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Thorn1

薄い霧が街を覆い、空気は鉛のように重かった。かつて喧騒に満ちていた王都の人々は、皆、無の中にいた。

「おはよう」という挨拶はあったが、瞳の奥に光はなく、まるで昨日と同じ夢を見ているかのように無感動だ。彼らは、自分達が持っていたはずの「何か」を痛みとともに抜き取られた。決定的に残酷な贈り物だった。

鍛冶屋の若者は、打ちたかった剣の理想形を忘れた。学者の老人は、あと一歩で到達できた真理を思い出せない。そして市場でリンゴを並べる少女は、遠い故郷の家族に送るはずの手紙も、なぜか書く気がしない。

誰もが胸の奥を締め付けるような鈍い痛みを感じた。それは一瞬で、まるで(いばら)が心臓の表皮を掠めて通り過ぎたような感触だ。

痛みが去った後には、決まって、それまで彼らを突き動かしていたはずの情熱や希望──すなわち夢の残骸だけが残った。彼らは気付かない。

その痛みが、彼らの最も大切なものを抜き去った証拠だということに。


街を見下ろす森。その最も深奥、消して光の届かない場所には、分厚い茨の壁に守られた城があった。

城の中にある一室、暗黒の部屋に包まれた姫は今も眠り続けている。

名はとうの昔に忘れ去られ、世間は彼女を茨姫と呼んだ。彼女の長い髪は夜の色を映し、纏うドレスは夜明け前の空の色をしていた。

そして、彼女の周囲から、目に見えない無数の茨が伸び、町中の人々の心へと潜り込んでいく。

「ああ、まだ足りない…」

茨姫は奪って尚、満たされなかった。彼女には夢がない。希望も、目標も、愛する人も、全てがなかった。彼女は、人々が持つキラキラとした「夢」という名の光が妬ましかった。


夢とは、幸福であり、そして幻想だ。


彼女はそう信じていた。彼女自身を孤独という名の茨の中に閉じ込めたのは、かつて持ちすぎた夢が砕け散った時の激しい痛みだったからだ。


茨が人々の夢を吸い上げ、光の粒となって茨姫の元へと集まる。彼女はその粒を吸収し、夢として具現化するが、光はすぐに消え、虚しく消滅する。奪った夢は、彼女自身の空虚を、決して満たすことはない。


彼女の孤独と力の行使は、悪意ではなく、救いを求める子どもの癇癪のようなものだった。

その時だった。

茨に囲まれた重い静寂を、澄みきった一つの「歌声」が切り裂いた。それは、最も茨の力が薄い場所から響いてきた。


『目を覚まして、眠れる光たちよ。』


歌声は透明で、大地を震わせるような力強さだった。その声とともに、黒い雲の切れ間から、一筋の強い日の光が、街の広場へと差し込んだ。


広場の中央には、一人の姿があった。背中に純白の翼を携えており、その姿は明らかに人ではない。天使だった。


天使の歌声が届いた場所。そこには、夢を奪われ、無気力に沈んでいた人々の胸に、茨姫の「痛み」とは真逆の、「暖かな感覚」が蘇り始めていた。

「……そうだ。私は、今日こそあの人に会いに行くつもりだった。」

「この手で、もっと丈夫な馬車を作らなければならなかったんだ!」


人々の瞳に、一瞬だけ、力強い希望の光が宿る。茨が作り上げた冷たい無関心が溶け、忘れていたはずの夢が、鮮烈な色彩とともに脳裏を駆け巡った。

歌声は長くは続かなかった。 天使の力が届く範囲は限られていたからだ。

茨の城で、茨姫は初めて夢の中で動揺を感じていた。彼女の力の作用が、一時的にせよ、打ち消されたのだ。周囲の茨がざわつく。

「お願い、辞めて…。」

茨の力を強くし、歌声が響かないように城だけではなく、彼女自身をさらに囲んだ。その眠る姿は怯え、震えているようだ。彼女の孤独と虚無を慰めるために奪ってきた人々の夢を、暖かな希望で塗り替えようとする存在。

それは、彼女の唯一の「幸福」を穢す、憎むべき敵だった。


彼女は、自身の肌から、一本の鋭い(とげ)を持つ茨を抽出した。


「幸福を私から奪わないで。…これは私の夢なんだから。」


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