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Thorn2

広場に差し込んだ一筋の光は、すでに黒い雲に飲み込まれていた。

しかし、その光が触れた領域――天使の歌声が届いた場所の空気は、鉛のような重さは感じなかった。かすかに、微温かい陽炎のようなものが立ち上り、人々の胸に留まっていた冷たい無関心を蒸発させていく。

鍛冶屋の若者ティールは、硬い地面に座り込んでいた体躯を乱暴に持ち上げた。胸の鈍い痛みは去り、代わりに熱いものが腹の底から突き上げてきた。それは、彼の魂を燃やし尽くすはずだった情熱、すなわち、夢の残骸が蘇った熱だった。

「クソッ、俺は!今日こそあの剣を打つはずだったんだ!」

ティールは、自身が失った時間の莫大さに怒り、自分の作業場へと駆け出したが、途中で戸惑いを覚えて立ち止まった。

彼の足元には、まだ歌声が届いていない、薄い灰色の霧の中に沈む男たちがいた。彼らは広場の隅でぼんやりと立ち尽くし、ティールの激しい動きにも何の反応も示さない。

「おい、何を突っ立ってる!仕事に戻るぞ!」

ティールが肩を掴んで揺さぶると、男は初めて反応した。その瞳は濁り、まるで奥に何も宿っていない。

「しごと……?」男は、その言葉の意味を考えるように、喉の奥で音を転がした。「しごととは何だ、ティール。俺たちは、ただここにいるだけだろう」

「何を言ってる!お前は革職人だ!納期の鞄はどうする!?約束した、希望を編み込んだ特別な鞄だ!」

「希望……?」男はただオウム返しをした。彼には、ティールが使うその言葉の色彩が、一切見えていなかった。

それは、ティールにとって、奪われた「痛み」よりも残酷な現実だった。彼の周囲には、目覚めて作業場へ向かおうとする者たちが数名いたが、大多数はまだ、茨に襲われ、空虚の中に居続けていた。覚醒者と無関心な者たちとの間に、見えない厚い壁が生まれていた。

一方、学者の老人レオイラーは自室へ戻り、埃をかぶった机に向かっていた。

彼は、あと一歩で到達できたはずの「真理の数式」を思い出すために、震える手で羽根ペンを握る。

「そうだ、後少しで分かるはずなんだ…!」

彼は、何かが決定的に欠落していることに気づいた。数式を繋ぐ「核」となる概念が、彼の記憶から跡形もなく抜き取られていたのだ。彼の夢は、ただの知識の羅列となり、魂を吹き込むべき「情熱的なひらめき」だけが、綺麗に消えていた。

「違う、違う!これはただの空虚だ!どうして、どうして思い出せない……!」

老人は頭を抱えた。覚醒は、失われたものの大きさを突きつける、残酷な代償だった。胸の奥に、かつて茨が掠めていった時とは違う、自己嫌悪と無力感に似た鈍い痛みが、再び彼を支配し始める。


街を見下ろす森の深奥、茨の城。

姫の周囲の茨の壁は、先ほどの一瞬の光を受けて、さらに分厚く、黒く染まっていた。城全体が、脈動する暗黒の心臓のように見える。

寝台に横たわる茨姫は、歌声が突き抜けた衝撃で、初めて明確な動揺を味わっていた。

「この歌声は、嫌だ。その声は、私から全てを奪っていく憎いものだ……」

人々の夢が光の粒として彼女に集まり、儚く消えていくが、その粒の一つ一つが、今、微かに熱を持っているように感じられた。それは、人々が取り戻しかけた「希望」の熱だった。

彼女は、自身の皮膚から抽出した鋭い棘の茨を、暗闇の中で空に向けた。その棘の先端が、城から街へと向かって、目に見えない無数の闇の根を伸ばしていく。

『……もう二度と、目覚めさせてはならない。私の幸福を、奪わないで…』

彼女の孤独な祈りが、茨の城全体を震わせた。街を覆っていた薄い霧が、突如として濃密な墨色に変わり、地面を這い、覚醒者たちを再び包み込もうとする。

広場の中央には、翼を携えた天使の姿があった。天使は、顔を歪ませて空を見上げていた。茨姫の反撃の波動は、天使自身の「光」の根源を圧迫していた。

「(まだ、歌声は届く……。届かせるんだ、彼らに……)」

天使は再び口を開き、声を絞り出そうとした。しかし、喉から出たのは、澄み切った歌ではなく、苦しみに満ちた低く、震える音だった。

茨姫の力は、人々の夢という燃料を得て、一瞬で天使の「光」の出力の上限を超えていた。歌声の力は、急速に衰弱していく。彼の背中の純白の翼も、わずかに色を落とし始めていた。

「……私の力が、届かない場所がある。この世界の人々に歌を届けなくては…もう…」

天使は、力尽きそうになる体で、広場から立ち去ったティールの作業場の方角を見やった。茨の力が、彼の頭上から、押し潰すように降りかかってきている。

天使は理解していた。このまま歌い続けても、茨姫の力に押し負け、無気力に沈む者を増やすだけだと。

<人物紹介>

ティール→鍛冶屋の若者。名前は鋼の「スティール」からきています。


レオイラー→学者の老人。有名な数学者の名前を参考にしています。

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