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残華  作者: さーさん
26/39

第二十四話:双子の神秘

サフィニア視点です。



 初めに違和感を覚えたのは、イルたちを連れて王都に戻る道中のことだった。

 サフィニアは胃の辺りにずっしりと石が乗せられたような、重い感覚を突然感じた。多少気分が滅入る程度で体調不良と言うほどのものでもなかったため、その時は単なる胃もたれかと思っていた。 

 だが時を追うごとに胃の重みは増し、じんじんと痺れるような感覚が全身に回り始めてようやく、サフィニアは異変を認めた。

 それは単なる体調不良で済ませて良いものではなかったのだ。


「っ……」


 急激な体調の変化に、ふらりとサフィニアは体勢を崩す。


「サフィー!?」


 すぐ傍にいたオスカーが驚き、すかさずサフィニアの身体を支えた。

 そのままサフィニアは道の途中に座り込み、オスカーの腕の中でぐったりとなる。その顔色は、ほんの少しの間に真っ青になり、呼吸もひゅーひゅーと危うい音を立て始めていた。

 明らかに異常な変化にオスカーも焦った顔を見せる。


「どうしたんだ? いったい、何が……」

「オ、スカー……大、丈夫、だか、ら……少し、このままで」

「まさか、寿命が?」

「ち、がう……から」


 およそ半月後に迫る死が早まったのかと案ずるオスカーに、小さく首を振って否定する。

 双子の死は何らかの病によるものではなく、単なる寿命――いわば、老衰による自然死に近いものだ。死の瞬間までは、双子は至って健康の身で心配される要素は何一つない。

 だからこれはまったく異なる要因によるものである。

 そしてサフィニアには、一つ思い当ることがあった。


(アマリー)

 

 双子の姉の、自分とほぼ同じ顔をした片割れを脳裏に思い浮かべる。

 異変が起きたのはサフィニアではない。――アマリリスの方だ。


(何が、あったの)


 双子の神秘、とでも称すべきか。

 サフィニアとアマリリスの間には昔から不可思議な繋がりがあった。普段から互いの発言がぴったり一言一句違わずに同じであったり、何となく互いがどこにいるのか分かったりすることがある。その他、片方の心が大きく揺れ動くと片方にもまるで自分の感情のように強く伝わったりする。

 そして今回のように、片方が大きな傷を負った時、片方にもその痛みや辛さが時を同じくして伝播することがあるのだ。


(アマリー!)


 実際に怪我を負っていないサフィニアに、これほどの影響を与える傷をアマリリスは受けたのだ。それは生命を脅かすまではいかないが、充分に酷い負傷である証だった。

 ゆっくりとサフィニアの体調は波が引くように穏やかになっていく。

 しかし、その心は真反対に荒れ狂っていた。


「……らなきゃ」

「サフィー?」

「帰、らなきゃ」



――呼んでいる。

――大事な片割れが、傍にいてと呼んでいる。



 その時のサフィニアの心にあったのは、アマリリスのことだけだった。

 双子が最も強く共鳴し、不可思議な繋がりを持つのは、片割れの存在を強く希求した時なのだ。傍にいて欲しいと、寂しいと感じた時、片割れを最も必要とする瞬間にこそ、その想いは理屈を超えて届けられる。 

 それを本能的に知っているから、サフィニアはこの時、何を捨ててでもアマリリスの下に駆けつけなければならなかった。

 サフィニアの声なき意志に従って、足元に大きな魔方陣が浮かび上がる。術者の不安定な状態に比例して、無詠唱で編まれた魔方陣は無駄に大きく、見えないほころびも多かった。


「て――」


 そのまま発動詞を唱えようとした瞬間。


「サフィニアっ!!」


 オスカーの大きな声がそれを遮り、サフィニアの華奢な肩を強く揺さぶった。

 その衝撃ではっとサフィニアは正気に返り、同時に足元で存在を主張していた魔方陣も消えた。呆然とする視界に心配に彩られたオスカーの顔が写る。

 数秒の間、真っ白になって停止していた思考も、オスカーに繰り返し名前を呼ばれたことで再開する。


「オス、カー?」

「サフィー、気が付いたか? 体調は……」

「……大丈夫、わたしは……何でもないの」

「何でもないなんてことは」

「ううん。大丈夫、わたしは、ね」


 サフィニアの含みのある強硬な言葉に、オスカーも口をつぐむ。

 眉根を寄せて押し黙った恋人に、サフィニアは弱弱しく笑ってごめんなさい、と謝罪した。


「心配かけてしまって、ごめんなさい。でもわたしは大丈夫だから」

「……まったくだよ。立てるかい?」

「ええ」


 オスカーはため息交じりに苦笑し、サフィニアを支えて立ち上がる。

 多少はよろけたものの、先ほどのことが夢幻であったかのようにサフィニアの体調は平常通りに戻っていた。その代わりに、気分はすこぶる悪く顔色も良くはない。

 サフィニアが大地に座りこんだ際に服に付いた砂をはたいて落としていると傍で立ち尽くしていたイルがおずおずと近づいてきた。その腕の中には魔物が大人しく収まっている。


「おねえちゃん、大丈夫? どこか、痛い?」

「ううん、もう大丈夫。ちょっと疲れちゃったみたい。心配かけてごめんね」

「もう大丈夫?」

「うん。本当よ」

「よかったぁ」


 ぱっと暗い顔を一転させたイルの頭をサフィニアはぽんぽんと撫でる。幼いイルにまで心配をかけたことを反省し、ざわざわと焦りを残す心を意識して落ち着かせた。

 この瞬間もアマリリスの傍に飛んでいきたくて仕方なかった。

 だが衝動で行動しても最良の結果に結びつかないことは、冷静に考えればすぐに分かることだった。


「あのね、オスカー」


 サフィニアは約半月前に魔術のことや自身の出生の秘密を告白した時と似たような緊張感を抱いて、オスカーと向かい合った。

 半月前もそうだったが、今回も上手い説明の方法は分からなかった。

 サフィニアとて、アマリリスとの間にある共鳴関係がどんな仕組みの上で成り立っているのか、さっぱり知らないのである。まだ高等魔術の仕組みを素人に分かりやすく説明する方が遥かに簡単に思えた。

 話を切り出したまま言葉を探しているサフィニアに、仕方なさそうにオスカーは苦笑する。


「アマリーのところに、行きたいんだろ?」

「っ……どうして」

「君がそんな風に必死になるのは、いつだってアマリーのためだからね」


 ぐぅの音もなかった。

 どこか寂しげな様子を見せるオスカーの姿に、サフィニアは余計に言葉を詰まらせる。

 だがオスカーは慈しむように目を細めて、ぽんぽんとサフィニアの頭を撫でて言う。


「別に責めてるわけじゃないよ。ぼくは君のそんなところも含めて好きなんだから」

 

 その言葉はきっと嘘ではない。しかし百%本当でもないはずだ。

 自分はオスカーに甘えている、そうサフィニアは改めて認識してしまった。自分の秘密を残らず話してしまった時から分かっていたことでも、ずっしりと胸に重みを感じる。

 それでもサフィニアは己を通すことしかできない。


「……ありがとう、オスカー」


 ごめんなさい、の言葉の代わりに微笑を作って言った。


(わたしはもう、十年も前に決めてしまったから)


 サフィニアの一番はオスカーではない。誰よりも優先するべき大事な人は、恋人ではなく双子の姉だった。十年前の運命の日に、サフィニアが共に人生を歩むことを望んだ相手は姉だったから。

 もしも双子に普通の寿命があれば、あるいは自身の寿命を知らなければ、結果は違ったかもしれない。オスカーを一番大事にできたかもしれない。

 しかしそれは仮定するだけ無駄な話である。


「わたしにもよく分からないけど……アマリーが傷ついてる。だから、行かなきゃ」


 難しい説明は何もいらなかった。

 はっきりと告げられたそれだけの説明で、オスカーは納得したように頷いた。


「分かった。アマリーはよく無茶をするからな、魔術を使うんだろう?」

「うん」

「急ごう。イル、テンテンを連れておいで」

「はぁい」


 二人が話している間に魔物と戯れていたイルが、手招きをされて素直にとことこと寄ってくる。

 オスカーは傍に来たイルと目線の高さを合わせて、ゆっくりとした口調で言い聞かせるように言った。


「イル、ちょっと今知り合いに問題が起きているみたいなんだ。ぼくらは急いで王都に戻らなきゃいけない。ゆっくりと歩いて帰る時間がなさそうだから、近道をしようと思う。でもそれは特殊な方法でイルにはとっても不思議なことだけど、今から体験することは他の誰にも言ってはいけないよ」

「誰にもって……お母さんにも?」

「そう。お友達にも、孤児院の先生にも、お母さんにも。話していいのは、ここにいるぼくら二人とテンテンにだけだ。守れるかい?」

「うーん……」


 イルは少しの間難しそうに考え込んでいたが、最終的には分かったと頷く。

 その答えにオスカーは笑顔でありがとう、とイルの頭を撫でた。

 二人の様子を傍で見守っていたサフィニアは、何も言わずすべてを受け入れてくれている恋人に心の中で感謝の念を捧げる。

 きっとオスカーにも言いたいことはたくさんあるはずなのに。

 疑問も文句もすべて胸の内に収めて、サフィニアの意志を一番に優先させてくれている。

 自分にはすぎた恋人だとサフィニアは思う。


(だから、わたしができることは全てしてあげたいの)


 そう願いながら、双子の姉を優先させるサフィニアは矛盾している。

 サフィニアとてそれは理解している。それでも――


(どうしても譲れないものがあるから)


 たとえオスカーが相手でも与えられないものがあるからこそ。


(他は全部、オスカーにあげたい)


 恋人のために何ができるのか、いまだにはっきりと分からなくてもその想いだけは本物だった。

 サフィニアは胸に秘めた想いを口に乗せる代わりに、オスカーとイルに両手を差し出して手を結び合う。それから万が一にも失敗がないように、しっかりとした口調で言った。


「さぁ、イルくん、目を閉じて。わたしの手とテンテンを絶対に離してはダメよ?」

「うん。目を閉じるの?」

「そうよ。わたしかオスカーがもういいよって言うまで、目を閉じてて。できるかな」

「できるよ!」


 イルは頼もしい宣言と共に両目を閉じて小さな手でサフィニアの手をぎゅっと握り返してくる。

 サフィニアは自然と笑みを浮かべて、オスカーに視線を移す。

 二人の間に会話は不要だった。互いの繋いだ手の温もりと眼差しだけで、互いの意志はきちんと伝わり合う。

 サフィニアはひとつ深呼吸をして心を落ち着かせ、一言魔術を行使するための発動詞を唱える。


「――《転移せよ》」


 三人の足元に通常より一回り大きな魔方陣が展開される。それは先ほど暴走状態で現れた魔方陣よりよほど安定した術式だった。

 失敗する要因は何一つなく、滞りなく三人の姿は人気のない道から消えた。






 *****


 


 ふわっと宙に浮いた足が一瞬の間を経て固い床に着く。

 一日ぶりに帰った我が家の廊下を踏み、サフィニアは居ても経ってもいられずに駈け出そうとして目に入ったものに、思わず身体を強張らせた。ざっと血の気が引いていくのが分かる。

 少し間を開けて、オスカーも双子の家に着いたことに気づき、またサフィニアと同じものに目を奪われた。 


「これは……血の跡だな」


 てんてんとサフィニアたちの背後にある玄関の扉から、赤い血の跡が居間に向かって伸びていた。ぽたぽたと木張りの廊下にこびりついた血は、けして少なくはない。居間の浅く開いた扉に近づくほど、血の跡はひきずったような形をしている。

 本人の姿が見えなくても、尋常ではない怪我をしたのだと分かる。

 サフィニアは真っ青な顔色でふらりと一歩踏み出す。それからは一気に走り出して、大して長くない廊下を駆け抜け、ばんっと強く居間の扉を開いた。 

 背後からオスカーの慌てる声やイルの不思議そうな声が聞こえたが、サフィニアの耳に届かない。

 サフィニアが感じていたのは、ただ不吉な気配とむっとした鉄の匂いだけだった。


「アマリーッ!!」


 居間の全貌を見渡した途端、サフィニアは足元から崩れ落ちそうになるのを必死でこらえた。


「どう、して……っ」


 アマリリスは居間の中央のソファに身を沈ませて、眠っていた。

 ただし、それは眠ったと言うよりは身体が不調に耐えかねて気絶したと解釈した方がよさそうな有様だった。 

 その身に着けた男性用の衣服は、鋭い刃で裂かれたようにすっぱりと切れた箇所が多く、その部分からのぞく素肌は例外なく切り傷が刻まれている。大量の血を吸った衣服は元の色が分からないほど変色して、重たそうだ。その顔色は紙のように真っ白で、呼吸も荒い。

 アマリリスが無防備に横たわるソファは鮮血で汚れ、廊下からてんてんと続く血の跡もソファの近くで途切れている。おそらく家に帰ってきてすぐにソファに倒れこんだのだ。


「サフィー?」


 それまで顔を強張らせて立ち尽くしていたサフィニアは、背後からオスカーに声を掛けられてびくっと身体を震わせた。一瞬後、弾かれたように動き出す。


「アマリーッ!!」


 双子の姉の傍まで血相を変えて近寄ったサフィニアは、間近で容体を認めてひゅっと息を呑む。

 アマリリスから痛みが伝わって来た時に傷は酷いだろうと思った。いくら双子で、互いに影響し合うとは言えっても、自分のものではない傷で倒れるほど強く影響を受けたのは初めてだったから。 



――いや、正確には初めてではない。身体の端から冷たくなっていくような、恐ろしい感覚を一度だけ、アマリリスから受け取ったことがある。

――十年前の、あの日に。



 それに気付いた時、サフィニアは反射的に動き出していた。

 居間の入口に先ほどのサフィニア同様、驚いた顔で立ち尽くしているオスカーに向かって叫ぶ。


「オスカー! 今すぐお湯と救急箱を持ってきて!!」

「あ、ああ」


 十年前のあの日以来となる姉の大怪我に、サフィニアは混乱しそうになる頭を必死になって動かす。

 ただ狼狽えていても、事態は悪化するだけで改善されない。今すべきことは立ち尽くすことではなく、一刻も早い治療である。

 サフィニアはアマリリスの額に手を当てて、その熱の高さに顔を歪める。


「アマリーの、馬鹿……っ」

 

 自分の留守中にこの姉は何をしていたのか。回復した時はきっちりと問い詰めることを決め、サフィニアは両目を閉じる。表に出てきそうになる焦りを抑え込んで、気を落ち着かせた。それと同時に体内の魔力を活性化させる。

 再び目を開けた時にはすっかりと動揺を収めていた。


「えっと、とにかく傷を診なきゃ」


 アマリリスの服に手を掛けるが、べったりと肌に張り付いた服は脱がしにくい。サフィニアは立ち上がると近くの棚の中からナイフを取り出してきて、邪魔になる衣服を裂いていく。

 そこでお湯を張ったたらいと幾つかのタオルを持って、オスカーが戻ってくる。


「サフィー、これ」

「あ、ありがとう。それとこっち来ちゃ駄目よ、アマリーの服脱がしてるから」

「え!? 分かった。……医者を呼ぶかい?」

「今は呼べないわ。あとで診せた方がいいでしょうけど……」

「あとで?」


 何故、とオスカーがいぶかしそうな顔をする。

 サフィニアはお湯に濡らしたタオルでアマリリスの身体にこびりついた血液を丁寧に拭い取りながら、真剣な眼差しを傷口に向ける。

 衣服に付着した大量の血とは反対に、傷口はそれほど深くないように見える。むしろ浅く、この傷口から何故これほど血が出たのか、不思議なほどだ。

 だがサフィニアの目は、アマリリスの全身を覆う魔術の気配を正確に捉えていた。


「魔術で応急処置をしてあるみたい」


 おそらく力尽きる前に最低限の治療を魔術で行ったのだろう。不自然に傷が浅く見えるのは、治癒の魔術が正常に作用しているからだ。

 治癒の魔術はかすり傷程度ならすぐに治せるが、大きな怪我となると治しにくい使い勝手の悪い魔術だ。治癒の魔術は身体の自然治癒能力を大幅に活性化させ、本来治すのに半年かかる負傷を五日で治す、と言ったような魔術である。

 一瞬で怪我を治すようなことはできず、また元の生命力や身体機能に問題がある場合、いくら活性化されても微々たる効果しか現れないのが常だ。

 治癒の魔術は魔術も万能ではない、ということを象徴するような魔術なのである。


「まずは治癒の魔術を補強して……。外より内側が問題かな」


 治癒の魔術は、表面上の負傷は比較的に治しやすいが、内臓や骨にできた病や傷は治し難い特徴を持つ。そのため大陸では治癒の魔術は本当に応急処置で、大怪我を負った時や病を得た時は医者にかかるのが一番だとされていた。

 ぱっと見た限り、あばら骨にひびが入って内臓にも多少のダメージがあるようだった。こちらは治癒の魔術で多少は早く治るだろうが、医者に診せるに越したことはない。

 

(でも、アマリーが目を覚ましてからじゃないと) 


 すぐには分からないが、よく観察すれば今のアマリリスの身体に超常的な力が働いていることは素人目にも分かるはずだ。何せ、ゆっくりとだが肌に刻まれた深い切り傷は治ってきている。あと十時間もすれば、傷跡ひとつ残さず完治するだろう。

 この状態を魔術を知らない一般の医師に診せるわけにはいかない。

 この時初めてサフィニアは自分に医療知識がないことを悔やんだ。魔術に深く傾倒したせいで、日常の知識に関しては生活に支障をきたさない程度のものしか身に着けていない。むしろ、そういった知識にはアマリリスの方が通じている。

 サフィニアは自分の無力さに深いため息を吐く。


「オスカー、ごめんなさい。イルくんとテンテンの面倒はお願いしてもいい? 今日中にはアマリーも起きないだろうし、私は看病しないといけないみたいだから」


 ちらりとサフィニアが居間の入口に目を向けると不安げな表情でイルが立ち尽くし、その足元に魔物がちょこんと大人しく座っている。

 サフィニアと魔物の視線が一瞬交差したが、魔物の方からすぐに視線をそらし、魔物は普通の子犬のようにイルの足元にじゃれつき始める。 

 あの魔物に追及することは山ほど残っているが、隣町で取り敢えずの休戦協定は出来上がっている。今の状況で過剰に魔物を気にせずに済むのは有り難かった。


「それは構わないよ。ぼくだってその状態のアマリーを放置したくない。……イルは一度孤児院に戻さないといけないな。テンテンの方はどうする?」

「孤児院には連れて戻れないでしょう。もともと孤児院は生き物を飼う余裕のないところだし……イルくんには悪いけど、ここに残して行ってもらうしかないわね」

「やっぱり、そうなるか。分かった、一度イルを孤児院に連れて戻って……テンテンのことは後回しにしよう。ぼくもできるだけ早くここに戻って来るよ。アマリーの看病をサフィーだけには任せられない」

「でも……」

「でも、は無しだよ。今夜はぼくもここに泊まらせてもらう。何かあった時、君だけじゃあ心配で夜も眠れやしないからね」


 迷惑を掛けてしまう、とサフィニアは渋い表情をするが、オスカーはやんわりと笑みを浮かべて押し切る。サフィニアとしてもオスカーが傍にいてくれれば心強いのは確かで、それ以上は食い下がれない。

 オスカーはサフィニアの承諾をもぎ取るとアマリリスのために用意していた救急箱やタオルを近くにさっさと用意し、イルの方に寄って行く。


「イル、少し話があるんだ」


 それからオスカーはこれから孤児院に戻ること、テンテンはこの家に置いて行くことをイルにも理解できるように時間を掛けて説明し始めた。

 イルはテンテンと引き離される、という点に嫌だと首を横に振って訴えていた。

 もともとイルはテンテンを孤児院で飼いたがっていたが、経済的余裕のない孤児院では飼えないと言われ、仕方なくテンテンを隠して孤児院の近くで飼っていたらしい。

 孤児院出身のサフィニアやオスカーにも、孤児たちの面倒で精一杯で生き物を飼う余裕のない孤児院の事情は理解できる。

 イルも孤児院でテンテンを飼えないことは理解しているはずだった。

 オスカーが根気強く説得し続けると最終的にはイルも涙目ながら渋々と了承した。

 

 その間、サフィニアはイルのことはオスカーに任せ、アマリリスの手当を黙々と続けていた。

 用意したタオルでアマリリスの身体をできる範囲で清めていく。血を吸ったタオルは汚れてたらいの湯で洗った。湯も何度か交換する。綺麗にした傷は一応消毒して包帯を巻いた。

 一日もすれば魔術の効果で消える傷だが、それまでは相応の処置をした方がいい。

 単純な作業だったが、なかなか思ったようには手当ができなかった。

 サフィニアのタオルを持つ手は小刻みに震え、どうやっても震えは止まりそうにないのだ。目の前でアマリリスが苦しげに顔を歪ませているのを見ていると胸の奥が冷えて、寒くなってくる気さえする。


(大丈夫、こんなのは大丈夫よ)


 そう、何度も自分に言い聞かせて何とかサフィニアは理性を保っていた。


「サフィー」


 その呼びかけにサフィニアはびくりと肩を揺らし、慌ててオスカーに目を向けた。

 オスカーはサフィニアの不安を見て取ったのか、少し心配そうに眉をひそめる。


「今から出て来るよ。その間、一人でも大丈夫かい?」

「……もう、私は小さな子どもじゃないのよ?」


 サフィニアは苦笑してわざと明るい言葉を演じる。上手く笑えている自信はなかったが、虚勢でも張らなければすぐに気が緩んで不安を零してしまいそうだった。これ以上はオスカーに頼ってはいけない、と口元に笑みを浮かべてオスカーを見返す。

 オスカーはしばらくじっとサフィニアの様子を探るように見ていたが、ふっと笑って言った。


「行ってくる」

「うん。二人とも、気を付けて」

「すぐ戻るよ。……さぁ、イル、行こう」

「いってらっしゃい」


 オスカーとイルが連れ立って居間から出て行くのを見送る。魔物も二人に付いて出て行ったが、おそらくは玄関まで二人を見送って戻ってくるだろう。

 彼らの姿が視界から消えるとサフィニアは全身から力を抜いて、ぐたっとソファにもたれかかった。ソファに浸み込んだ濃い血の匂いがむわっと鼻を刺激する。


「アマリー……」


 サフィニアはすぐ近くにある双子の片割れの苦しげな寝顔を眺める。気が付くと視界がぼやけて、必死に我慢していた涙があとからあとから顔を伝っていく。熱い涙の滴りを感じながら、久しく忘れていた感情を思い出していた。

 

(怖い)


 初めてそれを知ったのは十年も昔のことだった。

 平穏だった日常を踏み荒らした祖国の兵士たちに、悲しげで何かの覚悟を決めた表情を残し、向かって行った両親。サフィニアをかばって敵の刃に掛かり、真っ赤な血の花を胸に咲かせたアマリリスの姿。

 全ての始まりとも言えるあの時、初めてサフィニアは死の恐怖を知った。――親しい、大事な人があっけなく傍を離れ、二度と会えなくなるという恐怖。失うことへの恐怖だ。

 禁じ手で持ってアマリリスの命を長らえさせた当時から、サフィニアは大切なものを失う恐怖にずっと憑りつかれてきた。


(怖い)


 二度と、両親のように大切な人を失いたくないと思ったから、サフィニアは魔術の研究にのめり込んだのだ。限りなく神の力に近く、世界の理さえも時に塗り替える魔術という危険で大きな力に心酔した。

 たかだか十年で魔術を一種の完成系まで到達させた実績の裏にあるのは、才能の力も大きかったが、何より失うまいとした必死さと恐怖が根底にあった。


「無茶ばっかりして……いつも、わたしを置いていっちゃうんだから……」


 上体を起こし、悲しみと恐怖に顔を歪めてサフィニアはつぶやく。

 いつも誰かに守られて。いつもサフィニアはこの世に置いて逝かれそうになる。――そんなのはもう、嫌なのだ。


「よしっ」


 サフィニアはぴしゃっと自分の両頬を手で打ち、気合いを入れ直す。きゅっと厳しく顔を引き締め直して、改めてアマリリスの状態を確認する。

 それから再び、アマリリスの治療に専念することにした。


「……目を覚ましたら、ただじゃおかないんだから」


 すぐには許してやらないわ、とサフィニアは意識のないアマリリスに小さく宣言する。

 いつの間にか、涙は止まって目は一心にアマリリスの身体に刻まれた傷に向けられていた。時には魔術も使い、サフィニアは黙々とアマリリスの看病を続けた。 



 その日の夜、サフィニアが手当の限りを尽くして疲労困憊になった頃、アマリリスは目を覚ました。


  

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