16回目③
16回目③
森林階層──それがダンジョンの6階から10階に広がる、自然模した異形の領域だと知った時は驚いた。地上のようでありながら、空気にはどこか閉塞感が漂っていて、息をするたび土と魔力の混ざったにおいが肺にしみ込む。
俺たちはこの階層で生活費を稼ぐことにしていた。主な仕事は素材の採取。薬草、魔樹の枝、時には珍しい果実も収穫できる。ギルドでも需要が高く、換金率も悪くない。
「この辺りの《紅焔草》、しっかり乾燥させれば火属性魔法の触媒になるのよ」
母がそう言いながら、手際よく薬草を束ねていく。父もすっかりベテランの雰囲気で、魔物の警戒をしながら黙々と採取に励んでいた。
この階層では《火》が弱点となる魔物が多く、冒険者たちはつい火を使いたくなる。しかし、ひとたび火が広がれば、この森の構造は一変し、災厄の舞台と化す。
特に危険なのが──虫だ。
この森林階層には《燐蛾》《灰蜻蛉》と呼ばれる、火に強く引き寄せられる魔物が生息している。焚き火の灯に集まった彼らが、火をまとったまま飛び回ることで、周囲に火の粉を撒き散らし、爆発的な延焼を引き起こす。
「だからね、焚き火をするなら絶対に《防火結界》か《遮光シールド》を使うのよ」
母が念を押すように言うと、父も頷いた。
「火はな、便利だが同時に最も危ない。特にこの森の中ではな。昔、それで仲間を一人亡くした」
……気をつけよう。慎重になりすぎて損することはない。
◆◆◆
王都の商業区を、俺たち三人はほぼ日課のように散策していた。
「今日もいないね……」
何気ない呟きに、母が優しく笑う。
「会えるといいわね。あなたがそう思える誰かに」
俺は頷きながら、けれど心の奥底では“誰か”じゃないことを自覚していた。
──彼女だ。
村長だった頃、屋敷に飾っていた彼女の肖像画。何十年も共に過ごした愛しい人。
その面影を、今日も探していた。
そして──いた。
それは偶然だったのか、神の悪戯か。
雑踏の中、彼女は確かにいた。画の中の姿そのままに、少しだけ背伸びした少女の姿で。
「……」
思わず駆け寄る俺。隣には両親がいたが、構っていられなかった。
もう何度も、何度も失ってきた。今度こそ、話をしたい。
「ごめん、ちょっといいかな!」
彼女が立ち止まり、振り返る。
「……なに? あなた、子供でしょ?」
ああ、そうだ。この流れ。だけど、今回は違う。老人口調は、もうない。
「えっと、急に声かけてごめん。でも、君のこと、ずっと──」
「……はぁ」
彼女は、俺の後ろをちらりと見る。
そこには笑顔の父と母。俺と手を繋いで、少し後ろからついてきていた。
「──いい年して、親とべったりなんて気持ち悪い」
世界が、音を失った。
何かを言い返す前に、彼女は立ち去った。
まるで、何もなかったかのように。
俺は、立ち尽くしたまま動けなかった。
沈黙の中、父が軽く笑いながら、俺の頭に手を置いた。
「気の持ちようだから、気にするな。な?」
母はやや強めに俺の背を叩いて、にっこり笑う。
「そんな子一人だけじゃないわよ。他にもいっぱいいるんだから」
──違う。そんなわけない。
俺は、彼女と“実際に”過ごした記憶を持っている。
彼女と、村長として、妻として、幾度も日々を重ねてきた。
たとえそれが過去の時間でも、虚構ではない。
* * *
次の日、俺は一人、ギルドに申請を出していた。
「しばらく、一人にさせてほしい」
両親は驚いていたが、事情を話すと、しばしの沈黙ののち、了承してくれた。
「無理するな。気が済むまで潜ってこい」
父の声が背を押した。
森林階層の採取エリアに、一人。
疲れた心を休ませるつもりで、森の静けさに身をゆだねる。
夕暮れが近づき、冷えてきた空気に、俺は小さな焚き火を起こした。
──あぁ、温かい。
……虫除け? 結界?
頭の片隅で、警鐘が鳴っていた。けれど、気が回らなかった。もう、何もかもがどうでもよかった。
そして、次の瞬間だった。
──燃えながら飛ぶ《燐蛾》が、俺の視界を横切った。
「……しまった」
火は、枝から葉へ、葉から樹皮へ、樹皮から周囲へ──
まるで生き物のように広がり、数十匹の火をまとった虫たちが火の粉をばらまく。
それは、まさしく“飛んで火に入る森の虫”。
あっという間に、森は赤く燃え上がり、立ち込める黒煙の中で──俺の意識は、また途切れた。
《おぉ!使徒よ! 死んでしまうとは、情けない!》
《これからも我を愉しませよ》