が物のように扱った。
本来なら、彼の男と比べるべくもない矮小な人間にソレやヤツが屈することはなかったはずだ。しかし、侵入者は男の遺物を用いてソレたちを従わせた。
男の遺物――ロドラルゴの遺産は彼の死後も寸分の狂いもなく高次元の性能を発揮した。男に創造された魔物たちは、その遺産の使用者が憎むべき侵入者であることを分かっていても、遺物の力に抗いきれない。遺物には魔物たちが絶対と本能に刻んだロドラルゴの魔力と命令が刻み込まれていたからだ。
どれほどあがいても、時の彼方に当の『親』が消えていても、その命令にソレたちは決して抗えないのである。魔物たちはそのように初めから創られているのだ。『親』に牙を剥く『子』など、いないように。
(いつか、悔いるがいい)
ソレは内なる憎悪を抱え込み、嘲笑を隠れて漏らす。
(貴様ごときが、我らが創造主の聖域を荒らしたことを)
侵入者に対して燃やす、この憤怒が何に由来するのかは分からない。
男に生み出された『子』としてか、忠実な下僕としてか、それとも永く生き延びた誇りの高さゆえか。あるいはまた、別の感傷からか。男とソレの関係性はどこか複雑で曖昧だったがゆえに、分からない。けれども、ソレが感じるこの激情は相応の報復と罰が下されるまで決して収まることはない。
(目にものを見せてくれる)
幸いと言うべきか、侵入者はソレには大して気を払っていない。ヤツや他の同胞が本能に忠実に暴れ出すのを抑えるのに躍起で、大人しくしているソレにまで目が届いていないのだ。
侵入者の腕が未熟な証明に、侵入者は男の遺物の力をもってしても完全には魔物を従わせられていない。侵入者に触発されて目を覚ましたのはごく一部の魔物だけなのだが、定期的に遺物の力を行使して従属させている。それでも、ヤツのように力ある高位の魔物を正面から屈服させるのには時間と労力が必要なようだった。
そして無駄に侵入者が遺物の力を振るうごとに、ソレを拘束する魔方陣は効力を失い、さらに灰銀色の世界そのものを崩壊させていっている。
侵入者は魔術師として有能ではない。だから高性能な男の遺物を扱う際に必要な高出力を自分では賄いきれず、侵入者は遺物の動力源として周囲に溢れる魔力を取り込んで使っている。しかしこの世界の魔力も有限だ、創造主たる男を失って千年以上も経ち、もはや経年劣化が見られるほどである。
そこで侵入者が遺物を連続で何十、何百回と扱っていればいつか枯渇するのも目に見えている。
さらに言えば、侵入者はこの灰銀色の世界の外では遺物の力を十分に制御できない。三割も性能を引き出せないだろう。つまり、ソレが灰銀色の世界の外に出てしまえば侵入者を恐れる必要はなくなってくるのだ。この魔方陣の拘束さえ無効化してしまえば、外の世界へ出るのはたやすい。
ソレはその時を脳裏に想い描き、忍耐強く待ち続ける。
『……そして我が見届けよう』
ソレは男に封印されて深い眠りに就く直前の記憶を振り返り、誰にともなく宣言する。
多くの人間が生活する外の世界に興味はなかった。ソレは生まれてから死ぬまで、この閉じられた灰銀色の世界の森で弱肉強食に興じ、片割れと争って死に行くのだとずっと思っていた。彼の偉大にして真正の気狂いであった男の終わりなど、考えもしなかったがゆえに。
それでも、『親』と呼ぶべき男が望んだことならば。
『お前の見ぬ世界、我がしかと刻んでくれる』
それこそが、ソレの最後の役割にして義務となる。
報告をすべき相手はすでにないが。
あるいは、遠い昔の死者への手向けぐらいにはなるのかもしれない。
次回、魔物の回想続きます。