1.11 雑草帝国のかすかな希望
ガイウスは朝の光をひらりと受ける窓辺で、硬く乾いたパンをかじっていた。胃袋に染み入るわずかな塩味が、夜通し考えた思案の残滓を洗い流してくれる気がする。窓の向こうには領内の農地が広がっているのだが、その風景は、ああ、いささか笑いの種になるほど奇妙に見えた。遠目には緑のひとかたまりが見えるようで、実はその大半が侵略雑草である。農民たちが朝から大汗をかきながら引っこ抜きにかかっているのだ。再生魔法の後遺症。高々数年でこれほどの惨状になるとは、誰が予想しただろう。
彼の領地は、もはや帝国の命令に縛られず、自治領としてかろうじて踏ん張っている。皇帝の威光はどこへ消えたのか、元老院での討論会はいつぞやの年寄りの寄り合いのような滑稽な音ばかりが残っている。誰もが口先だけで善政を語りながら、さて実際に動くときになると動こうとしないか、あるいは動こうとしても足を取られる。だからガイウスは、この地を独力で守ると決めた。
彼に言わせれば、隣の領だろうがなんだろうが、今や中央からはどうにもならないのだから、お互い勝手にやっていくしかない。しかし、その隣領がこのごろ妙な動きをしている。つまり、こちらへ押し寄せる難民を裏でけしかけているのではないかと噂されていた。飢えた者たちが少しでも糧を求めてくれば、ガイウス領の畑を荒らすことになる。折しも、雑草撤去で手一杯のこの状況で、余計な混乱はごめんこうむりたい。だが難民をまるごと突き返せば、こちらが鬼のように見えてしまう。それでも守るべきは自領の民であり、土の再生が遠のくほどの混乱は避けねばならない。
ガイウスは食べかすを指先ではらい、執務室へ向かう。曇りガラス越しに射し込む朝の光が、書簡や公文を積み上げた机をうっすら照らしている。あの境界付近は今日も警備を厳重にせねば、と意識していると、執事がそっと部屋へ入ってきた。まばたきの回数だけは妙に多いその執事が、低い声で「領主様、昨夜もまた数名の難民がやってきまして。雑草除去の作業なら手伝うと言っていますが、なにぶん食料の備蓄は限りが…」と報告してくる。
思わず苦笑がもれる。雑草除去を手伝う見返りにパンをくれというのだろう。あいにくこちらは雑草を除去するための労働力が欲しい、いや、本当は欲しくないのだが、やらねば食糧生産には戻れない。でも余剰の食い扶持を抱える余裕もない。なんとも皮肉な取引である。もし彼らを冷たく追い払えば、不穏な噂が立ち、いずれは盗賊やら隣領の口車に乗る連中に化けるかもしれない。だからこそ頭が痛い。いっそ「雑草帝国」とでも改名すればどうだ、と冗談のひとつも言いたくなる。
書簡の山から一枚を引き抜き、ガイウスは鋭い目つきでざっと目を通す。そこには、地表の灰色化が進んでも少し下の層を掘り返せば、比較的無事な土が出てくる、という最新の“研究報告”が綴られている。さらに侵略雑草の根が地下深くの豊富な養分を吸い尽くしているともある。つまり雑草を取り除き、ある程度の掘削をすれば、従来の収穫量に戻る見込みが高いのだ。研究所の若い者が随分と熱心に調べ上げたらしい。なんとも心強い。しかし、民衆の目には「雑草を引っこ抜く作業ばかりで、いますぐ腹に入るものを生まない」と映る。そこに不満がある。そこが辛い。
彼は窓外を見やる。農民たちは休む間もなく砂や枯草をかき分けて、まさに“根こそぎ”掃除をしている。実際、重労働の割には収穫につながらないから、現場には疑問も鬱屈もたまるだろう。だが諦めず続ければ、やがて地中から健やかな土と、彼らの未来が顔を出すはずだ。そう信じてくれと説くだけでなく、実際に示さねばならないのが領主の務めである。
たとえば経済面でも小細工を凝らした。飢えを遠ざけるために、穀物の一部を使い、領内限定の証紙を発行した。あくまで自領内のみ通用する代用通貨であるが、物々交換ばかりでは不便だし、帝国の硬貨はもう信用がない。だからこうした工夫が必要になる。魔法の利用についても、法律を整備した。許可なく再生術を使えば重罰。その代わり、医療や灌漑など、領主の認可が下りれば制限付きで魔法を行使できる。あちらこちらで苦笑を買ったが、秩序が崩壊した今こそ、こうした手続きを形にすることが“生き延びる”術なのだ。
あれこれ思案していると、柵の外から物悲しい合図のラッパが鳴った。その音に、彼はそっと目を上げる。どうやら巡回兵が戻ってきたらしい。踏破してわかったこと――大勢の難民が境界をうろついているが、まだ本格的に押し寄せる気配はない、と報告が入る。一方で、隣領は相変わらず「知ったこっちゃない」とばかりに斜に構えているようだ。こっちの雑草除去を“くだらない仕事”と嘲っているらしいが、その土地の畑はもはや砂の海に沈んでいるという話だ。
彼は瞬きしながら、呆れて笑いそうになる。どうして皆、崩れてから気づくのだろう。いや、気づいていても目を背けているのかもしれない。現実からは逃げられないというのに。頭痛の薬代を節約するために、こうして彼は苦笑をもって不安を押し流しているのだ。笑いは往々にして防衛の道具になる。
机に散らばった紙片をひとまとめにし、ガイウスは大きく伸びをした。雑草の根を掘り返す作業は今日も続くし、難民対策も、経済の安定も、すべてがあと回しにできない最優先案件だ。それでも一縷の望みは見えている。地表を取り除けば、そこにはまだ生きた土が残されているのだから。今は辛抱の時なのだ、と彼は自分に言い聞かせる。毎日の雑草除去は、まるで砂漠に水を注ぐような徒労に思えるかもしれない。しかし、一本一本の雑草を抜き、硬くなった土を耕し返すたびに、彼らは新しい未来への一歩を刻んでいる。
すべては雑草と砂を取り除いた先の、ほんの小さな大地のために。
その言葉を胸に、ガイウスは再び窓の外を見やった。夕暮れの空の下、農民たちはなおも黙々と作業を続けている。その姿に、彼は確かな希望を見出していた。たとえ今は荒れ地に見えようとも、いつかこの土地に再び豊かな作物が実るその日まで、彼らは諦めることなく歩み続けるのだ。