空洞の再会
学院を卒業してからの数年間、僕は人生のほとんどすべての時間を、ただ盤の前だけで過ごした。
王立魔導院への輝かしい推薦は、すべて断った。騎士団の門を叩くこともしなかった。人と向き合い、言葉を交わして擦り切れるくらいなら、無機質な盤面へ向かって思考を研ぎ澄ませているほうが、僕にとっては遥かに楽だったからだ。
戦略棋というものは、残酷なほどに言葉を要求してこない。ただ、指先に意思を込め、駒をしかるべき場所へと置けばいい。読むべきものは、すべてその冷たい盤面の上に浮かび上がってくる。
焦り。慢心。そして、絶対に退きたくないと願う者の、醜くも美しい執着。
盤上の戦いが深くなればなるほど、人間という生き物は驚くほど雄弁にその本性を曝け出す。教所の講堂では、あれほど怯え、何一つ話せなかったくせに。僕は、この四角い盤の前でだけ、ようやく世界の重圧から解放されて、本当の呼吸ができた。
気づけば、勝ち続けていた。地方棋場、王都南域戦、魔導院主催戦。
勝数を重ねるたびに周囲の喧騒は騒がしくなっていったが、それとは反比例するように、僕の個人的な世界は静かに、どこまでも透き通っていく。
“感情のない盤鬼”
いつからか、巷ではそんな大層な呼び方まで付いていた。だが、実際には違う。僕に感情がないんじゃない。その重すぎるものの扱い方を、最後まで誰も教えてくれなかったし、自分でも知らなかっただけだ。
ある夜、薄暗い自室で一人、静かに盤を並べていた時のこと。
どこかで、ずっと気づいていた。
――俺は、誰かを深く傷つけている、と。
見えてしまうから。視えてしまったその歪みを、容赦なく利用するから。
相手の焦り。慢心。退きたくない者の執着。盤戦が深くなるほど、それらが水底の砂のように鮮明に見えた。
見えたものを、最も正確に、最も致命的な場所へと打ち込む。
相手の心が、音を立てて崩れる。
それを、自分はこれまで「誠実さ」という名目のもとに、ずっと繰り返してきたのだ。盤の真実に従うこと、それだけが世界に対する誠実さだと信じていた。
でも。
本当はそうじゃないかもしれない、と。
その夜だけは、冷たい風の音を聴きながら、ほんの少しだけ思った。
けれど、そんな感傷も、翌朝の眩しい光の中には綺麗に忘れてしまった。
王都大盤宮の天蓋は、見上げるのが億劫になるほどに高かった。幾重もの魔導灯が宙へ星座のように浮かび、白い無機質な光を何条も盤面へと降らせている。
観衆の割れんばかりのざわめき。実況魔導士の昂ぶった声。壁面の巨大な魔導映写へと映し出される盤上の戦局。その狂乱とも言える喧騒の中心にいながら、僕の周囲だけは、不思議なほどに静かだった。
決勝卓への階段を上ろうとして、不意に、足を止めた。
白い術衣。黒い外套。短く整えられた髪。その隙間から覗く首筋だけが、妙に白かった。
エリルだった。
肺の空気が、ぴたりと止まる。卒業の日のあの冷たい雨以来、一度も会っていなかった。
それなのに、ただその背中、その立ち姿を見ただけで、一瞬で分かってしまった。
――ああ。自分は結局、あの石造りの回廊から、何一歩も外へ出られてなどいないのだと。
周囲から地鳴りのような歓声が上がる。怪物。天才。新世代の筆頭。
そんな眩しい言葉が、彼女の背中に向かって飛び交っていた。反対側のトーナメントの山を、無敗のまま、圧倒的な力で勝ち上がってきたらしい。
けれど、僕の胸には、拭いきれない妙な違和感だけが残った。僕の知っているエリルは、そんな、誰かを蹂躪するような人じゃない。
本当に困った時、駒の角をそっと指先で撫でる人だ。考え込むと、手元の羊皮紙の端を小さく噛む癖がある。
静かすぎる初めての講堂で、「ここ、地下から魔物でも這い出てきそうですね」と、僕にだけ少し困ったように笑ってみせた人だ。
エリルもまた、僕の気配を察したように振り返り、そこで固まっていた。
ほんの一瞬。だが、その呼吸の止まり方を、僕は誰よりもよく知っていた。
中等部の夏。二人きりになったあの夕暮れの講堂で、重苦しい沈黙が肺の奥へ沈み込んできた、あの時とまったく同じだった。
彼女は何かを言いかけて、結局、小さく視線を伏せた。僕もまた、かけるべき言葉を持ち合わせておらず、何も言えなかった。
けれど、それで十分だった。僕たちは昔から、そういうふうにしか何かを始められない関係だった。
対局の開始鐘が鳴り響く。盤脇の秒蝋へ、新しい火が灯された。
最初の数十手の間、盤面は不気味なほどに静かだった。ただカツン、カツンと、硬質な駒音だけが会場に響く。
エリルの指運びは、精密機械のように正確だった。焦りがない。無駄がない。盤面へ余計な感情を一切滲ませない。だが――。
二十七手目で、僕は鋭い違和感を覚える。
銀駒の独特な捌き。王の逃がし方。駒を捨てる順番。
その、美しくも冷酷な崩し方を、僕は知っていた。昔、学院の戦略棋研究課で、自分が好んで使っていた手筋そのものだった。正面から王を狙いにはいかない。相手の呼吸をじわじわと削るように、静かに、けれど確実に逃げ道だけを奪っていく。
偶然では、なかった。
四十一手目。今度は受け方。秒蝋が落ちる寸前の緊迫した局面で、彼女は必ず一度だけ視線を伏せる。それから、駒の角を親指でそっと撫でた。
昔からそうだった。本当に困った時、自分の内側と戦う時にだけ出る癖。
胸の奥が、ゆっくりと、錆びた鉄のように軋み始める。
――この人。
ずっと、僕の背中を見て、僕の盤を覚えてきたのか。
盤面が、ふいに底なしの深さへと深く沈み込んでいく。観衆の耳障りなざわめきが、急速に遠ざかる。
魔導灯の白い光が激しく滲み、駒が触れ合う音だけが異様なほど鮮明に鼓膜へ届く。盤戦が極限まで深くなると、ときどき、世界がこうして変質する。
世界から余計な表層がすべて剥がれ落ち、相手と、盤面と、その因果だけが残る。
気づけば僕は、あの果てしない、セピア色の草原へ立っていた。風はない。空だけが、どこまでも低く垂れ込めている。
足元には、かつて置き去りにした壊れた駒たちが沈んでいた。
欠けた鉄筆。焼けた羊皮紙。折れた杖。名前の消えた学院章。
言葉にならないまま、伝えるのを諦めたまま落としてきた大切なものたちが、透明な水みたいに草原を満たし、僕の足首を濡らしている。
遠く、その草原の向こう側で、エリルがこちらをじっと見つめていた。
あの頃と、何も変わらない。
少し不安そうで、けれど、その澄んだ瞳だけは決して僕から逸らさない。
――怖いですか。
声ではなかった。だが、その深く静かな盤面の奥底から、確かにそう聴こえた気がした。
僕は答えられない。昔からそうだった。喉の奥で、言葉が不器用にしがみついて固まってしまう。だから代わりに、僕は自らの白い駒へと触れた。
すると、エリルの駒が、吸い寄せられるように静かに応じた。
――嫌われているんだと、思っていました。
銀駒が、僕の陣地へと寄る。
――でも、見てしまったから。
角駒が、容赦なく切り込んでくる。
――盤の前にいる時だけ。カイくん、ちゃんと息をしていた。
胸の奥で、何かの駆動音が止まった。
あの日々。教室では石像みたいに黙り込んで、周囲に壁を作っていた自分。この盤の前でだけ、ようやく人間として呼吸ができていた自分。
それを、彼女は見ていたのだ。ずっと、僕の知らないところで、一人きりで。
秒蝋がぱちりと爆ぜる、小さな音。その音だけが、この静まり返った草原の世界では、世界を引き裂く雷鳴みたいに響いた。
――だから、覚えたんです。
エリルが、真っ直ぐに僕を見る。
――盤の言葉なら。
そこで彼女は、少しだけ言葉を止めた。迷うみたいに視線を伏せる、あの頃と同じ、慎み深い余白の残し方。
それから、ようやく、決意を込めて続ける。
――あなたと、本当の話ができるかもしれないと思って。
視界が、激しく揺れた。
エリルもまた、あの頃の終わらない続きを、必死に生きているのだ。僕とまったく同じように。
言葉を持てないまま。ただ、この盤の上へ、僕の呼吸を確かめに、その声を、言葉を探しに来ていた。
誰の前で心を揺らすことも許されない。沈黙したまま血を流す英雄だけが美しいと教え込まれ、自分で自分を閉じ込めた冷たい牢獄。けれど。
その暗い牢へ、盤の言葉を紡いで、こんなふうに辿り着こうとした人間が世界にいるなんて、僕は、知らなかったんだ。
駒を指先で摘み上げる。重かった。たった一枚の硝子の駒が、世界のすべてを吸い込んだように、ひどく重い。
――自分も。
ようやく、肺の底から、それだけが言葉にならずに届いた。
駒を打ち下ろす。
乾いた硬質な音が、広大な草原へとどこまでも響き渡っていく。それは、自陣を守るための手ではなかった。あの日、あの回廊で、一言も声をかけられなかった僕からの、数年越しの、命懸けの返事だった。
エリルの表情が、初めて綺麗に崩れた。
悔しいのか。嬉しいのか。それとも、もっと別の、名前のない感情なのか。
分からない。
ただ、僕に向けられたその微笑みだけが、あの頃みたいに、少しだけ愛おしげに震えていた。
対局が終わったあとも、大盤宮の喧騒は遠くでまだ続いていた。
観衆の熱狂的な声も、実況の騒がしさも、もうほとんど僕の耳には入ってこなかった。
エリルが、手際よく駒を一つずつ木箱へと戻している。昔と何も変わらない、丁寧な手つきだった。
僕は彼女の傍らに立ち、喉の奥で固まっていた澱を吐き出すようにして、ようやく、本当の口を開いた。
「……お久しぶりです」
エリルの白い肩が、ほんの少しだけピタリと止まった。それから彼女はゆっくりと顔を上げ、小さく笑った。かつて、あの静かすぎる講堂の片隅で見せてくれた、あの不器用な笑い方だった。
カイたちの、ずっと言葉になれなかった長い会話が。 白い光の降り注ぐ盤上から、今、ようやく始まろうとしていた。




