1.1 旅人、噂を聞く
酒場という場所は、実に奇妙なものだ。豪奢な椅子や調度品など欠片ほども無いのに、そこには世界のすべてが詰まっている。酔客どもの高笑い、隣国でしか聞いたことのない楽器の弦の音、そして旅人たちが土埃まみれの靴と共に運んでくる浮世の噂。
奥のテーブルで胡座をかいていた青年が、鼻先でグラスを揺らしている。もっとも、この男自身、そんなに驚きを誘うほどの風貌は持ち合わせない。黒髪に褐色がかった瞳。鍛えられたというよりは、無駄なく整っている身体。年の頃なら二十代半ばに見えるが、その背後にはいくつかの歴史が貼りついている。
彼の名はイシュエル。ここではただの旅人として通っているが、語り草にされるほどの異形でも、威圧感を与えるほどの英雄でもない。ただ時々、目の奥に古い本のような静寂を感じさせることがある。それを見抜く者はごくわずか――だが今のところ、この酒場でそれを悟る者は誰もいなかった。
酒場の入口には「ラグルの小憩所」と大書きされている。場所は帝国領の外れ、いや、もっと外れかもしれない。名前だけは聞いたことがある都市連合の一角であるが、このあたりの土地勘を正確に持つ者は少ない。辺境の交易路にポツンと立つ街道沿いで、旅人たちが疲れた足を休め、ありあわせの食事で腹を満たすために寄るような場所だ。
その夜。酒場の床に敷かれた古いラグはもう擦り切れて、酒と油と泥の匂いが混ざり合い、さながら長年連れ添った馴染みの友人のごとく空気に溶け込んでいる。
軽くすすけたランプがカウンターをほの暗く照らし、そこでは丸顔のマスターが忙しく酒樽を操作していた。はちきれそうな腹を揺らしながら、彼は弾かれたようにグラスを洗い、また注ぎ、洗い、また注ぐ。その繰り返し。
「おや、あんた――いえ、失礼。お客人は旅のお方かな? 随分変わった服を着ているようだが」
手に持ったグラスを伏せながら、マスターが言葉をかけた。
テーブル奥に座っていた青年――イシュエルは、ふわりと肩をすくめて微笑む。
「変わった、というのは褒め言葉かな?」
「悪くは言っていないさ。単に、このあたりじゃあまり見かけないってだけだ。わしはラグルと申す。自分の店に自分の名をつけるほど厚かましくはない、と思っていたんだが、これがどうにも飾り付けが下手でね。まあ、看板を作ってみたら意外と評判が良くってさ」
マスターは顔を綻ばせたあと、イシュエルの前にスプーンやナイフが入ったバスケットをどんと置く。「適当に使ってくれ。料理はあんまり自慢できるもんじゃないが、客が少ない分、食材はそこそこ新鮮だ」
イシュエルは微笑みを返すだけで、言葉をそれほど多く紡がない。とりあえずグラスの縁を唇にあて、口の中をほんのりと刺激する酒の香りを楽しんだ。
酒場の隅では犬のような生き物がうたた寝しており、時折、客がやかましく笑うとびくりと耳を振る。
カウンターから微妙に離れた席――イシュエルはそこを好んで選んだのかもしれない。
「旅の途中かね?」
マスターが再び話しかけてくる。
「そうだね。最近は大した目的もなく、ぶらぶらと各地を巡っているんだ。強いて言えば、ちょっと興味をそそられる噂があってね」
「噂? それはまた、楽しい話かい? それとも物騒な話か?」
言葉に困った風でもなく、イシュエルは再び肩をすくめる仕草をする。
「どうだろうね。物騒といえば物騒かもしれない。大したことじゃないかもしれない。ここから少し行った先の――ヴィルタス帝国。その近郊で妙な魔法が見つかったと聞いたんだ」
マスターは驚いたように目を丸くして、盛大にグラスをひとつ落とす。
「ヴィルタス帝国の、妙な魔法? へえ、それはもしかして“瞬時に作物を増やす”とかいうアレか?」
「噂が広まっているのかな?」
マスターはグラスを拾い上げ、ほら、こんなふうに噂が駆け巡るんだよ、とでも言いたげに苦笑した。
「最近、うちの店にも帝国の使者らしき連中が酒を飲みに来たんだ。どうも、帝国はさらに領土を広げる算段だとかで、辺境の方へ総督を派遣するんだとさ。そりゃあまあ、金が動けば人も動く。人が動けば、あちこちで酒を飲む。そうすれば噂が飛び交うってわけだ」
イシュエルは視線をマスターからわずかに外し、壁に貼られた貼り紙を見やる。そこには「馬車旅の注意:砂漠方面へは水を余分に携行せよ」と書かれている。
「なるほど。帝国は食糧を増産するために新しい魔法を導入している――そう聞いたよ。思えば、ヴィルタス帝国はかの大河と広大な平野をもっていて、道路や水道橋なども整備されているとか。それって本当かい?」
マスターはニヤリと微笑み、グラスをまた注ぐ。
「お客人、帝国の噂を詳しく知りたいのかい? まずは、あそこはやたらと広いんだ。帝都ヴィルタを中心に、放射状に舗装路が延びている。しかも、あちこちにでっかい石の橋脚があるんだと。わしは近くまで行ったことあるけど、でかい水道橋があるのは確かだね。まるで山を切り開いたみたいに続いていて、見上げていると首が痛くなる。すごいもんだよ。ま、あれだけの土木工事ができるっていうのは、それなりに統一された政治と技術がある証拠さ。おまけに奴隷も多いって噂だがね」
「奴隷、か」
イシュエルは何気なく呟く。
「うん、戦で捕らえた異民族だか、債務奴隷だか、都市部の貧民層を取り込んでいるとも聞くね。なんとも複雑な話さ。彼らは帝国の大農場で汗を流し、都市建設に駆り出され、時には闘技場の余興にも使われるらしい。もっとも、帝国の貴族は『我々が指揮するからこそ文明が成り立つのだ』と胸を張っている。まあ、それほどに大きい国だよ」
イシュエルはグラスを回しながら、ふとした空気の揺れを感じ取った。酒場の扉が開き、二、三人の旅人らしき男たちが入ってくる。濃い埃の匂いが舞い込むのと同時に、マスターが「いらっしゃい」と声をかける。
「じゃ、あんたは何でその帝国の魔法に興味を持ったんだい? まさか、いまさら帝国の軍にでも入りたいわけでもなかろう?」
「はは、まさか。単純に、そんな魔法があるなら見てみたいなって思っただけさ。世の中には珍奇な術や秘法が山ほどあるからね」
イシュエルはそう言ってから、ほんの少し思案顔になる。そういえば昔、ある王国の図書館で見つけた古文書の端々に、“土壌を活性化する呪術”などという注釈があったのを思い出した。もっとも、その王国は今では伝説の霧の彼方だ。自分が知る限り、まともな形で残ってはいまい。
マスターはイシュエルの表情の変化を見逃さなかった。
「ほう、それほどの興味となると、お客人、もしかして学者か何かかい?」
「どうだろう。昔は勉強ばかりしていた気がするけど、今はただの旅人さ」
うまくあしらうように言葉を返すイシュエルに対し、マスターは口の端を上げて笑った。
「旅の学者ねえ。まあ、珍しい話じゃないが、どこで学んだんだか。帝国の学術機関ってのは結構有名らしいぜ? 元老院附属の大学みたいなものもあるとか。文献を整理し、法律をつくる専門家までいると聞く」
「聞くところによれば、法治も進んでいるらしいね。各地方には総督を派遣して、税や治安維持を統括しているそうだし」
会話が弾むうちに、店内のほかの客たちも「ヴィルタス帝国」の話に耳をそばだて始めていた。なにせ帝国は今をときめく大国のひとつで、さらに辺境への侵略や領土拡張を試みているという噂が絶えない。そのあたりの話題は、酒の肴として絶好なのだろう。
「領土拡張もそうだが、あそこは人口も増えているらしい。食糧の確保にはいつも苦労していると聞くがね。ま、河川が豊かだから大丈夫という話もあるが――」
マスターはそこまで言って、さきほどの旅人らしい客にビールを注ぎ、釣り銭を渡す。カウンター越しにひと息ついてから、続きを口にする。
「で、その新しい魔法とやらは、どうも刈り取った麦の束が目の前で再生するんだと。これが本当なら、まるで神話さ。だが実際、知り合いの運び屋が『信じられないほどの大量の穀物を運ばされた』とか騒いでいた。おかげで相場はどうなるんだと、あちこちでザワついてるらしいんだよ」
イシュエルは片眉を上げる。穀物が瞬時に再生する? そんな術式が本当にあるのか? 古文書にも載っていなかったが、とはいえ魔法というのは往々にして、世界のどこかで突飛な形を取ることがある。
――興味深い。今までも、奇妙な呪法に数限りなく出会ってきた。人を石に変える魔術、獣の姿に変貌させる闇の儀式、身体を永遠に保つ――…いや、思考が少しだけ古い記憶に入りかける。
彼は意識的にグラスを持ち上げ、酒をひと口含むことで頭を冷やす。それ以上、過去のことを想起しても今は意味がない。何しろ「今」は、ヴィルタス帝国で奇妙な魔法が生まれ、世間が騒ぎ出そうとしている――そんな新しい時代の入口だ。
「やっぱり、ひと目見たいね。その魔法を」
そう呟くと、マスターが興味深げに身を乗り出してきた。
「お客人、行くのかい? あの帝国へ」
「うん。何か面白いものがあるかもしれないし。旅はまだ続く身だからね」
「やめときなさいって声も多いぞ。帝国は広大だが、近年は少し物騒になっているらしい。動乱の噂もあるし、軍の遠征も活発だ。もっとも、街道が整備されているから、行くだけならそんなに苦労はないかもしれないがな」
マスターは冷ややかな笑みを浮かべるが、イシュエルはどこ吹く風。彼には慣れた世界の風景にしか映らないのだ。大国が膨張を続ける時期、あるいは衰退に片足を突っ込んでいる時期――それは人々がひどく興奮し、あるいは不安に駆られる時期でもある。そんな姿を、彼は数えきれないほど見てきた。
「ありがとう、忠告はありがたい。でも、まあ、何とかなるだろう」
イシュエルは軽く笑い、コインを取り出して勘定を済ませる。酒場のマスターは「無茶しなさんなよ」と苦笑いしながら、玄関の扉を見送る仕草をする。
店内のほかの客たちは、相変わらず騒がしく談笑し、大声で帝国批判や帝国礼賛を繰り返している。「帝国は奴隷に頼りきりの差別社会だ」「街道は見事だけど、戦争で生き延びるなんて、まっぴらだ」――どれも己の立場や事情に基づく勝手な噂ばかりだ。
誰もが、満面の笑みや苦い顔の裏で「他人事」として帝国の話を肴にしている。どの国もどの民族も、遠い地の超大国について語るときは、得てしてそんなものかもしれない。
扉をくぐり抜けたイシュエルは、夜の街道に出た。月明かりが山の稜線を照らし、乾いた風があたりを吹き抜ける。酒場の灯が通りにぼんやりと漏れているだけで、それを離れれば闇の世界が広がっていた。
少しばかり店先で足を止め、彼は静かに夜空を仰ぐ。まるで天球に刻まれた壮大な古文書でも読み解くかのように、星の位置を確かめる。そして、しばし唇を引き結んで考える。
「どうなるんだろう、この魔法は。『瞬時に作物が再生する』…学術的にありえないとも言えないが、そんな術を本当に使いこなせているのかな」
独り言のように呟き、すぐさま苦笑して首を振る。そんな答え合わせをするために、これまで幾度となく遠い国へ足を運んだことを思い出した。
かつては、彼の知的好奇心や探究心は“研究”というかたちで昇華されていた。今はただ、「世界は広い。面白いものがきっとあるに違いない」という軽やかな興味だけが彼の背中を押す。
闇の奥から、ふわりと草の匂いが漂ってきた。視線の先には、薄青く霞む平野が広がっている。聞くところによれば、そこを抜けた先にヴィルタス帝国の国境があるのだという。夜が明ける頃には、まだ見ぬ街道の石畳と出会えるだろうか。
イシュエルは再び歩みを始める。腰の小袋には最低限の旅装と道具、そして地図の切れ端があるだけ。彼にとってはそれで十分だった。
生まれてから五百年、あるいはそれ以上かもしれないが、同じように新たな街へ、国へ、未知の魔法へと足を運び、また去っていく――それが彼の旅のスタイル。なぜ旅を続けるのか、と問われても、明確な答えは自分でも持ち合わせていない。
ただ、現在の彼は「この世界には、まだ知らないものが溢れている」という事実に、言いようのない愉悦を感じるだけ。それが自らの宿命なのか、呪いなのか。それとも長い年月で擦り減った感情の名残なのか――彼自身にも判然としないまま、夜の闇に消えていく。
その背中はどこか悠然としていて、通りすがりの誰もが「危機感が足りないのではないか」と思うほどに、静かな歩調だった。だが、視線は遠くを見据え、確かに何かを探し求めている。
ヴィルタス帝国。かの国は古くから繁栄を極め、軍事も政治も一流だと言われる。街道や水道橋が整備され、貴族や元老院が政務を取り仕切り、奴隷制度により膨大な労働力を支えている。領内のどこへ行っても、大きな闘技場や公共浴場があるとも聞く。
そして今、その帝国が食糧事情をさらに改善するため、未知の魔法を取り入れた――という噂。何やら触れてはいけない領域にも思えるが、それ以上に好奇心をそそる何かがある。
イシュエルにとって、“これまでも見てきた栄枯盛衰”の、また一つにすぎないのかもしれない。だが彼は、まだそれをただの一つとして数え上げるには至っていない。少し特別な期待を抱いている――どんな新しい世界が待っているのか、と。
酒場からのざわめきが風に乗り、背後でかすかに響いた。
「お客人、行ってらっしゃいよ!」――マスターの声が聞こえた気がする。
イシュエルは少しだけ手を挙げて応じる。彼にとって、この程度の別れの言葉は日常茶飯。半年以上同じ場所に留まれば、微妙な“呪い”が周囲を蝕む可能性があるため、どのみち出発は不可避。どんなに良い酒場であっても、ここには長居できない。
“帝国の魔法”。その響きが彼の内側でゆっくりと響きを増す。人の大勢は、その魔法がどれだけのインパクトを帝国に与えるか、それが神の恩恵か、はたまた悪魔の戯れかも知らないまま噂話の種にしている。
イシュエルは純粋な研究者の視点で、そして飽きることなく古今東西を巡る旅人の視点で、ただ「一度見に行こう」と思ったに過ぎない。そこに使命感などない。ましてや世界を救おうとか、逆に破滅をもたらしてやろうとか、そんな大仰な考えはかけらもない。
深く息を吸い込むと、ざらついた空気とともにかすかな土の匂いが肺に入った。遠くに微かな灯りのようなものが見える。道沿いの村だろうか。そこに泊まるか、あるいは夜通し歩き続けて、朝方には帝国国境近くの宿場町に着くか。
イシュエルは、どちらでも良いかと考えつつ、一歩、また一歩と闇を裂くように歩を進める。生きている――それも五百年。自分が何者で、どうして不老を得てしまったのか、その詳細は今は語らない。ただ彼の寿命は人のそれとは比べものにならず、慌てずともたどり着く時にはたどり着くだろう、と思えるほど、悠長な時間の感覚を有している。
だからこそ、世界の変化を眺めることは彼の唯一の楽しみだ。それが人々には危険な挑戦であっても、彼にとっては流れる季節のようなもの。一度切りの人生を生きる凡人には理解しがたいかもしれないが、実際、彼の旅はずっと前から続いており、そしてこれからもずっと続いていくのだ。
おそらく帝国の栄華も、それを取り巻く幾多のドラマも、いつかは塵に帰す。けれど、今はそれを知る必要はない。イシュエルにとって、すべては“次の数歩”の先にある新鮮な光景であり、興味の対象なのだから。
酒場の明かりが視界から消え、夜の静寂に溶け込むころ、イシュエルの足音だけが鳴り続ける。
闇の向こう――ヴィルタス帝国――そこで何が待ち受けているのだろう。
不思議な魔法? どんな術式なのか? ふと胸の奥がわずかに熱を帯びるのを感じる。彼の中には、かつて研究者としての血が流れていたからかもしれない。知らない世界を覗くことの魅力――それは、たとえ数世紀生きても飽きることのない宿題のようなもの。
そうして、イシュエルの旅は続いていく。いつ終わるとも知れぬ、長い旅。今宵もまた、夜風だけが静かに、彼の後ろ姿を撫でていた。