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ドゥイノの悲歌

作者: 疋田ブン

WER, wenn ich schriee, hörte mich denn aus der Engel Ordnungen? 

ボクは、この『ドゥイノの悲歌』の第一悲歌の出だしを見たとき、これはただならぬ詩集だと思いました。しかし、この詩集を理解するには、相当の根性もいるなぁ……、と思ったものです。

ボクの訳が、読者の皆さんの、この詩集への理解につながれば、嬉しいです。

ちょっと、ごめんなさい。面倒な前置きをいくつか書かせください。


『真理など目には見えない。その上分かりにくい。そんなやっかいな真理を、どんなに巧みな言葉で説明しても、的確に伝えることは出来ない。むしろ曖昧な比喩やビジュアルを使った方が、ピンと気づかせることが出来る』と、昔から言われています。確かに、そうかもしれません。

さて、リルケの詩は、含みでいっぱいです。リルケは美しい含みで真理を詠おうとします。それに、その含みを楽しんでもらおうと、相当の配慮もしています。そもそも含みはボヤッとしています。ボヤッとしたものは、時々刻々と変化する人間に、常に新鮮な気づきの悦びを与えてくれます。含みこそ、リルケの詩にふさわしい手法です。ただこの手法には、ボヤッとした含みにピンとくる勘が重要になります。勘はやっかいなもので、後天的に育むものより先天的なもののほうが、やはり鋭いのです。つまり、リルケの詩の理解は、宿命と言うものに支配されているのかもしれません。分かる人だけ分かればいい。そう切り捨てられる。それは嫌なことではないですか? ボクも切り捨てられそうになりました。そこで何度も何度も読み込んでみました。読み込んで見えてきた事を、出来るだけ分かりやすい言葉で、表現してみたくなりました。含みに抵抗したわけです。表現するのに、どうしてもオリジナルにはない言葉や文章を付け加えなければならない場面がありました。細かく語り過ぎもしました。当然、リルケの詩は汚れました。これはボクの本意ではありませんでした。いけないと思いました。もう一度、もう一度と手直しを繰り返しました。その手直しの限界ぎりぎりで表現したのが、この『ドゥイノの悲歌』です。


リルケが駆使した含みについて、くどいほどに解説を入れようと思っていました。この悲歌はこれこれ意味がある、とか、あの悲歌はしかじかの意味を持つ、などです。ただ、その解説が正しいものなのか、自信はありませんでした。そもそも含みで表したい真意などは、その含みを文章にする本人にも、明確には分かっていないのではないかと思うのです。つまりリルケも、ボヤッとする啓示のようなものを、とにかく美しい含みある言葉で表現しただけではないか、とそういうふうに思うのです。いや、ひょっとすると美しい表現を書いて、それにうっとりしていただけ……。それも否定は出来ないと思うのです。


リルケの時代には、史上初めての大掛かりな戦争があって、科学技術がびっくりするほど発達しました。そのちょっと前の時代は、教会と農業と手工業が社会を動かしていました。その頃の人々は、大真面目で神様を信じていました。ところが、大戦争と科学技術は、神様の存在に『?』を投げかけました。感じやすい人々は、神様に変わる何かを求めようとしました。突き詰めていった先に、孤独がありました。いかにも現代人らしいです。彼らは考えました。孤独ゆえに、何をなさなければならないのか? そもそも孤独とは何か? 真剣でした。リルケは、そんな人のひとりだと思います。


『ドゥイノの悲歌』には、よく『天使』が登場します。この『天使』は、神様と人間との間を行き来する、あの『天使』ではないようです。どうも、『絶対』と人間の間を取り持っている存在、あるいは『絶対』そのものようです。では『絶対』とは何なのでしょうか? カント風に言うならば、『人間の理知を越えた、と言いながらその人間が想像した、非常に崇高で完璧な宇宙(自然)の摂理』だと思います。その摂理とは、本物の『真』『善』『美』です。リルケは、『ドゥイノの悲歌』で、この『真』『善』『美』を、手を変え品を変えて詠っています。


5 最後に

悲歌エレゲイアー・エレジー』は、六韻律と五韻律の長短の行が一対になって繰り返されます。『ドゥイノの悲歌』はそのルールとはちょっと違い、語調の強弱と、ドイツ語の音楽的響きを重視して書かれています。これをそのまま日本語で表現する事は、不可能なのです。また、そのリズムと響きにとらわれ過ぎると、詩の意味が分からなくなってしまいます。申し訳ないのですが、そこはズバッと無視しました。


 第一の悲歌

            

ボクが大声で呼びかけたとして、あの高いところにいる天使は、

はたして耳を傾けてくれるだろうか? 万が一、天使の序列につらなるひとりが聞きつけ、

気まぐれに地上に降り立ち、ボクを「どうした?」と抱きしめてくれたとしよう。

ところが当のボクは、天使の強烈な存在に、焼き滅ぼされてしまうに違いないのだ。

ボクたちが美しいものを見て、賞賛する程度でことが納まっているのは、なぜだと思う?

それは『美』が、ボクたち人間を本気で相手にすることを、面倒くさく思っていてくれるからなのだ。

天使とは、実は恐ろしい存在なのだ。 

ボクたちは、天使の恐ろしさにおののき、泣き声をおし殺し、呼びかけを諦めるべきなのだ。

ではボクたちは何に頼ればいいのだろうか?

天使を頼れば焼け死ぬ。弱ちょろい人間なんかまったくあてにならない。

動物なんかは、人間が小賢しいことを口にする割には、

自分で意味づけたこの世界に、ちゃんと居ついていないと見抜いている。

となればボクたちの頼れるものとしては、

日ごろ何気なく目にしている、あの斜面の樹とか、昨日歩いたあの道とか、

身体になついているこの癖とか、そんなものじゃあないだろうか?

あっ! それに『夜』というものがある。世界空間をいっぱいはらんだ風が、

ボクたちの顔を洗ってくれる『夜』。

待ち遠しくて、———せつない気持ちにさせてくれる『夜』。

やさしく幻滅と言うものを説いてくれる『夜』。ひとりひとりが、思いを深める『夜』。

『夜』は間違いなくボクたちが頼れる身近な存在だ。ただし、『夜』に愛し合う者たちに『夜』の安らぎは理解でき

ないのではないだろうか。

いやいやそんなことはない。愛し合う者たちは自分を誤魔化しながら、空虚を抱きしめているだけなのだから。

キミはまだ、それを見破ることが出来ないか? キミも、その胸に抱えている空虚を、

いっそのこと、ボクたちが呼吸しているこの空間に投げ出してみてはどうだろうか? 

きっと鳥たちは、嬉々とした羽ばたきで、空間がどれだけ広がったか実感するだろう。


年ごとに巡ってきた春は、キミに賞賛されたいと思っていたはずだ。

輝く星々は、キミに感動してもらいたいと望んでいたはずだ。

過去の思い出は、大波となってキミに思い出して欲しいと襲い掛かってきたではないか。

開かれた窓から聞こえたあのヴァイオリンの音色も、

キミに身体を傾けてきたではないか。

万物は、愛して欲しいとボクたちに身をゆだね、同時に愛しているよと手を差し伸べてきたではないか。

ところが中途半端なボクたちは、それらに応えてやらなければならなかったのに、

無用なことに気を散らし、例えば見るもの聞くものに、

身勝手な期待を抱いて、色恋の安易な空想を膨らませはしなかったか。

ひょっとすると、景色や音楽に恋人との出会いを予感したりしなかったか。

『夜』こそ、思索を深める時なのに、情欲の思いばかりに振り回されたりしなかったか。

どうしても情欲に勝てないのなら、あの報われない愛に生きた女たちに思いを馳せてみるのはどうだろう。

彼女たちの心情は、永遠に讃えられるほどには、まだ(うた)いつくされてはいない。

愛に報われなかった彼女たちは、激しい熱愛に生きたと自称する誰よりも、

真実の愛に向き合うことが出来た。それは妬ましいほどだった。

詠っても、詠っても、詠いつくせない彼女ら。誉め言葉の限りをつくして彼女らを讃えよう。

英雄は、自分の没落さえ喜んで受け止め、

それを永遠に輝く伝説のための、ひとつの口実にするではないか。

しかし、彼女たちを愛で燃やし尽くした自然は、

このようなことが二度と起きないように、その燃え滓を自身の内側に葬った。

そう言えば、ボクは※ガスパラ・スタンパの生涯を、

本気に詠ったことはあったか?

失恋の少女が、ガスパラの崇高な実例に憧れるように語ったか?

今こそ、あのガスパラの古い苦しみが、豊かでより深い生を全うさせるための、

気高い模範になるべき時ではないか。愛しながら、

愛する人から解放され、その自由のうえで、報われぬ愛をじっと悦ぶ心情。いよいよ、それを理解する時がきたようだ。

それは、張りつめた弦に耐えきれなくなった矢が、矢以上のものになって、

飛び立つようなものだ。そうなのだ。本来、ボクたちに留まるところなど、どこにもないのだ。


声がする。ボクたちを呼んでいる。その声を真剣に聴こう。

まずは、昔の聖人がやった同じやり方で聴こう。その偉大な声は、

聖人たちを天に引き上げたのだから。しかしその聖人たちですら、

ひざまづいただけで、引き上げられたことには気がついていなかった。

それほどに聖者は一心不乱だったのだ

間違ってはいけない。神の声を聴けなどと、大それたことを言っているのではない。

第一、神の声を聴くことなど、ボクら人間が耐えられるものではない。

ただ、静寂で組み立てられた風のような音を聴けと言っているのだ。

ただじっと耳を傾けるのだ。そうすると、

どうだ、聞こえないか。あの気配。あの気配こそ夭折した者たちがボクらに呼び掛けてくる声なのだ。

かつて旅したローマやナポリの教会堂で、夭折した者たちが、

ボクに語りかけてきた声と同じだ。

先日も、サンタ・マリア・フェルモーサ寺院で死者が墓碑銘をとおして、ボクに何かを頼ってきた。

死者たちはボクに何を頼もうとしていたのか。彼らはこう頼んできた。自分達を包んでいる悲運の外観を

剥ぎ取って欲しいと。

彼らは、自分たちの純粋な働きが、夭折と言う悲運の先入観で邪魔されることを恐れているのだ。


夭折した者が、下界の住処を失ったこと、

覚えたばかりの習慣を捨てなければならなかったこと、

バラの花や、その他の様々に美しいものに感動し、

その美しさに意味を与えられなくなったこと、

いつくしみ深い人の手に抱かれなくなったこと、

与えられた自分の名前さえも、

壊れたおもちゃのように捨てなければならなかったこと、

人や物とのかかわり合いの一切合切がばらばらになり、その破片を傍観すること、

そもそも、地上の望みが絶えたこと、

これらはただならぬ辛さだと思う。

そして死とは、そもそも困難な(わざ)であり、やり残した仕事を続けなければならないところと言われている。

時間はかかるが、この努力によって、死者たちに微かな永遠が感じられるようになるとか。

———しかし、生者と死者をあまりに厳しく区別するのは、

ボクたち生きる者の犯しがちな過ちだ。言い伝えによると、

天使は自分の歩いているところが、

生きている者の国か、死んだ者の国か、その区別は出来ていないとか。

時間の流れは、生と死の両界をつらぬいて、あらゆる世代と時代を引き連れながら、

轟音とともに、生者も死者も、飲み込んでいく。


やがては、夭折した者たちもボクらを必要としなくなるだろう。

あかちゃんが、お母さんの乳房を離れて成長していくように、

死者たちは静かに地上の習慣から離れていくのだ。こうやって死者との頼り頼られる関係が薄らいでいくのだ。

しかし、哀悼(あいとう)の気持から真実が生まれると信じるボクらが、

死者の力なくして、生の深淵に向き合えることが出来るのだろうか? 心配はしなくてもいいようだ。

その昔、自分の美しさゆえに死んでしまったリノスと言う青年がいた。

そのリノスの死を(いた)む泣き声は、音楽の初めになったそうだ。渇き切った地上の隅々にその泣き声は染みわたった。

この伝説は無駄ではない。事実、神と言ってもいいこの青年の突然の死が、

形をなした空虚となり、空虚は振動となり、振動は詩の初めとなった。

振動は、生の深淵を気づかせ、今もボクたちの心をなぐさめ、魅了し、力づけてくれているのだ。


※ガスパラ・スタンパ 

16世紀のイタリアの女流詩人。彼女のことは『マルテの手記』でも触れられている。ガスパラは、コラルティノ・コラルトオ伯爵が好きだったようで、いくつもの熱烈な詩を贈っていています。しかし彼女の気持ちは伯爵には通じなかったようです。この第一悲歌はで、片思い物語の人物を、彼女たちと表現しています。リルケの『ポルトガル文』の元となった手紙を書いた、ポルトガルの尼僧のマリアンナ・アルコフォラドも、報われない愛に生きた女の一人に、含まれていると思われます。




第二の悲歌

            

すべての天使は恐ろしい。貴方たち天使は、ボクたち人間のことを、とるに足らない存在と思っているのだ。

貴方がたは、気分次第でボクたちを瞬殺できる『翼を持った魂』。

その事実を、知り抜いているボクが、敢えて貴方がたに問いかけたい。

ボクたち人間と貴方がた天使が、優しい関係を持っていた、あの※トビアスの時代は、どこに去って行ったのでしょう 

か?

至高の輝きを放った貴方がたのひとりが、その威光を押し隠し、みすぼらしい旅人の装いで、貧者※トビアスの家の戸

口に立ったあの時代のことです。

(トビアスの好奇心いっぱいの目に映ったものは、自分に向き合うただの青年の姿だった)

このトビアスの前にお立ちになった大天使、今では恐ろしい存在になってしまわれたあのお方が、

星々のはるか彼方より、ほんの一歩ボクたちのほうに近づいたとしよう。

すると、ボクらの心臓は早打ちを始め、ボクたちは死んでしまうのではないだろうか。天使よ、貴方はいったい何者ですか?

  

  神が最初に創った最高傑作、全創造物のヒーロー

  宇宙の大スター、朝日を照り返す雪の山頂、

  一万年に一度だけ咲く花の花粉、

  光線、多柱廊、豪奢な階段、玉座、

  宮殿の礎、喜びの盾、魂を持ち去る

  陶酔の嵐、そんな存在でありながら、個々の天使のなすことは静かな

  鏡、流れだす自分の美を、自分の顔に汲み戻す者。


それに比べてボクたち人間は、物に感じたはしから、霧散して無になる存在。この五感を、

息として吐き出すばかりで、それを自分の内側に留めることができない存在。薪の燃え痩せていく火。

その赤味はかすかな香りを残して痩せるだけ。いつかはこのボクにさえ、

「あなたは私の血の中で生きています。この部屋も、この時間も、

あなたを思う気持ちで、溢れかえっています……」などと、嬉しいことを言ってくれる人も現れるだろう。しかしそれが何だと言うのか。そう口にする人の内側に、ボクが永遠に留まるわけでもないのだから。

ボクたちは、その優しい言葉を言ってくれた人から、あるいはその人の周辺から、やがては消えゆくのだ。

どんなににキレイな人の容姿も、それを保ち続けることは無理なのだ。

今、顔に留まっている輝きは、やがて必ずなくなってしまう。

葉脈にとどまる朝露が乾くように、熱い飲み物が冷めるように、

どこかに去って行くのだ。

その顔に浮かぶ優しい笑みは、どこかに去って行く。そしてアナタを見つめるこのボクの眼差しも、

そしてアナタを思うボクのこの熱い思いも、やがてどこかに消えて———?

しかし、これがボクたち人間なのだ。では死んだボクたちは、

宇宙空間に漂う匂いぐらいには、なれるのだろうか。

そうだとしても、天使に受け入れられるものは、

ただ天使に属するものだけ、天使自身からあふれ出すものだけ。

それとも、ボクたち匂いのいくぶんかが、何かの間違いで、

天使の属性に紛れ込むことがあるのだろうか。妊婦は時おり漠然とした不安を顔に表す。

その程度には、天使の表情に、ボクらの匂いは漂うのだろうか。しかし、天使は自分の属性を自分の中で掻き回すことに夢中で、

自分に紛れ込んだ人間の気配など全く気にもかけてはくれない。天使がそんな微細なモノを心に留めるわけがない。


しんしんと深まる夜気に包まれる恋人たちは、気の利いた言葉を知っているのなら、

そのひとつでも口にして、強く抱き合うだろう。しかし自然は、

ボクたち人間に何か大事なものを隠し、それを誤魔化しているように思えるのだ。ほら、あそこに樹々が見える。

それにボクたちが生活している、

家も確かにあって、事実それが見える。しかしボクたちは、

絶えず替わる疾風のように、すべてのものの傍らを流れ過ぎていく。

自然はしめし合わせたかのように、人間を無視し、なかばバカにしながら、

同時に、自分たち自然のことを語ってくれる存在として期待しているのだ。


恋し合っている人たちに、寄り添って至福を感じている人たちに、

ボクは、人間の存在について尋ねたい。

手と手を握り合っているが、それだけで、相手の存在の証はたてられるか。

このボク自身は、右の手と左の手が触れあったとき、

やっと、自分に左右があることに気づくのです。あるいは疲れ果てた、

自分の顔を両手で包んでホッとするとき、安らいでいる自分を感じられる程度なのだ。

だが、たったそれだけのことで、ボクは本当にここに存在していると確証できるのだろうか。

互いを刺激してオルガスムスに達した恋人たちよ。

感極まって「いっちゃう。もう死んでもいい」と叫ぶ者たちよ。愛撫に愛撫を重ねて、

熟れたブドウのようになった者たちよ。

恍惚で身体も心も蕩けそうになった者たちよ。

絶頂で一つに溶けあった者たちよ。ボクは、アナタがたに尋ねたい。それで相手の存在を実感できたか? ボクは知

っているのだ。

アナタたちの肌と肌を摺り合わす陶酔が、じゃれ合う愛撫の交感が、時間を止めたように錯覚させていることを。また、

セックスに溺れる場所であるベッドが消滅しないように、

愛もまた、永遠に続くように思わせていることを。

こうしてアナタたちは、肉欲の快感の罠にはまって、永遠と言うものを得たように勘違いをしているのだ。

だけどよくよく考えてみよ。出会って愛しはじめた頃の、

眼と眼を見つめあったもどかしさや、会いたい気持ちの切なさや、

初めてのデートの恥ずかしさは、どうだろう。

あれからずいぶん時間は過ぎたが、今ではその気配すらないのではないか。

それでもアナタは、愛が永遠に続くものだと信じられるか。つま先立ちになって、眼と眼を見つめ合って、交わしたキス。

キスをする人は、キスと言う行為で、自分自身を見失っているではないか。


アナタたちは、アッティカ時代に刻まれた人間の像の初々しさに、

驚かれたことはないか? そこでは、愛や離別といったテーマが、

カップルの両肩の上に、フワッと軽やかに、

ボクたちの時代とは違った素材で彫り出されているのだ。その二つの手を想像してみよ。

二人は力あふれる身体を持ちながら、羽毛のようにそっと互いの肩の上に手を添えている。

自分と言うものをわきまえていた彼らは、この軽やかな接触が、ボクたち人間の限界であることを、

そして、そのようにソッと触れ合うことが、ボクたち人間の定めであることを、知っていたのだ。

神々なら、ボクたちにもっと強い力を加えるが、それは神々にのみ許されたものなのだ。


ボクたちも、ほんものの、つつましく、ささやかな、

河と岸に横たわる、人間に相応しい、一筋の耕地を見つけだせればいいのだ。

そう願う、自分を乗り越えようとする心に、今も昔も変わりはないはずだ。

それなのにボクたちは、心をあの時代の人々のように見ることは、もうできないのだ。

心を、和らげ静める像のなかに入れても。

心を、もっとおおきな節度を持つ、神々の像の中に込めたとしても。


※ トビアス

  『聖書』の外典『トビアス書』に登場する人物。その内容は次の通り。

老トビアスが病んで貧者に陥ったので、息子の青年のトビアスをメディアにつかわし、以前に人に貸した金を集めさせようした。そのとき、天使ラファエルが青年の姿となって、トビアスを守りながら道案内をし、無事に旅を終わらせると、再び天使の姿に戻って消えた。


第三の悲歌

            

愛する人を詩にすること、それと、血の河に隠れ棲む、

『欲情』の河神を詩にすることを、混同してはいけない。それは全く別のものなのだから。

恋に夢中の少女は、遠くからでも恋人の少年を見分けられる。ただ当の少年は、

少女の純真な気持ちを無視して、自分自身の中で、

奇妙な液体をしたたらせながら、

巨大な鎌首を持ち上げるものを、抑えることが出来ない。

それどころか、その正体が何なのか、まだ分かっていないのだ。それは、

闇夜を掻き回す得体のしれない『欲情』の海神。

恐ろしい三叉の矛。

ねじれた法螺貝から沸き起こるどす黒い息。

夜は窪み、また傷つき、うつろな叫び声をあげる! 夜を飾る星々は、

少女の微笑みに惹かれる少年の心そのもの。そして、

少女に向ける初心な少年の瞳は、清らかな星々から学んだものではなかったか?


少年の眉が優しい弧を描くのも、

唇が甘く緩むのも、彼が、

少女に惹かれたからとも、優しい母親をいたわったからとも、

言い切れないのだ。

少女よ。朝風のように軽やかに歩くアナタたち少女の姿が、

少年の心をときめかしたとでも思っているのか? 違うのだ。

確かに、少年はアナタたち少女を見て気持ちが揺れた。ただしそれは、

大昔から累々と引き継いだ『欲情』が、少年の身体の中に溶け込んだからなのだ。

アナタたち少女は、少年を揺さぶって、理性に目覚めさせてあげなければならない。

しかし少年を暗い『欲情』から、呼び覚まさせることは出来ないだろう。

少年もまた、『欲情』から抜け出ようと必死にもがき、

アナタたち少女の優しさに身をゆだね、そこを隠れ家として、理性を持った自分を取り戻そうと、やっきになってい

る。

しかし少年は、一度もそれに成功したことはない。

ところで少年の母親よ。アナタは彼を、汚れなき可愛らしい人間として産んだ。

アナタは幼い彼にうなずきかけながら、慈愛の化身となって身をかがめ、この世の脅威から彼を護った。

そのほっそりとした身体で、沸き立つカオスの前に立ちはだかったのだ。

そして、暗がりに蠢く不気味なものを、彼の目からかくした。

怪しさにみちた夜の部屋で、アナタの胸に宿る慈愛の空気を、

子供を襲う暗闇の空気に吹き込み、その敵意を希釈させた。

アナタが灯を運んで来ると、闇に光が置かれると言うのではなく、

その慈しみ深い輝きによって、母性で子供を包んだのだ。

そんな柔らかく暖かかった歳月は、どこに消えていったのか?

家のどこかがギイと軋んだら、アナタは微笑みながらその理由を語ってやった。

床板がいつ騒ぎ出すのか、ずっと昔から知っていたかのように話してやった。

子供たちは、アナタの言葉に聞き入って不安をやわらげた。

アナタは子供たちに、これほど多くのことを、優しくなしとげていったのだ。

子供を襲うこの世の恐怖は、すっぽりとマントを被り、戸棚の後ろに隠れてしまった。

そして子供を不安にしていた未来は、さっと逃げて、カーテンの襞々に身を包んでしまった。


そして彼は安心して瞳を閉じ、

しだいに眠くなり、夢うつつの境目に、ママの優しい姿を溶かし込んで、

その甘さをゆっくり味わいながら———、

自分はしっかり護られているのだと思った……しかし、彼のもっと深い内部はどうだったのか?

眠っている彼らは無防備だった。

悪夢におののき恐れながら、

世代を越えて受け継がれてきた『欲情』の侵入を許してしまった。眠りながら、

 ———熱にうなされる未熟な彼ら。

『欲情』は、おろおろ戸惑い熱にうなされる彼らを巻き込んで、

絡み合う蔓草となり、あるいは奇妙な図柄になり、

息の根を止めるほどの密林となり、またあるいは疾駆する野獣の姿となり、

彼はそれらにがんじがらめにされ、———やがて、それらに織り込まれ、

すすんで身をゆだね、愛しさえしたのだ。彼は内側に現出した荒れた密林を愛した。

湿って鬱蒼とした森の中には、朽ち果てた木々が横たわり、

その木の枝の亀裂から、彼の心は若芽となり頭を覗かせ、見えた景色を愛した。

いや、愛すに留まらず、若芽はさらに成長し、

遠い原始の世界に、喜びながら根を伸ばした。その生命の谷底には、

ボクたちの祖先の血の中に、『欲情』と言う恐ろしい怪獣が横たわっていた。

この怪獣は彼に、お前のことはよく分かっているよと、

ウインクをしてみせたのだ。いえ、微笑みさえ送った。……お母さん、

アナタでさえ、これほどに優しい微笑みを送ったことはあったか?

微笑みかけられた彼は、この怪獣を愛さずにはいられなかった。なぜならこの怪獣は、

お母さん、アナタより先に、アナタの息子を愛していたからだ。

アナタが彼を身籠ったとき、その羊水にすでに溶け込んでいたのだ。


ボクたちは野に咲く花のように、たった一年で愛を終わらせたりはしない。

ボクたちが愛の行為に耽るとき、

太古から引き継いだ本能の樹液に身体を浸すことになる。

するとお嬢さん、こういうことになる。

アナタが愛したものは、ひとりの人間ではなく、未来でもなく、無数に絡み合った過去なのだ。

アナタは、谷間に横たわる、崩れた山の残骸のような祖先の男達を愛したのだ。

涸れた川床のように横たわる祖先の女たちを愛したのだ。

それは雲に覆われた宿命、

あるいは晴れわたった宿命の下の、音のない全風景なのだ。これがお嬢さん、

アナタが生まれる前からあった、太古からの愛の原風景なのだ。


そしてお嬢さん、アナタが少年の内側に、

太古から引き継がれた彼の原風景を誘い出したのだ。それはつまり、

もうこの世にはいない男たちがよみがえったと言ってもいいことなのだ。

過去の女たちが、アナタに嫉妬している。過去の暗い男たちを、

アナタが愛する少年の血管の中によみがえらせたのだから。さらに言えば、死んだ赤ちゃんが、

再び生き返り、アナタの胎内に宿ろうとしているのだから。出来ることなら、そっと、そっと、

アナタのつつましい日々の営みで、迷える少年を穏やかに包み込んで欲しい。

平和で満ち足りた庭園へと少年を誘ってほしいのだ。

そして星々が輝くあの夜空の重みで、

            ……彼を抑えてほしのだ。



第四の悲歌


命の樹に尋ねてみよう。冬が訪れるのは、いつごろだろうか?

季節に順応している植物にひきかえボクたち人間は、自然の流れに乗れず、

時には追い抜かれ、気分や心を自然に溶け込ます大切な機会を逃し、

風の気配にハッとして飛び立ち、

あわてたせいで、冷たい池にドボンと落ちてしまう。そんな渡り鳥のような存在になり下がっている。

それなのに、自然界の生き死にの宿命は、ちゃんとわきまえているのだ。

こうしている今も、ライオンは過酷な原野の中を、

自分の死の宿命を知らず、生を謳歌して、悠然と歩いている。


ボクたち人間は、ひとつのことに夢中になっていても、

それ以外のことにも、いらぬ気をつかってしまうのだ。

つまりボクたち人間にとって、矛盾とは、馴染み深いものなのだ。愛に夢中になっている者は、

かたく抱き合う相手に、束縛と安らぎを求める。が同時に、

その相手との間に、断崖のような行き止まりを見つけたりもする。

人間はその行き止まりのキワを、荒っぽいスケッチとして描くために、

行き止まりの先の景色が色彩を帯びて、目に見える境界が、そこに現出するのを期待する。

ボクたちは、自分の感じる力だけで、境界を意識することはできないのだ。

明確なものを与えられることを、いつも求めているのだ。

つまり、外側が輪郭を引いてくれることを待っているのだ。

ところで、自分自身の心の幕開きを前にして、不安をいだかない者がいるだろうか。

さあ、幕が上がった。舞台は『わかれ』のシーン。

お決まりの筋の台本だ。書割は例の庭園だ。

書割はちょっと揺れている。さあ、役者の登場だ。

でも、ダメだ! こんな役者は願いさげだ。もうたくさんだ。彼がどんなに器用に演じたとしても、

これは偽物だ。一皮むけば、ただの俗っぽい人間に戻り、

共同キッチンを通って自分ベッドに潜り込む。そんな、

中途半端な仮面を被った、まがいものの役者など、クソくらえだ。こんな役者を出させるぐらいなら、

むしろ人形のほうがましだ。人形は詰め物で満たされ、

あやつる針金にも、不格好な胴体や外見だけのその顔にも。

ボクは我慢できる。さあ、人形劇が始まるのを待とう。

劇場の灯りが消され「もうおしまいの時間ですよ」、

と言われても、舞台から人気(ひとけ)のなさが、

灰色の隙間風といっしょに吹きつけて来ても、

一緒に座っていた、無言のご先祖さまや、

ただひとりの女性や、あの変わり者の斜視の甥っ子までもが、

みんな、座席からいなくなったとしても、

じっと、舞台を睨んで、ボクはここに居座っていよう。


詩人らしい浮世離れしたボクの生き方は、許されてもいいものだろうか? 父さん!

このボクを本当の意味で理解してくれたお父さん。

成長するにつれて、だんだん露見してきたボクの本性の、

かなしい色の苦い抽出液を、いつも真っ先に顔をしかめて、飲んでくれたお父さん。

世間になじまない、ボクの未来を心配してくれたお父さん。

利口ぶったやぶ睨みで見つめるボクを、じっと見守ってくれたお父さん。

お父さんは死んでしまってからも、ボクが希望に満ち溢れてご機嫌だったときでさえ、

ボクの内側で、幾度も幾度も、不安を抱かれていましたよね。

死者だけが持つ平静を、穏やかな世界を、

ボクのひねくれた宿命のために、放棄なさったお父さん。

そして、ボクが愛した女性たち。ボクは許されてもいいのではないか?

詩人が人を愛することなど、ありえるのだろうか。

ボクがアナタに近づくことは、アナタから遠ざかること。

詩人の複雑な感情にふりまわされたアナタたちの顔は、空虚だ。

そして、その顔にアナタたちはもう、いない。

始まらない人形劇の舞台を前にして、ひたすら待ち続けるボク。

全身全霊で舞台をじっと凝視していたら、

この執拗な凝視のはてに、人形遣いとして、ひとりの天使が現れるだろう。

凝視するボクの姿勢が、天使を呼び出すことに成功するという次第だ。

天使と人形が揃えば、

本物の美しい劇を観ることが出来る。

そのとき、そこにいるというだけで、

ボクたちが分裂させてしまったものが、

はじめて合体し、

世界をめぐる森羅万象が、

完全な円となって結ばれ、動き始まるのだ。

この完璧な人形劇を観て、死に向かって突き進む人間が、

この世でなしとげられるものは、しょせん、かりそめの、かっこつけでしかないことを、思い知らされる。

それはつまり、森羅万象は、その本性をまだ現していないことを、知ることなのだ。

幼かった頃、

ボクたちが目にしたものの背後には、単なる過去と片付けられないものがあった。

そしてそこには、ボクたちを怯えさせる未来はなかった。

もちろん、ボクたちは時々刻々と成長をしてきた。時には、

大人を喜ばせるために、早く成長をしようと背伸びしたこともあった。

しかし、大人であること以外、何の特徴もない人々のためを思い。

誰にも媚びず、過去も未来も気にせず、

永遠に続くように思える、俗世間と玩具の中間地帯のような、

そんな純粋な幼児期を過ごしたこともあったのだ。


いったい誰が、幼さのあるがままを語りえるだろうか? 誰が、

幼いものを遠い星々の世界に連れて行き、

その手に大人と自分の世界との距離を測る定規を持たせることが出来るだろうか?

誰が、夭折の死を、固くなりつつある変色したパン生地で練り上げることが出来るだろうか?

誰が、リンゴを食べ終えた幼いものの口にまだ残る芯が、夭折の死と同じものだと分かるだろうか?

夭折の原因を語ることは容易(たやす)いことかもしれない。

しかし、リンゴの果肉が包み込む芯に似た早すぎる死を、

完全な死を、人生に踏み出す前から、あのように穏やかに包み込んで、

それで、恨みも悪意も持たないという、つつしみぶかい心を語ることは、

詩人の言葉でさえ難しいものなのだ。



第五の悲歌           ※へルター・ケーニヒ夫人に


いったいこの人たちは、何者なのだ。旅また旅に日々を送るこの人たち。

この芸人たちは、いった何者なのだ?

彼らは幼い頃から、得体の知れない意志に突き動かされて、揉みくちゃにされている。

その意志とやらは、はたして誰のために働いているのだろうか。

そもそも、誰の意志なのだ? よくよく見ればその意志は、自暴自棄になっている。そして、

やけくそになった意志が、芸人たちを、宙返りさせ、逆立ちをさせ、バク転をさせ、

空中を跳んでは他の芸人に受け取らせたりしている。

芸人たちは、油を流したようなヌルヌルする空中から、

擦り切れたマットの上にハラリと着地する。

そのマットは、繰り返された彼らのとんぼ返りで薄くなっている。

それは、宇宙に捨てられた雑巾のようだ。あるいは、

この場末の空が、地面を引っ掻いたキズ痕に貼られた、絆創膏のようだ。

芸人たちは、一芸終って、マットの上にすっと降り立ち、

大文字イニシアルDのポーズを作って、拍手喝采を浴びる。

その得意満面も束の間で、どこからともなくマッチョな男が現れ、

あのアウグスト豪勇王が手すさびにスープの銀皿を巻いたように、

ポーズをとる彼らの腕をねじり上げる。

すると観衆は、「これは面白い」とヤンやの拍手。


この一連の芸を観た客は、足踏み鳴らして、

薔薇色の気分を盛り上げては、すぐ冷める有様。

マットから埃を舞い上げる芸人は、自分の雌蕊に自分の花粉をつけているようだ。

そして、そこに結ばせた果実は、

薄紙のような表皮を輝かせる、偽果実。

うわべだけの作り笑いをさらりと見せて、

華やかさを装うその哀しさ。しかも、

この偽果実は、自分のみじめさをよく分かっていないようだ。


今度は、あの年老いた力士をご覧ぜよ。

現在は、太古叩きのお役を頂戴している。

あのたるんだ皮膚の袋は、その昔の威勢が良かった頃、

二人の人間が住んでいると讃えられたものだ。その内の一人は、

あの世に旅立ち、生き残ったほうの一人は、伴侶に先立たれ、

耳が遠くなり、口から出る言葉も支離滅裂で、

古巣でやもめ暮らしを決め込んでいる。


ところが、いっぽう、こちらの血気盛んな若者は、

初心な顔をしていながら、筋骨隆々のはちきれそうな身体を自慢している。

まるで、力持ちの男と、心優しい尼さんの間に出来た子供のようだ。


オマエたち、旅する芸人さんたちは、

子供が悩みから解放され、

一人前に成長していく過程の一時期に、

彼らの、お慰みのおもちゃになったこともあっただろう?


オマエたちは、あっと言う間に花を咲かせ、花を散らせる。

軽業の樹木から、未熟な木の実が落ちるような、

そんな落ち方で、一日に百回も、

噴水よりも速く、落下して、墓に当たって跳ね返る。

そしてオマエたちは、呼吸を整える瞬間に、

かわいらしい微笑をうかべ、

めったに優しさを見せない母親の顔色をうかがいながら、

命がけの宙返りの芸を続けたではないか。

だが、おどおどと母親に向けたその愛想笑いも、一呼吸の間もおかず、

サッとオマエの身体の表面にひろがり、

スゥーっと消えていき……と、その瞬間、

まだ強い鼓動を打つ心臓に、

ひとときの安らぎを与える間もなく、

親方が手をたたき、早く跳べと命じてくる。足の裏のジンジンとひびく痛みは、

思わず知らず溢れてくる涙と同じで、

オマエのみじめな境遇の証だ。どの感情より先だって沸き起こるのは、

悲しみだ。しかし条件反射のように、

愛想笑いがまたオマエの顔に浮かんでくるではないか。


天使よ。つつましく花をつけるこれらの薬草を、

花瓶をあつらえて活けてくれ。そしてボクたちがまだ見たこともないような、

幸福な空間に、この薬草を飾っておくれ。活けられた薬草を、

『軽業師の微笑』と名付けて、彼らのキメのポーズを讃えようではないか。


お次はこの少女だ。カワイイ顔した女の子。

子供らしい楽しい思い出を飛び越えさせられて、今、ここに取り残された少女。

そのスカートの縁飾が、彼女に変わって幸せを享受しているのかもしれない———。

また、あどけないこの少女が身に着けた、

膨らみかけた胸元をおおう絹地が、

限りなく甘やかされて、満ち足りた思いで輝いている。

少女は、釣り合いを求めて揺れる秤の上に、

常に違ったポーズで載せられる。それは、

まるで市場に並べられた果実のようだ。

身体は持ち上げられて、

公衆の肩と肩から覗かれる、少女の笑顔は悲しい。


彼ら彼女らのような芸達者ではない男女が、たがいに挑戦しながらも、

うまくいかず、二匹の獣のように、

組んでは落ちていったあの場所は、いったいどこにあるのか———。

その場所のことは、ボクの心の中では、しっかりイメージ出来ているのだ。

重さが重さのままであり、

皿回しの皿が、棒の先から、

よろめき落ちる、

あの不安定な場所は、どこにあるのだ?


と、突然、あやふやな、どこでもないところの中に、

言葉では言い表せない場所が出現した。そこでは、純粋な微小が、

不思議に変容し———、あの虚無の、

巨大そのものに急変する。あの場所こそ、

桁数の多い計算が解けて、数が消えてなくなるところ。


そこかしこに見世物小屋が並ぶパリの広場よ、

そこは、流行服飾デザイナーのマダム・ラモールによって、

果てしなく伸びるリボンが、新奇な結び方で飾られる。

これは、飽きさせない見せ物だ。

虚飾の色で塗られた、

フリンジ・造花・帽章・作り物の果物が———、

お手頃な値段の冬ものの帽子に置かれる。


天使よ。まだどこかほかに、ボクの知らない広場があるのではないか。

そこでは恋人同士が、心臓をバクバクさせながら、

マットの上で、支える大地のなくなったところで、

人目をはばかるような肢体で、

快楽の悦びで築かれたモニュメントを、

ふたつの寄りかかった梯を、組み立てているだろう。———そして彼らは、

その周囲に輪をなして、固唾をのんで見守っている、

数限りない死者たちの前で、

見事に、その技をしとげることだろう。

そのとき死者たちは、こっそり、奥の奥に隠した、

ボクたちの知らない、最後の貯えを、永遠に通用する貨幣を、

今、マットの上で、本物の微笑を見せている二人に、

その技をほめたたえて、惜しみなく投げ与えることだろう。


※この第五悲歌は、ヘルダー・ケーニヒ夫人宅に滞在していたリルケが、そこで目にしたピカソの『大道軽業師』からインスピレーション受けて書いたものらしい。



第六の悲歌


イチジクの樹よ、オマエは、ずっと昔からボクの関心の的だった。

オマエは、人から賛美される花の時機を飛び越えて、

ためらわず、いさぎよく、実を結び、

清純な秘密を、ひっそりと実の中に抱き込んだ。

オマエのしなやかな枝々は、噴水の管に似ている。

樹液は、上にあるいは下へと送られる。オマエが実をつけることは、

目覚めることもなく、眠ったまま、この甘美で心地よい世界に、おどり出ること。

丁度、※1神が白鳥に転身したように。

            ……だが、ボクたちには、ためらう。

ボクたちは、花を咲かせることに恋々とこだわる。そのため秘密をさらし、

朽ちかけた実の中に、割り込むはめとなるのだ。

花をつけることの誘惑が、匂い立つ夜のそよ風のように、

唇や瞳を撫ぜるとき、

高まる行動への強い衝動にせかされ、

その誘惑を振りきれる者は、そうそういるものではない。

誘惑に勝てる者は、英雄と夭折の宿命を負った者たちだけなのだ。

死と言う名の庭師は、強い者たちの血管を、ボクたちの血管とは違うやり方でたわめているようだ。

英雄や夭折した者たちは、なしとげた満足の微笑に先立って、

まず目的へと突進していく。丁度、カルナックの神殿の浮彫にある駿馬たちの群れが、

車上の王を先導しているように。


英雄は夭折した者に驚くほど似ている。命ながらえることを気にかけていない。

上昇こそ彼らに相応しいものなのだ。英雄は、絶えず無我夢中に、

危険にみちた星座の中に立ち入って、栄光の足跡を捺す。

それなのに、星座に連なる彼らを見分けられる者は、ほとんどいない。しかし、

ボクたち凡庸な人間のことは黙して語らぬ運命は、唐突に感動して歌い始め、

歌声が沸きあがる世界の嵐の中に、英雄を導いていく。

ボクの耳にも英雄の声が聞こえる。たちまちその声は、

流れる風とともに、ボクらの身体を貫いて吹き抜けるのだ。


その瞬間、ボクはどれほど憧れへの衝動を抑えることに苦労したことか。万が一、

今、この身体が少年に戻れるものなら。そして、

未来を待つ両腕で頭を支えて、不妊症の母親が偉大な英雄を産む、

あの※2サムソンの物語を読むことが出来るものなら……。


サムソンのお母さん。サムソンは貴女のお腹の中にいたときから、すでに英雄だったのではないでしょうか。

そこで、サムソンの英雄への選択は、もう始まっていたのではないでしょうか。

彼自身の無数の資質が、貴女のお腹の中で沸き立ち、サムソンをサムソンたらしめたのではないでしょうか?

彼は、採るべきものを採り、捨てるべきものを捨てるという、その選択を実行しました。

そして後々に、列柱を打ち壊す偉業をなし得るのです。しかし貴女の胎内から、

より狭い世界に躍り出たことは、後になし遂げた偉業にひとしいことだったのです。そして、

サムソンは選び続け、行い続けたのです。ああ、英雄の母親たちよ! すべてをひきさらう奔流の源よ!

貴女方は激流を抱えた峡谷そのもの! その高い精神の懸崖(けんがい)から、処女たちが、

未来の息子への生贄として。

嘆きながら身をおどらせて、飛び降るのだ。


なぜなら英雄は、いかなる愛にも引き止められず進む者。

英雄を思う鼓動のひとつひとつが、彼を高め、彼を彼方に押し進めるのだ。

ただ、進みながら、微笑の終局に、さっそうと立つのです。

———ひとりの異なる者として。


※1 ゼウスが白鳥に変身して、スパルタ王デュンダレオースの妻レダを誘惑したエピソードより。

※2 サムソン。旧約聖書に登城する士師(ヘブライ人の指導者)。不妊症であった母親から、いろいろ神から約束をつけられて誕生する。サムソンは長じてヘブライ人の宿敵であるペリシテ人を打ちのめす。やがてサムソンはデリラというペリシテ女を愛するようになる。そして彼女に、神から与えられた約束であり自身の弱点を話してしまう。これによってサムソンは両目をえぐられ牢に入れられる。やがてペリシテ人の祭りに、サムソンは見世物として引き出される。そこでサムソンは神の力を得て、柱を倒して、ペリシテ人とともに死ぬ。



第七の悲歌


ためらいの果てに()れるオマエの声。それは、求めであってはいけない。求めではなく、

抑えても、抑えても、抑えきれない思いのほとばしりであって欲しいのだ。また、

無垢な鳥のさえずりであって欲しいのだ。

春の澄み切った空へ高く揚げられたあの鳥のように、

自分が、餌を求め細々と生きる生き物であることも、

空に投げ出された、ただひとつの心であることも、ほとんど忘れて。あの鳥のように、

いや、それに劣らず……。しかし、やはりオマエは求めるだろう。

    ——— そうなのだ。オマエの声を聞きつけて、まだ姿を見せていない未来のオマエの恋人は、

その胸の内に少しずつ、オマエへの返事の言葉を芽生えさせる。

そして、オマエの声に耳を傾ければむけるほど、その思いに応えて———、

彼女の気持ちは、燃え立つ焔へと変容していくのだ。


春は分かっている。鳥の声に、

未来の恋人を告げていないフレーズなどないことを。まず、あのひかえめな、

物問いたげな最初の一声を聴け。あの声で、静けさは遠く広く、

深まっていき、太陽はだまって頷く。とその時、

沈黙が破られて、歌声は叫びの大階段を駆け上がる。そして歌声は、

未来の夢の宮殿の扉を叩き、激しいトレモロとなり、噴水のように、

吹き上げ吹き散り、水は頂点に達したとたんに落下を予感して、

その予感は、新しいほとばしりを約束して……そして、水面には早くも夏の気配が漂う。


夏の朝のさわやかさ、

そのさわやかさの中で、空はしだいに明け染め、今日一日を前にして輝き渡る。

昼となり、大気は花々を包んで繊細を極め、そびえる巨木をめぐって勢いを誇る。

最高潮にたっした輝きは、輝き足らぬとばかりに、

道々へ、また牧場へと傾き、そこへ夕立、

夕立のあとは、澄み渡る大気が安堵の息を吐く。やがて、

日も暮れ、ちかづく眠りの時間、もの思いの時、深まりゆく夜。空高くには夏の星々、

さらに遠くにも星々、地上もまた星のひとつ。

いつの日か、ボクも死者の列につらなる者として、

天空に輝くすべての星々の心を知りたいものだ。

なぜなら、星々のあの輝きは、ボクの脳裏から決して消え去らないのだから。

あんなに美しい輝きを忘れ去る、そんなことはあり得ないのだ。


ボクは愛に身をささげた女性を呼び出す。しかしそこに現れるのは、

そんな女性だけではない……、朽ち果てた墓から、

少女たちも現れるだろう……なぜなら、いったん呼びかけたボクの声を、

特定の対象にだけ届けることなど出来ない相談だ。

墓に埋められた少女たちは、今も地上に未練を抱いている。

年端もいかない少女たち手が、この地上でしっかり握ったものは、それがたった一つであったとしても、万物に値した。

運命が、幼い日々より重いものだと思ってはいけない。

夭折の少女たちは、愛を経験せず、むしろ愛することを追い越し、

至福に息はずませて、何ものにも邪魔されず、自由に向かって駆けて行ったのだ。


この世界に存在したことは素晴らしい。墓に沈んだ少女たちも、また、

貧しく腫瘍(しゅよう)だらけの身体で、都会の薄汚い裏通りをさまよった者たちも、

そのことはよく分かっていた。なぜなら、

すべての人にひと時は与えられたのだから。それがひと時であったとしても、

いや、ひと時ともいえない、時間の尺度では測れない、刹那と刹那の隙間であったとしても、

存在としてこの世界にひと時でも存在したことは、一切を捉えたことなのだ。

ボクたちは、隣人が、その笑いによって証明してくれたこと、

あるいは、妬みによって証明してくれたこと以外は、認められない。

ボクたちは、目に見えるものばかりを認識する。

そして隣人が認めた幸せを幸福と呼ぶ。しかし、本当の幸福とは、

ボクたちが、ボクたちの内部で形成していくものなのだ。


愛する人よ。ボクらの内部以外には、世界は存在していない。

ボクたちは時々刻々に変化していく。外部は常に瘦せ細り、

そして消えいく。永遠にあるように思われていた建築物のあったところに、

計算しつくされた近代建築がひねくれた姿でのさばっている。

まるで脳味噌にぬかるんだ想像の産物のようだ。

力ずくで作った巨大な倉庫が並んでいるようにも見える。それは現代が、

形態を計算ずくで組み立てようとしているからなのだ。

現代は、本物の寺院を建てることが出来ない。もうあのように敬虔な祈りを蕩尽することなど出来ないからだ。

ボクたちは、心の中に寺院を建て、それを維持するべきなのだ。

仮に今も、祈りひざまずかれる寺院がもちこたえているというのなら、

それは本物の信仰心を持つ少数の人々の心の中へ、その姿のまま、移動していくだろう。

しかも、その心の中の寺院の彫像や柱は、現実のものよりずっと偉大なのだ。

しかしいいか。多くの人はその寺院の価値を知らないのだ。


社会がクルクル動き回るとき、このテの人々が現れるのだ。

彼らには受け継ぐ過去もなければ、まぢかな未来をつくることさえ出来ない。

まぢかなものさえ、この人々には遠いのだ。しかしボクたちは、

こういう混乱に巻き込まれてはいけない。それどころか、これを契機にして、現在あの認識できる寺院の姿を、

ボクたちの内部にしっかり維持していくことに努めなければならないのだ。

それらの建築は、間違いなく万物は滅びると言う宿命の、まっただ中にそびえ立っている。

時間は逆戻りなどしないと言う事実の中に、存在を誇っている。そして、

微動もしない天空の星々を、ボクたちのほうに(たわ)め寄せてくれるのだ。

天使よ、ご覧ください。あの列柱を、塔門を、スフィンクスを、

天を支える黒ずんだ大伽藍を。

あれらは、貴方がた天使の眼差しに見守られ、

変化する都会のただ中に、究極の姿をして、そびえ立っているではないですか。


これは奇跡ではないでしょうか。おお天使よ。驚いてください。それをなし得たのはボクたちなのです。

偉大なる天使よ、ボクたちがそれをなし得たのだと言ってください。

ボクの息は、それを口にする資格がないのです。ボクたちは、

ボクたちをあらしめてくれているこの時間と空間を、決してなおざりになどしていなかったのです。

(あのそびえたつ大建築たちは、なんと偉大な存在であろうか。それにひきかえボクたちの感情など、幾千年も続き

はしないのだもの)

おお天使よ。よく考えてください。

シャルトルは、貴方がたの傍らに置かれていても、見劣りしないではないですか。

あの塔は、現にあそこにあるではないですか!

そして音楽は、さらにさらに高くそびえ立ち、ボクたちを圧倒します。そしてまた、

あの一人の愛する女性も、夜の窓辺にたたずんで、

天使よ、貴方の御膝元に到達したではないですか?

             思い違いはなさらないでください。

  ボクが貴方を求めているなどとは。

  それに天使よ、ボクが貴方を求めても、貴方は来てはくれないでしょう。

  なぜなら、ボクの声は、呼びかけながらも、押し戻す拒絶で満ち溢れているのですから。

このように激しい拒絶の気流にあっては、

貴方が、ボクに歩み寄るなど不可能に違いないのです。

ボクの呼びかけは、ただの高く差し伸べられた腕でしかないのです。そして、

つかもうとして花をつけたこの指は、

捉えられない貴方がた天使を前にして、大きく広げられたままなのです。

それは、拒絶と警告のしるしそのものなのです。



第八の悲歌

        ※ルドルフ・カスナ―に捧げる


動物たちは、自然に従い、野生の眼で、

捕われのない自由な世界を見ている。かたやボクたち人間は、

捕われた限定の世界に眼が向いている。それどころか、

動物たちが勝手に自由な世界へ逃げ出さないよう、出口に何重もの罠を仕掛けている。

それでいながら、出口の外側にあるものを、

動物のまなざしから想像している次第だ。幼い子供の眼も、

ボクたちに都合のいいほうに向けさせ、

限定された狭い世界だけを見るように強いている。けっして動物の眼に、

あるほど深く沁み込んでいる自由の世界を見せようとはしない。死から解放されるその世界を。

死を認識しているのは、ボクたち人間だけだ。動物は、

死を認識しているわけではなく、

ただ自分の前に見える偉大を、じっと見つめているだけなのだ。動物の歩行は、

永遠への歩みなのだ。それは、泉に水が湧く様子に似ている。

ボクたちは、ただの一度も、たった一日も、

花を無限に咲かせる、

純粋な空間を眼にしたことがない。ボクたちが向き合っているのは、徹底して限定された形状だけだ。

それは『拒否などない、どこでもない空間』。

たとえば、呼吸、純粋の空間、意識されない空間。

子供は、放心状態で意識外のほとりに迷い込んだりする。

すると大人は手荒に子供を揺さぶり、形状の世界に呼び醒まさせる。

またある人は、死に際に意識外の存在になりきったりする。

と言うのも、人が死を臨む眼は、死など見ておらず、もっとずっと遥かに向いているからだ。

それはたぶん、無垢な動物のつぶらな眼と同じものなのだろう。

愛のとりこになった人の眼も、愛の対象に視線を邪魔されなかったら、

そんな眼に近づくはずだ。そして、何かのあやまちのように、愛の対象の背後にある、

遥かかなたの純粋にハッと気がつき、驚きで眼を見張る。

ただ、愛の対象を乗り越えて、純粋のほうへ視線を進ませる人はめったにいない。

見えるのは、ただ不自由な閉ざされた世界だけなのだ。

ボクたちの眼は、いつも形状に向いていて、

そこに、自由の反映を見ているだけだ。しかも、

ボクたちの影で薄暗くなっている反映を見ているのだ。もの言わぬ動物が、

ボクたちを見上げるその静かな眼は、ボクを突き抜けて遥か彼方に向き合っているのだ。

ただ向き合うこと、いつも向き合うこと、

これが運命というものなのだ。


もしも、足取り確かな動物が、

ボクたち人間と同じような意識でもって、

ボクたちのほうに近づいて来たとするならば———、ボクたちの眼を、

動物が見ている世界の方に向かわせることが出来るだろう。

しかし動物に自意識がなく、それだけに自分を無限のものと感じていて、

その視界は広大だ。ボクたちは戸惑うばかりだ。

ボクたちが未来を見ているところに、動物は一切を見ているのだ。

そして、その一切の内側に自分を、

永遠の救われた自分を見ているだけなのだ。


と言いながら、動物も警戒感に身をほてらせて、

その内側に憂鬱な重い不安をかかえている。

つまり動物たちに、いつもまとわりついているものがあるのだ。

それはボクたちをも圧倒するものだ。つまり母胎にあったときの記憶だ。

かつては、もっと手近な場所にあって、強くつながり、従順で、

愛で守ってくれた母胎の記憶だ。母胎は呼吸そのものだった。

最初の故郷である母胎を離れて、いま生きているこの世界は、曖昧で不確かだ。

卵からかえる昆虫や魚や両生類や爬虫類は、なんて幸せものか!

彼らは母胎の中ではなく、大自然そのものの中に生れおち、大自然を母胎としている。

卵からかえる羽根を持つ昆虫は、なんて幸せものか! 彼らは自分の婚礼の祝宴のときでさえ、

大自然という母胎の中で踊っていられるのだ。彼らにとって一切は母胎なのだ。

しかし鳥を見てみよう。鳥は大自然の中の巣の中で、

母鳥の羽毛に温められて生まれる。

つまり、胎生動物と卵生動物の中間のような、どっちつかずの存在だ。

鳥には落ち着く場所はないのだろうか。

たとえるなら、棺の中に納められながら、

柩の蓋に、死骸の横たわる姿が浮き出ている、

あのエトルリア人の、(あま)がける死者の霊のように、

二重の存在に近いのではないだろうか。

母胎から生まれながら、空を飛ぶ宿命をもった生き物は、

空中を跳びまわりながら、慣れない自然に怯えつつ、

驚きも感じている。それは、

陶器にヒビが走る状態に似ている。

コウモリは、夕焼けという釉薬にヒビを入れる。


いついかなる場合でも、見る立場のボクたちは、

見つめるだけで、ひろい世界に踏み出しはしない。見ることだけで手いっぱいなのだ。

ボクたちは物事を秩序だてそれで満足する。しかしそれは崩れる。崩れたら、また組み立てる。

すると今度は、ボクたち自身が崩れる。


ボクたちが何をしようとも、いつも、

ボクたちの姿を逆さまにして、去りゆく者の姿勢に変えようとするのは、

いったい誰なのだ。去りゆく者は、

最後の丘に立ち、すべての谷底を見下ろして、

振り返り、歩みを止め、しばし佇む。

そのようにボクたちは別れを繰り返し、生きていくのだ


※ ルドルフ・カスナ― リルケと交流のあった思索的著述家。



第九の悲歌

           

どうせなら、残りの命が、

どの樹より、やや濃い緑色の、

葉の縁に、風のほほえみのようなさざなみを立てている、

月桂樹であってもよいのではないかと、思ったりする。

なぜ、人間でなければならないのか。———そして、運命を恐れながら、

その運命に従う生き方をしなければならないのか。これはいったいどうしたことか?……

              幸福に恵まれることがあるからではない。

幸福は、(わざわい)の先触れに過ぎないのだから。

では好奇心からか。それも違うようだ。ましてや心の訓練でもない。

心なら、月桂樹にもあるはずだ。

はっきり言おう。この世に人間として『ある』ということに深い意義があるからだ。

どうやら、この地上に存在するすべての『もの』が、

ボクたち人間を必要としているようだ。地上のうつろいやすい『もの』たちは、

ボクたちにかかわろうとしている。この地上で一番うつろいやすいボクたちにだ。

すべての存在がこの地上にあるのは一度だけ、ただ一度だけ、一度っきり、それっきりだ。当然、ボクたちも一度っき

 りの存在だ。存在に繰り返しなどない。しかし、

たとえ一度であったとしても、このように一度は『ある』であったことは、まぎれもない事実だ。


だからボクたちは、ひたすらに一度だけの、この『ある』の使命を果たそうとするのだ。

この『ある』という事実を素手で抱きしめて、

輝く眼差しで見守り、静かな心で『ある』を包み込み、

地上の『ある』になりきるのだ。———ではいったい誰に、この『ある』を捧げるつもりなのか?

一番望ましいのは、この『ある』の一切を、永遠にボクのものにすることだ。

しかし、地上の『ある』であったあと、迫りくるあの死には、

ボクは何を携えていけばいいのだろうか? 時間をかけて習得した、

『もの』の真実を見極める目などは、持っていくことは出来ない。なしとげたことも持ってはいけない。なにもかも。

では持って行けるものとは何か。苦痛や悲しみはどうか。とりわけ重くなった経験はどうか。

愛のながい経過はどうか、———つまりは、

言葉で言い表せないものばかりなのか。しかし、それらもやがて、

星々の位置に至ったら、どうだというのか。星々こそは、もっとも偉大で『言葉』にならない『もの』なのだから。だとすれば、こうとも言えないか。登山者は山の斜面から、

『言葉』にならない一握の土くれなど、持ち帰ったりしない。

彼らが持ち帰るのは、摘みとった純粋なひとこと。たとえば、黄色や紫色に咲く、

『リンドウと』いった『言葉』だ。だから、ボクたちが地上に存在するわけは、『言葉』を発するためなのだ。

それも家、橋、泉、門、壺、果樹、窓……といった身近な『もの』の『言葉』、

もしくはせいぜい、円柱、塔といった『言葉』を発するためだ……。しかし間違ってはいけない。

『言葉』として表された『もの』たち自身も、『言葉』として表現されなければ、自分たちが存在していると実感できないのだ。

恋するもの同士は、地上の力に促されて、ウキウキした気分になる。それは、

『言葉』を発することが出来ないこの地上のひそかなたくらみではないかと思うのだ。

たとえば敷居。愛し合う二人に敷居とは何だろう?

彼らは古い扉の敷居を踏んで、少しばかりすり減らす。

彼ら以前の多くの人もすり減らした。未来の人もすり減らすだろう。

こうして、かすかに、自分自身の痕跡を敷居に残していくのだ。


この地上に『ある』ときこそ、『言葉』を発せられる絶好の時機、そして『言葉』を発せられる最高の場所。

ならば地上に『ある』とき、『言葉』で心を打ち明けるのだ。今は、かつてのどの時代より、

『もの』たちが崩れ、真実の体験が出来る『もの』たちが滅び去っている。

そういう『もの』たちを追いやって取って替わろうとしているのは、

形がない、殻におおわれた行為だ。

その殻の内部から行為が突き出て、

そこに別の殻の境目ができると、

それはすぐにはじけ散っていくのだ。

ハンマーが狂暴に打ち合うさなかにも、ボクたちの心情は生きている。

かみ合う歯と歯のあいだに、

『もの』を(うた)う舌が健在しているように。


天使にむかってこの世界を詠おう。『言葉』で表せない世界を詠えとは言わない。天使にたいして、

キミの感受の自慢をするなどもってのほかだ。この世で、天使ほど強い感じ方をしている存在はない。

キミなどは天使のまえでは、一匹のヒヨッコにも値しない。だから、

天使には素朴な『もの』を詠えばいいのだ。世代から世代にわたって作り上げられた、

確実に手元にある、眼差しの行き届いた、素朴な『もの』を詠えばいいのだ。

まずは、手始めに身近な『もの』を詠ってみよう。すると天使はきっと驚くだろう。

かつてキミが、ローマの綱つくりや、ナイルの陶工を見て驚いたように。

天使に教えてあげよう。ひとつの『もの』がどれほど形よく、

どれほど純粋なままにボクたちの所有になっているのかを。

たとえば苦悩。苦悩でさえ純粋な形状となる決意をもっている。

あるいは完璧な無機質の『もの』となる意志さえもっている。そして苦悩は、

ヴァイオリンなどの至高の響きに転身するのだ。

そしてうつろう『もの』たちは、人間に褒められることを知っている。

うつろうさだめの『もの』は、もっともうつろいやすいボクたちを頼ろうとしているのだ。

『もの』たちは、ボクたちの内部で、転身させられることを願っている。ボクたちが何者であったとしても、ボクた

ちの内部で、転身することを。


地上よ、貴方はボクたちの内部で、

目には見えないものによみがえることを、望まれた。———それが貴方の夢ではなかったか? そうなのだ、地上よ!

目に見えぬものとしてよみがえることが、貴方の望み!

よみがえること以外に、何がいったい望みだったのか。

地上よ。愛する地上よ。ボクは貴方の望みをかなえてあげようと思う。

ボクにこの約束を守らせるために、一度の春を示してくれ。貴方が数多く持つ春は必要ないのだ。

たった一度の春があれば、それでボクの血は十分なのだ。

遠いかなたの世界からでも、名づけようのない決意で、貴方への服従を誓う。

どんな時も、貴方のはからいに間違ったところはなかった。

貴方の最高の配慮は何であったか。それは、ボクらに『ある』を実感させる死だ。


見てくれ。ボクは生きている。

いま、実感しているこの『ある』の使命を果たそうとボクは、幼児期もそうであったように、

また未来もそうであるように、『ある』がみなぎり、『ある』で溢れかえっているのだ。


第十の悲歌

           

いつの日か、何もかも全てのことが分かったら、

歓喜と褒章を、うなずきかける天使にむかって、歌えることを願っている。

邪心のないハンマーが、

かよわいピアノ線や、ためらうピアノ線や、無理に張ったピアノ線をたたいても、

楽曲が乱れないことを願っている。また、涙で洗われた顔が、

ボクに輝きを与えてくれることを願っている。すすり泣く花が開くことを願っている。

そんな願いがかなったあかつきには、繰り返し訪れる夜々よ、悲しみをさそう夜々よ、

貴方がたはボクにとってどれほど愛しい存在になることだろう。静かに泣く夜々よ、貴方がた姉妹を、

ボクは深くひざまずいて、抱きしめるべきだった。貴方がたの、ときほぐれた黒髪に、

ボクはもっと力を抜いて、この身体をゆだねるべきだった。

悲しみを浪費するボクたちは、その悲しみのさなかで、

悲しみが尽きることを心配する。しかし悲しみこそは、

ボクたちを彩る常緑樹、濃い緑色の冬蔦なのだ。

悲しみは秘められた、心の中の季節のひとつ———、いいえ、季節だけではない。

それは場所、所在地、集落、ねぐら、家なのだ。


あの『悩みの都市』に踏み入ると、そこがどれだけ異様なところか分かる。

『悩みの都市』では、ののしり合いの喧騒で聴覚を失った静寂に、

空虚という鋳型による金属の塊、つまり金メッキの喧騒と、

はちきれそうなブロンズ像が、おおげさな姿で飾られている。

天使なら、この見せかけの都市を、あとかたもなく踏みにじってしまうだろう。

『悩みの都市』の果てに、ひとつの寺が建っている。この寺も、『悩みの都市』の住民が既製品を仕

入れて建てたものだ。

見た目はきれいだが、表は閉ざされていて、日曜日の郵便局に似ている。

しかし寺の外では、震える縄で境を張って、縁日がひらかれている。

自由のブランコに、芸につとめる潜水夫と手品師!

飾りたてた人形がならぶ射的場。たまに腕のいい客が射当てると、

人形は倒れてブリキの正体をさらす。やんやの拍手がおこり、射者は有頂天になって、

小躍りしながら射的場を出る。外では、様々な趣向の小屋が立ち並んでいる。

声を荒げ、太鼓を打ち鳴らして、客寄せに余念がない。成人用として、

特別な見世物がある。「金銭がどうやって繁殖するか」。それは解剖学的な、

興味本位の見世物ではない。そこでは金銭の生殖器を見せるのだ。

なんでも見せる。全過程を隠さず見せる。受精から出産まですっかり見せる———それは、

ためになり、お金持ちにもしてくれる……。

……しかし、その少し先は、

板塀の行き止まりで、その板塀には『死すべき運命』という名のビールのポスターが貼られている。

目先の変わったツマミがなければ、とてもじゃないが飲めない例のまずいビールのポスターが。

さらに板塀の向こう、つまり板塀の裏側には、真実がある。

そこでは子供たちが遊んでいる。恋人たちが———、人から離れて、

まじめな顔で、枯草の原っぱに座って、手を取り合っている。犬たちもあそんでいる。

ここまで来た少年は、さらに進んでみたくなる。それはたぶん板塀の前に立つ、

『嘆き』という名の少女に、少年は心惹かれたから……。少女のあとをついて若者は板塀を越え原っぱに足を踏み入

れる。少女は言う。

———遠いあちらの方に、そしてずっと遠いところに、わたしたちは住んでいます……。

                    それは、どこなの? と少年はたずねて、さらについて行く。

少年は少女の身のこなし、その肩、そのうなじに心を動かされる。

おそらくいい家の出なのだろう。しかしほどなく少年は立ち止まり、きびすを返す。

そして振り向いて、少女に「ここで」と手を振ってみせる……。 

この少女のあとを追って、いったいどうなるのか? しょせん彼女は、『嘆き』なのだから。

  しかし、気を取り直し、少年は『嘆き』のあとをついていく。好意を持ちながら。


若くして死んだ者だけが、時間を超えた生死の分かれ目で、

地上の習慣から次第に離れつつ、

『嘆き』のあとについていく。『嘆き』は若くして死んだ者が、

自分に慣れるまで、身につけたもの、それは、苦悩の真珠とか、

忍従のヴェール、そんなものを見せながら、

じっと待ち続ける。———若くして死んだ者は、

『嘆き』に一言もいわずに、つきしたがって進む。


やがて少年は、『嘆き』たちが住んでいる谷間に到着する。すると、やはり同じ『嘆き』の名を持もつ年かさの

女性が出迎えてくれ、

少年の問いかけに答えて、こう言う。———わたくしたち『嘆き』は、

かつては大きな種族でした。わたくしたちの祖先は、

あれに見える大きな山を掘る採鉱を生業としていました。人の世に、

ときどきあなたがたは、磨かれた『原苦』の塊を目にするでしょう。あるいは、

太古の噴火によって、生々しい化石になった『怒り』を見つけるでしょう。

そうです。それは、あの山から掘り出したものなのです。その昔、わたくしたちは裕福でした。


そう言って彼女は、足取りも軽く『嘆き』の国の広大な風景を、少年に案内する。

そして、いくつもの寺院の列柱や、

かつて思いやりをもってこの国を統治した王族の居城跡や、

あるいは、生きた者たちには、穏やかな繁みとしてしか認識出来ない、

高く育った涙の樹々や憂愁の花園を、指さす。

さらに、悲しみの動物たちが草を食んでいる景色を指さす。ときどき、

一羽の鳥が唐突に飛び立って、孤独な絶叫の象形文字の線を引きながら、

それを見上げるふたりの眼の前を、低く横切ったりする。

日が傾くころ、彼女は少年を祖先の墓に連れていく。

そこには、巫女や予言者が眠っている。

夜が近づくと、ふたりの足音はさらに静かになる。やがて、

月あかりを受けて、この世のすべてを見守る大きな墓、

ナイルのほとりの兄弟、

封印された墓室を抱えた、

面持ちの、

あの崇高なスフィンクスが立ち現われてくる。

ふたりは、王冠をいただいた顔に驚きの目を見張る。

それは永遠に口を閉ざし、星々の秤の皿に人間の頭を載せた、

張本人の顔なのだ。


少年は、自分のあまりに早い死にめまいを感じ、

その光景を、しっかりとは認識出来ない。しかし年かさの『嘆き』の凝視は、

スフィンクスの頭巾のうしろに隠れているフクロウを追い立てる。フクロウは、

ゆっくり姿を現し、

スフィンクスの円みのある豊かな頬をかすめて、

死者の聴覚の両開きになったページいっぱいに、

言い表せない音声の輪郭を、

やわらかい線で書き込む。


そのとき年かさの『嘆き』は口をひらき、

より高いところの星々、あたらしい星々、悩みの国の星々を指し示し、こう説明する。

あれをご覧ください。あの星の名は『騎手』、そしてあれが『杖』。

星がいっぱい集まったあの星座は、『果実の花環』と呼ばれています。

それからもっと極寄りにあるのが、『揺籃』『道』『燃える書』『人形』『窓』。

けれども、南の空の祝福された手のひらには、清らかに描かれたように、

Mの大文字が、あかあかと燃えています。

それはMUTTER(母)を意味しています。


しかし死んでいる少年はさらに進まなければならない。年かさの『嘆き』は、

無言で、少年を谷の入り口まで導く。

そこには、月光の中で白くけむる輝きがある。

それは喜びの泉です。年かさの『嘆き』は畏まった声で、

その名前を口にした。そしてこう続けて言う。人間の世界では、

この泉が、すべての支えの流れになっていくのです。

ふたりは『原苦』の山の麓に立ち止まる。

年かさの『嘆き』は少年を泣きながら、抱きしめる。


死んでいる少年は、これからひとり『原苦』の山へと登っていく。

やがてその足音も、運命の沈黙から聞こえてこなる。

         ✿

完璧で無限の死の世界に入った少年は、ボクたちの心に、比喩で真実を思い起させる。

見てみよ、彼は、葉の落ち切ったはしばみの枝に芽生えた、

垂れ下がる花序を指さした。その比喩は、

早春の黒い土に降り注ぐ雨を表している。


幸せは沸き上がってくるものと信じるボクたちは、

心を揺さぶられる。そして、戸惑う。

真実を知って。

———幸せとは、降り注がれてくるものだと知って。


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