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斯くして文明は滅びん  作者: eight
第一章 ヴィルタス帝国編:野に放たれた緑の奇跡
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1.10 商人マルクスの退路

マルクスは頭上の雲一つない青空を見上げながら、ひどく懐かしい気分に浸っていた。あれから数年、この帝国で山猫の勘を発揮しようとした結果、馬車も財産もほとんど奪われたあの朝の記憶は、もはや淡い笑い話に思える。いや、笑うほかないのだろう。帝国全土に蔓延する再生魔法の後遺症はますます深刻になり、今では街道の大半が破砕された石と雑草の密林と化している。とうてい安全な輸送など望めない現状で、商売を続けるなら、別の地へと身を移すのが正解に違いない。


彼は地図の切れ端を眺めながら、どの国に渡るべきかを思案している。西にはかつて交流のあった王国があるが、その筋の情報では内乱の火種がくすぶり、商人にとってはあまり芳しくない。北方の連合都市群は規律が厳しく、密輸まがいの儲け話など通用しそうもない。一方、南方の公国は古くからの自治権を大切にする風習があるとかで、独立気質の領主が多いらしい。そこならば、特異な外交手腕さえ見せれば、比較的自由に動ける余地があるかもしれない。もっとも、辺境の治安や流通ルートに関する噂話すら乏しく、その分、博打要素も大きい。


もちろん東へ逃れるという手もある。帝国の東隣には小国が点在し、まだ大きく荒れてはいないようだ。だが、その地域の市場はまだまだ成熟しておらず、一攫千金が期待できるかは不透明だとも聞く。人並みの安定だけを求めるなら、北か東へ行けばいい。だが、マルクスの気質はかつて「どうせなら賊と隣り合わせの道を通ってでも、一山当てる」と馬鹿にされるほど貪欲だ。危ういところへ踏み込むほど、他人が近づかず、つまり競争が減るというのが彼なりの理屈なのである。


馬車の残骸を失った日々から、しばらくは帝国の町外れで小商いを続けてきた。ささやかな宿と人目を忍ぶ倉庫を借り、こまごまとした生活物資を仕入れては売り、かろうじて命を繋いだ。だが、その間にも帝国の衰退ぶりはますます顕著になっていく。大農場は軒並み雑草に呑み込まれ、復興のための再生魔法も逆効果となり、土の栄養は完全に枯れ切っていた。むろん、それを放置するほど帝国当局は間抜けではないはずだが、補給路が崩れた今、どれほど命令を飛ばそうが現場まで届かない。結局、この国全体が飢えと混乱に飲まれ、誰も助からない――そんな末路さえよぎる。


「ここまで来ちまったら、いっそ外の世界へ情報を売ったほうが得策じゃないか」


馬の首にくくりつけた小さな荷物の重さを確かめながら、マルクスはそう呟く。貴族が手放した領地の地図や、廃れた街道の詳細、さらには帝国で暗躍する盗賊団の構成や取引ルートなど、彼が二年の間に集めてきたネタは意外と多い。この国にとどまって商売を続けるより、むしろ外の国の宮廷や有力者たちに「帝国の脆弱性」を暴露して彼らの興味を煽れば、特別顧問だとか、異国の財務官的な職を得られるかもしれない。情報こそが何よりも高値を生む商品だ――そう思うと、薄ら寒い風の中でも背筋がかすかに震える。


「もっとも、それが売れる相手を見つけるのが難しいんだがな……ああ、いっそ“帝国がいかに危ういか”を大げさに宣伝して回れば、どこかの国が『それは面白い、詳しく話を聞かせてくれ』と言うかもしれん。はは、笑い話みたいなもんだが、商売ってのは皮肉や誇張と親戚みたいなもんさ」


かつて宝石を扱っていたころにも、マルクスは似たような芸当を披露してきた。まるでありふれた石を神秘の呪術石と称して高値で売りさばくなど、言葉と情報を操るのが得意なのだ。事実として、この帝国の崩壊が進んでいるのは紛れもない真実だから、ちょっとばかりの尾ひれをつける程度なら、誰も文句は言えまい。


彼は帝国の辺境にある小さな川を見下ろしながら、馬に水を飲ませる。遠くには、今にも崩れそうな石橋がかすかに見えるが、ここを離れると決めた今、あの橋が落ちようが燃えようが大した問題ではない。この国でずっと踏ん張るよりも、外へ出て自分の知識を生かすほうがよほど建設的に思える。いずれ大群雄割拠の時代が到来すると知っていながら、わざわざ地獄を見学し続ける気にはなれないというわけだ。


「さて、問題は行き先だ。南の公国に賭けるか、東の連邦にしれっと滑り込むか。どっちにしろ、もうこの帝国で一山当てるのは難しい。名残惜しいが、搾り取れる金脈は枯れたってことだな」


マルクスは頬を掻きながら短く息を吐く。機会というのは残酷なもので、活気あるときは競争相手であふれ、荒廃してしまえば利益そのものが消し飛ぶ。だったらどうするか。彼の得意技は、“他人の知らない情報”を見つけて掘り起こし、それを高値で売ることだ。その情報が帝国の終末だろうが、賊の根城だろうが、買い手さえいれば値段はつく。おまけに他国の上流階級は、この国の衰退を格好の題材にして、自国の政治力を誇示したがっているかもしれない。実に滑稽な話だが、商人にとって政治の皮肉はちょうどいい酒の肴でもある。


「使える資料は山ほどある。そう、この二年で俺が必死に掻き集めた知識の断片は無駄にしちゃいない。賊の構造や王宮の資金繰り、兵糧の動きなんかもある程度は把握してる。外国に売るにしては最高のネタじゃないか。帝国が滅ぶ前に一稼ぎして、そのまま高みの見物といこう。ふむ、そう考えたら気が楽になるな」


マルクスは馬の背に軽く身を預ける。どのみち、この帝国が復活する兆しは見当たらず、内戦の噂もちらほら聞こえる。となれば、外へ持ち出せるものは自分の身と頭だけだが、彼はそれで十分だと思っている。むしろ箱や荷車に詰めるより、彼の脳裏に蓄えられたこの国の内情こそ、もっとも重宝される宝石なのだ。


「いいさ、数年後にはこの帝国がどうなっていようと、俺はその先の地でうまい飯を食ってるかもしれない。いや、けっきょく失敗して流れ者に成り下がるかもしれんが、それはそれでご愛嬌だ。だって、商売なんざ常に半分は博打みたいなもんだろ?」


彼はそう言ってくすりと笑う。馬が少し驚いたように鼻を鳴らし、その音が辺境の風の中をすうっと消えていく。二年前に姿を消した仲間や、無一文でうろついているかもしれないかつての商人仲間たちの顔が脳裏をよぎるが、いまや全員どこでどうしているかさえわからない。少なくとも、これ以上の掘り下げを続ける義理もないだろう。ここは“見切り”を付けるのが賢明だ。


「さて、そろそろ動くか。馬車がないのは不便だが、川を渡れば町に出られるはず。宿で一服したら、情報通の旅人でも探してみよう。いい話があれば、それに乗って南か東へ行くさ。ま、北に行く可能性も捨てきれん。意外と退屈な連合都市にも骨董好きの貴族がいて、“帝国崩壊譚”なんて聞かせたら大喜びするかもしれんしな」


そう独り言を漏らしつつ、マルクスは馬の手綱を握る。彼の足取りにはほんの少しの迷いと、それ以上の好奇心が混じり合っている。この国の混沌を飛び越え、新天地で自分の知識を武器に再び賭けに出る。それが儲かるかどうかは、山猫の勘ですらわからない。だが、わからないからこそ挑みがいがあるのだ。彼にとって金と情報は一体であり、国の盛衰さえ売り買いの材料になる。喉元を通り抜ける風は冷たいが、袖を払って歩き出すマルクスの瞳には、不敵な光が確かに宿っていた。


彼は迷わない。あるいは、自分を欺いているのかもしれない。それでも、この国が崩壊するなら、その一歩先へ跳ぶしかないと腹をくくっている。遠くの空には、灰色の雲がもやのように浮いているが、やがて風に散らされるだろう。帝国もまた同じだ。強風一つで吹き飛ぶような脆さを内包している。そして、その崩れゆく姿こそが、新たな金脈を呼び寄せる要素にもなり得るのが世の常だと、マルクスは薄く口元を歪めながら心の奥で確信している。今日もまた、馬の足音が荒れた大地をコツコツと叩いて、世界のどこかに消えていく。彼の商人魂は死なず、むしろ次の獲物を狙う山猫のように研ぎ澄まされていくばかりだった。

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