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斯くして文明は滅びん  作者: eight
第一章 ヴィルタス帝国編:野に放たれた緑の奇跡
12/12

1.12 失われた石畳の記憶

イシュエルは曖昧な記憶を頼りに、かつての帝都へ続く街道を進んだ。五十年か八十年か、あるいは一世紀に近い月日が流れたかもしれない――五百年も生きていると、細かな年数など風と共に拭い去られる。どうやらずいぶん前に何かのついでで立ち寄って以来、この場所とは長らく無縁だったらしい。半ば忘れていたのに、最近になって耳に挟んだ噂が彼を呼び戻したのだ。帝都がとうに廃墟の姿へ移ろっているとか、魔法が厳しく禁じられるようになったとか――表の話と裏のささやきを聞くにつれ、少しばかり興が湧いたわけである。


そして今、城壁の崩れかけた門を潜ると、まるで大通りのざわめきがひとかたまりごと奪い去られたような静寂が彼を出迎えた。風にひしゃげた門扉がかすかにきしんでいるだけで、人影らしい人影は微塵もない。連日連夜に賑わった華麗な凱旋行列を覚えている身には、わざわざ足を運ぶ価値もあったか――と、ある種の苦笑が込み上げる。あの誇り高い凱旋門は今や根を張る雑草のせいで傾き、薄汚れた石柱がぶざまに歪んでいる。どうやら何度か補修された跡があるが、もはや誰も管理していないのだろう。聞けばこの国では魔法を全面的に禁ずる条例が徹底されたらしいが、五百年の生を背負うイシュエルにしてみれば、それはいつもの“熱に浮かされた反動”にしか見えない。魔法を封じること自体は悪くないとしても、人間がそう易々と賢くなるとも思えないのだから。


通りの角を曲がり、彼の視界に闘技場がそびえ立つ。いや、正確には廃墟と化した闘技場だ。昔は兵士たちの雄たけびや群衆の歓声で満ちていた場所だが、今は鳥のさえずりすら虚ろに響く。石造りの外壁に大きな亀裂が走り、脇を占拠する雑草がひどく荒涼なアクセントを添えている。イシュエルはほんの苦笑を浮かべる。数十年前、確かにこの施設はまだ立派なものだったのだが、今となってはまるで化石のように姿をさらしている。


彼は正面の扉が外れているのを横目で見ながら、内部へそっと足を踏み入れる。荒れた通路を抜けると、円形の観客席が段々と広がり、中央には砂の舞台と折れかけた鉄柵が見える。遥か昔、剣闘士や猛獣が血を撒き散らしたこの場所も、いまや風の音しか残っていない。ふとイシュエルは、浮かれた酒臭い群衆の歓声が幻聴のように頭にこだまするのを感じた。


彼は一番上の観客席までじわじわと歩を進める。そこから俯瞰すると、この闘技場を抱いた都が、静かに眠る廃墟の連なりであることがよく分かる。広場や神殿は半壊し、水道橋は砕け、何本かの巨柱が斜めに傾いている。街道は砂と瓦礫に埋まり、飼われていたはずの家畜も逃げ散ったのだろう。五十年ほど前には、ここで“再生魔法”の乱用が当たり前のように行われ、豊作を存分に謳歌する声が絶えなかったと聞くが、今は土に力が戻るどころか、誰一人として居つこうとしない。彼が遠くを見やると、かつて威圧的な高さを誇った王宮の塔すら折れているのが見えた。


魔法を禁止すれば、すべてが丸く収まると信じた者たちは多かったのだろう。彼らの主張はある意味で正しかったのかもしれない。少なくとも、再生魔法のような大掛かりな呪術が暴走することはなくなったからだ。けれど、その代わりに人は魔法と技術を区別できぬまま両方を放り出し、ほとんど進歩をやめてしまったらしい。この数十年、あちこちで新しい灌漑や工法を試みる動きはあったにせよ、果たしてそれが広まったとは聞かない。科学も、魔法も、訳もわからぬまま“危険なもの”として煙たがられ、時代は足踏み状態だという。まるで、ひとたび大火傷を負った子どもが火自体を忌避するように、人々は魔法と名の付くすべてを遠ざけ、同時に学問に対しても妙な不信を抱いたのだろう。


イシュエルは観客席の最上段の縁に腰を下ろす。石が冷たい。荒涼とした風が入り口から吹き込み、舞台の中央に舞い散った砂をさらっている。どうやらこの闘技場は、もうそう長くは保たないだろう。何かの拍子で壁が崩れれば、ここは一瞬にして瓦礫に埋もれるに違いない。そこに残るのは、かつての熱狂を想起させる微かな残響だけ。彼は古びた壁面を見つめながら、かすかに笑ってしまう。


かつての帝国が消滅へ向かったのは必然かもしれない。走り続ける馬に鞭を打ちすぎれば、いずれ馬は倒れる。土地を酷使して再生魔法に頼りすぎれば、土は悲鳴を上げる。それでいて危険に気づいたとたん魔法ごと封印し、まるで自らが何も学ばずとも問題だけが解決するかのようにふるまう。結果、この土地の文明は進化を止め、真理へと近づく機会を失った。イシュエルはそこに人類の愚かしさを感じると同時に、いつの時代も同じような道筋を辿るのだなと、苦笑いしたくなる。


廃墟の闘技場に吹き込む風は、ただただ乾燥している。イシュエルは目を伏せて、その風の冷たさを肌で味わいながらしばし黙する。前回ここに来たのはいつのことだったか。五百年という年月は、どんな王朝の盛衰も大抵は見送ってしまう長さだ。どれだけ豪華に燃え上がった帝国も、一世紀かそこらで人の痕跡を失う。今回も、それがただ少し手っ取り早く訪れただけなのかもしれない。


もし魔法の本質を研究し、土壌や灌漑を工夫していたなら、ここはまだ人が暮らせる都だったかもしれない。そう思いはするが、イシュエルはその後悔すら儚いと知っている。学ぶことを拒み、進歩をやめる社会もまた一つの選択なのだ。彼らは魔法廃止論で過去の災厄を封じたつもりでいるが、無自覚な無明に陥ることへの危惧は捨ててしまった。それが数十年を経て、広場に人影ひとつないこの結末を導いたのだろう。それでも人間は生き延びる。どこか別の場所で、小さく農耕を続け、ささやかな希望を語り合う。大帝国としての歴史が断ち切られたからといって、人自体が滅ぶわけではない。


彼はふと立ち上がり、砂まみれの闘技場をぐるりと見下ろす。立派だった外壁の、崩落寸前の柱が一瞬きしむ音を立てたような気がする。もしも次の大きな風が吹けば、あれは一気に倒れるかもしれない。だがイシュエルは動じず、コートの裾を払ってからゆるゆると通路へと戻り始める。もうこれ以上、廃墟に名残を惜しむ理由などない。この国が何を失い、何を拒んだかは、彼の目には十分すぎるほど焼き付いた。


外へ出ると、灰色の空を背景に城壁が苛立たしげにそびえていた。誰もいない広場は、かすかな風が小さな砂埃を巻き上げるだけ。イシュエルはその光景にくすりと笑みをこぼす。苦笑の混じった微かな笑い。かつて焼かれて果てた術師のことを思えば、あるいは彼が嘆いた通りの結末なのだろう。大地を見捨てれば、大地もまた人を見捨てる。それだけの単純な理屈に、誰しもが目をそむけた結果がここにある。


彼は人通りの消えた石畳を行き、一つ角を曲がる。すでに馬車も見当たらず、古い井戸の台座だけが取り残されている。五百年生きる彼にとって、また一つの大きな文明が終わり、記憶の底へ沈んでいく瞬間だ。それでも世界は続く。人類の進歩が止まるかどうかも、また別の時代で誰かが決めるだろう。ここでは魔法が禁忌となり、科学の芽も摘まれ、ひたすら時が止まる。それもひとつの選択かもしれない。


イシュエルは、崩れかけの石造大通りを抜けて、かつて闘技場へつながっていた古い門の下を潜る。朽ち果てた城壁の内側には、風にさらされ砂塵をまとった建物ばかりが、まるで壊れた玩具のように散らばっている。二度と人が戻らぬと悟らせるほどの静寂が、まっすぐに胸へ流れ込んでくる。だが、建物はまだそこにある。かつて立ち並んだ石柱や円形の観覧席は形ばかりを留め、まるで一瞬だけ時が止まったかのように黙している。そして雑草が足元を我が物顔で埋め尽くし、野鳥の声がどこか遠くから風に乗って聞こえる。帝国の喧噪は消えて久しいが、自然の営みは微塵も変わらず続いているのだと、空の色が語っているようだ。


それでもイシュエルは、はるか昔、ここに生きた人々の活気を覚えている。闘技場に詰めかけた群衆のどよめき、夜毎の祝宴に酔いしれる者たちのざわめき、熱狂の拍手や視線が交錯する様子――彼らはそこに確かに存在し、その一部は火刑台で悲嘆に暮れ、ある者は店先で果物を売り叫び、またある者は光り輝く衣裳を翻して凱旋門を行き来していた。多くの魂がきらめき、一瞬の繁栄のうちに消えていったのを、彼は目撃している。今となっては、門はひしめく雑草に押し曲げられ、かつての賑わいを思い出す者すらいないのかもしれない。それでも、イシュエルの中ではその光景が褪せることはない。城壁の崩れを背景に、彼らは笑い、叫び、讃え合い、あるいは泣いていた。その全てが時の流れに沈んでも、彼の胸には、あの日々の記憶が脈打つ。それが、この国が確かに生きていた証なのだと、彼だけが知り、彼だけが忘れずにいる。

第一話 完結

二章以降も構想はあるのでいつか更新します。

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