短編小説 「空を見る者」
周りが間違っているのではない。私がおかしいのだ。
#短編小説 #創作
朝になれば日が昇り、夜には月が昇る。それは誰にとっても変わらないことらしい。
だが子どものころの私には、その当たり前の空がどこか遠いもののように思われていた。
あれは九年ほど前のことである。私は文武の才もなければ、夢もない。学校へ通えば身に覚えのないことで教師に叱られ、友と呼ばれる者にも幾度となく裏切られた。
空は私に味方していない。
父はよく私を殴った。父の手は重かった。理由は大抵覚えていない。
気づくと私は畳の上に座り込んでいて、赤い血がぽたりと落ちた。その血がゆっくり畳に染みていく様子だけは、妙にはっきり覚えている。
その頃に出会ったのが師である。師は私に何かを教えたわけではない。怒ることもなければ、諭すこともない。ただ私の話を聞き、時には黙って隣にいるだけの人だった。
友と呼ぶにはどこか距離があり、教師と呼ぶにはあまりにも静かな人だった。それでも私は、その人を師と呼んだ。
師と話す時間は、不思議と心が落ち着いた。何かあれば話を聞いてくれ、私の考えを否定することもない。学校で叱られ続けてきた私にとって、それは初めての学びのようなものだった。
ある夜、二人で並んで空を見上げたことがあった。月が静かに浮かんでいる。
「お前はよく空を見るな」
師はそう言って、しばらく私の顔を見ていた。その視線の意味を、私はそのとき理解していなかった。
「空は誰の味方でもない。ただそこにあるだけだ」
私はその言葉の意味がよく分からなかった。ただ、師も同じ空を見ていることが少し嬉しかった。
しかし私は、一年ほどで師のもとを離れた。黒い空の下で血が流れたからである。
それは大したことではなかった。喧嘩をしたわけでもない。ただの事故で、私は友を傷つけた。血を見ることなど私には珍しいことではなかったから、その時も特に驚かなかった。
だが周囲は違った。教師はひどく怒り、友人たちは青ざめていた。私は謝った。反省もした。罪悪感もあった。だがそれでも、どこか冷静な自分がいた。授業が終わるころには、その反省も少し薄れていた。
すると教師は私を見て言った。
「どうしてそんな顔をしている」
私はその意味が分からなかった。
家へ帰ると、親は事情を聞いた。私は隠さず話した。叱られると思っていた。だが親が最初に見せたのは怒りではなかった。
涙である。
親は菓子折を持って友の家へ向かい、何度も頭を下げた。私はその姿を、ただ後ろから見ていた。帰り道、親はずっと黙っていた。
その時、ふと奇妙な感覚に襲われた。
なぜ皆、そこまで悲しむのだろう。
その疑問が浮かんだ瞬間、私はようやく気づいた。
周りが間違っているのではない。私がおかしいのだ。
そう思ったのに、不思議と何も変わらなかった。
家に着いたとき、親は怒らなかった。ただ、静かに泣いていた。私はその横顔を見ながら、胸の奥がひどく静かになっていくのを感じた。
今日も空には日が昇っている。師は、もういない。
それでも空は、昨日と同じ空だった。
私はしばらく空を見ていた。
あの夜の月を思い出しながら。
空を見ることが好きな主人公が、ある出来事をきっかけに自分の感覚のズレに気づく物語です。
静かな雰囲気の短編なので、よければ読んでみてください。




