どうもこんにちは、伯爵令嬢です。枕営業しに来ました。
匂いよし、身だしなみよし、下着…もたぶんヨシ!
ではいきましょう!
公爵家のタウンハウスはやはり広くて豪奢です。
私は深く沈むソファで身体が転がってしまわないよう、いつもより少しだけお腹に力を入れてシュッと背筋を伸ばしました。
「こんにちは。枕営業をしに参りました」
いま私の目の前にいるのは公爵家のご令息、アダルスタン様です。噂に違わぬ美男子ですが、セットしていない髪や胸元が開いたままのシャツから、私を歓迎していない空気は十分なほど伝わって来ます。
しかし気だるげだった雰囲気が一変、私の言葉に表情をこわばらせました。肩につくかどうかという長さの赤毛は無造作に揺れ、怜悧な印象を際立たせるグレーの瞳は私の顔の端から端まで何度も往復します。全然目が合わない。
「いま、なんて?」
「枕営業をしに来たと申しました。我が伯爵家は今夏の長雨によって作物が壊滅、さらに鉱山も崩落したためもはや打つ手なし。かくなる上は他家からの援助を求めるほかなく」
「それでなんで枕?」
「昨年から取引を始めた商人が……女だてらに自分の店を持つばかりかほんの数年で取引の数や規模を数倍に膨らませた才人なのですが、彼女が『最も手早く確実に取引を成功させるなら枕営業だ』と」
「聞く相手を間違ってないか。というか商人も商人だろ、そんなこと言うか普通」
「実績がありますから」
アダルスタン様は赤毛をくしゃっとかきあげて、小さく溜め息をつきました。
「伯爵家もよくそんな女と取引を……あ、いや、失言だった。忘れてくれ」
「彼女は我が伯爵家に大きな利益をもたらしてくれました。そちらには何も問題はありません。ただ、見込んでいた収入がなくなってしまったことが大問題なのです」
「それで? なぜ当家なんだ、しかもなぜ俺に? そういった規模の金を動かしたいなら父を通せ」
断られるだろうがな、とアダルスタン様は鼻を鳴らします。けれど彼は何か勘違いしていらっしゃると思います。公爵様では意味がないのに。
「アダルスタン様は不眠に悩んでおられると聞きました」
「ん?」
「ですから、よく眠れるように」
「もしかして本当に枕を売ろうとしている?」
眉根を寄せたアダルスタン様も実に魅力的です。でも睡眠不足なせいか論理的な判断ができなくなっているのでしょうか? 枕を売るだなんて……。ちょっとだけ心配になってしまいました。
「……? 枕を売っても領民を食べさせるだけの金額にはなりませんよ?」
「それはそうだ。よかった、そっち側にはぶっ飛んでなかった」
「話を戻します。その女商人を御用聞きとして以来、父は快眠だと大喜びで」
「待て。あんまり外で言ってやるな、その話は」
室内に沈黙が落ちました。この話はしてはいけない……?
私は元来ただの伯爵家の娘であり、それ以上でも以下でもありません。社交における多少の駆け引きはできても、領地ひとつを維持させる金額を動かすようなビジネストークなど未経験なのです。
「困りました」
「俺のほうが困ってる」
「まずお試しいただいて」
「試す? 待て、枕営業のなんたるかは理解しているんだろうな? 普通、元となる取引があって、それを有利に進めるために――」
「承知しています。ですがまずは試していただかないと」
アダルスタン様の視線が一瞬だけ私の胸元を走ってから、彼は深く沈むソファーの座り心地が悪いのか度々お尻のポジションを直しました。もう少し弾力の強いものに買い替えたらいいのに。我が家の女商人を紹介して差し上げようかしら。
「待て。いくらなんでも枕営業をしますと言われて、はいよろしくとはいかん。まずどんな取引を持って来たのかを説明したまえ。それが検討に値するかどう――」
「んもう。埒が明かないです。えいっ」
「は、おい、ちょ……グゥ」
寝ました。かなり睡眠不足だったみたいです。秒で寝た。
宙をふわふわ舞っていた霧状の水分が消えるのを待って、止めていた息を長く細く吐き出しました。手の中の香水瓶をポケットに戻し、対面のソファーへ移動します。
◇ ◇ ◇
温かくて程よい弾力の枕がとても心地よくて、浮上しかけた意識を再び夢の底に沈めようと小さく寝返りをうつ。薔薇のような華やかさと百合のような涼やかさを合わせ持った香りが鼻腔を通り抜け、そのかぐわしい香りを追いかけて顔を枕にうずめ……。
むにっとした。むにっ?
さすがに枕らしからぬ感触だ。
「ふふ、くすぐった……」
上のほうから女の声がこぼれ落ちる。は?
眠気など吹き飛んだ。目を開ければ、上から覗き込む伯爵令嬢の青い瞳と視線がぶつかる。
「うわぁぁぁぁぁっ!」
がばっと起き上がり、寝ぼけていただけであることを祈りながら振り返る。
「おはようございます、ぐっすりでしたね」
「うわぁ、夢じゃなかった」
「いい夢をご覧になりましたか?」
「覚えてないが、いまこの状況が究極の悪夢だ」
じりじりとソファーの端へ移動して距離をとる。
今は何時だ? 俺はいったいどれくらい眠っていた?
「なんと一時間お眠りになりました。これがベッドでしたら翌朝までぐっすりだったかもしれませんね」
「俺になにをした?」
「膝枕を。枕営業するって言ったじゃないですか」
「全く会話が噛み合わない」
「あっ、コレのことですね?」
伯爵令嬢ミラベルはドレスのポケットから小さな香水瓶を取り出した。そうだ、思い出した。突然彼女がその瓶をこちらに向けてポンプを押したのだ。
「それは一体……」
「鉱山が崩落したという話はしたかと思うのですが、崩れた先になんと大穴が出現したのです。降りてみるとそこは空洞で、見たことのない植物が群生していました」
彼女の声色が変わり、やっと本題に入ったのだとわかる。俺の頭の中でなんらかのスイッチが入った気がした。いや、やっとすぎるだろ。
「続けて」
「調査隊はその植物をサンプルとして採取して戻りましたが、朦朧とした状態で大変だったと聞きます。が、真に驚くのはその植物について調べてからでした。なんと、絶滅が疑われていたゴールドムーンジャスミンだったのです」
「その情報は間違いだ。日光を嫌い寒冷地を好むため北方の森なら生息地があるはずだと……そうか、地中は確かにゴールドムーンに快適な生息域と言える」
国内での目撃例はもう数十年ほどない。森の開拓と同時に姿を消してしまったのだ。
「香りが良かったので香水としての需要を考え、蒸留したところ」
「寝た?」
「はい。確かに古い植物の本には病床に飾るのが良いとは書いてありましたが、それが眠りに誘うからだったとは。それで我々は――」
淡々と語る彼女の口調は、当初のイメージからは想像もつかないほど理路整然としていた。
最初はぶっ飛んだヤバイ奴が来たなと思ったが……いやいきなり眠らせる奴がヤバくないわけないだろう、騙されるな、俺!
「起死回生の一手になり得ると考えたのはわかった。で、なんで俺のところに?」
「共同研究の相手を探しておりました。こちらは資金の提供ができませんので、それを踏まえた上で双方に利のある契約を結べる相手です。アダルスタン様は植物は専門ではないものの、ロウソクの素材についてお詳しいので」
「ロウソク……? 確かに歴史上、香煙を焚いて病を遠ざけたとする資料もあるが」
ミラベル嬢は手の中の香水瓶を再びこちらに向け、俺は慌てて口と鼻をクッションで覆った。なんてことするんだ、この女は。
「私は香水や精油としてこれを世に出したくないのです。かなり成分を薄めたこれでさえ、睡眠不足のアダルスタン様は秒で寝ましたでしょう」
やっと彼女の真意が見えた。悪用されづらい状態で、眠りを提供する商品として売り出したいのだろう。香煙のくゆる部屋なら室内にいる全員が寝るからな、うん。悪用しようと思えばいくらでもできるだろうが、ロウソクならまだマシであることは確かだ。さらに成分の割合を調整すれば――。
「だが、こちらの利益も考慮すれば伯爵家を維持するほどの利が立つかどうか」
「父は向こう三年、資金を貸し付けてほしいと。農地の回復と鉱山への新たな進入地点の確保を進める傍ら、ゴールドムーンジャスミンの栽培を軌道に乗せるつもりだとか」
「なるほど、そういう話なら――」
「あと私を売るそうです」
「なんて?」
「父が言うには『枕営業をすればもう嫁に出せないからそのまま買い取って貰う』だそうです」
新手の美人局かよ! やはりだいぶぶっ飛んでるな?
娘だけじゃないぞ、父親のほうがよっぽどぶっ飛んでる。なんなら父親は枕営業の正しい意味を理解してるだろ、これ。
「いや待て、君のした枕営業なら嫁に出せなくなることはないだろう」
……ただの膝枕だったし?
「父は私を売った利益まで含めて計算していましたし、持参金の用意もできませんからやはり身売りする以外にないのです。アダルスタン様が難しいようなら」
「難しいようなら?」
「ロウソクのことはわからずとも、植物研究の権威なら他に何名かあてがありますので」
「待て、その行く先々で『枕営業』するつもりか?」
「……? はい、当然です。心地よい眠りを提供してはじめてゴールドムーンジャスミンの効能に興味を持っていただけますので」
や、確かに俺は秒で寝たから良かったけど!
なんなら「枕営業します」の一言でいきなり寝室に連れ込む奴とか絶対いるだろ。だめだろそれは。いや身売りするって言ってんだからいいのか? もうわっかんねぇなコレ。
「あー、その、ここに来る前は他の誰かに営業したのか?」
「いえ、アダルスタン様が最初のお客様です」
「お客様言うな」
だよなー! セフセフ。まだ引き返せる。
「父はなぜアダルスタン様なのかと言っていましたが、私は貴方様しかいないと思い」
「と、とにかく。契約は前向きに検討するし、君が身売りを考えなくとも済むように……待て、何してる?」
「寝てたほうが痛みを感じずに済むと、女商人が言ってまし――グゥ」
「寝たっ!?」
いきなり自分に向けて香水瓶のポンプを潰したかと思うと、ふわっと舞った霧に包まれたミラベルが寝た。秒で寝た。自立しなくなった彼女の身体がぐでっと倒れ、俺は慌ててそれを支える。
なんなんだコレは、この状況は! 痛みを感じずにって、なんだよソレは! 寝込みを襲う趣味はねぇぞ、おい!
「アダル……さま……」
「やー、それは反則だろ」
ミラベル嬢の右手がぎゅっと俺のシャツを掴む。みずみずしいフルーツのような唇が小さく開いて俺の名を呼ぶとかさーそれさーもー。
彼女のピンク色の頬に月にも似た薄いブロンドがさらさら落ちる。それを耳にかけてやると、彼女はくすぐったそうに微笑んだ。
よくよく考えれば、ミラベル嬢は俺の研究と仕事についてよく理解していたように思う。国内のロウソクの生産のほとんどを我が公爵家が担っていることも、広大な農地でオイルを抽出できる植物を栽培していることも、タールなど新たな素材の探求を欠かさないことも、ほとんど知られていない。知られていないからこの年齢になって婚約のひとつもないのだ。
政治的な観点から見れば馬鹿げていると笑われるかもしれないが、自分の興味や仕事を理解しようとしない人物と添い遂げるなど無理だろう。
しかしミラベル嬢は。
「……困ったな。膝枕も思いのほか良かった」
◇ ◇ ◇
目を覚ますと、私は広いベッドに寝かされていました。
私も最近はゴールドムーンジャスミンの研究で寝食を忘れていましたから、すぐに眠ってしまったようです。これではアダルスタン様のことを笑えません。
ベッドから降り、さらに天蓋から出ると部屋の真ん中のソファーにアダルスタン様が座っていらっしゃいました。
「……起きたか。いや寝すぎだろう、もう三時間は経ったぞ」
「ベッドが心地よかったので。あの、痛いところは特にないのですけど、終わりましたか?」
「終わるも何も、最初から始まってない」
「そんな……! あら? 香水瓶がない」
「また寝ようとするな」
よく見れば、彼の目の前のテーブルに香水瓶が載っていました。
それを取ろうとテーブルへ向かい手を伸ばすと、パっとアダルスタン様が香水瓶を取り上げてしまいます。
「返してください」
「いま、契約条項について考えていたんだが」
「契約してくれるのですか? つまり痛くないだけで終わってましたか?」
「寝てる間に何が起こるかわかってて言ってるのか」
「……受粉?」
「よし、この話はいったんやめよう。契約が先だ」
彼に座るようにと言われ、対面へ腰をおろしました。あ、こっちはあんまりお尻が沈まない。
アダルスタン様がベルを鳴らすとメイドが入って来て、テキパキとお茶の用意をしてくれました。ひと口サイズの四角いお菓子はファッジです。焦げ茶色だからきっとチョコレート味。ひとつ摘まんで口に放り込んだ瞬間、ほろっとほどけて口の中いっぱいに甘みが広がります。でもチョコ特有の苦みが舌に残って後を引くというか。んー、美味しい!
「くぅー! あまっ! 美味しっ!」
「説明していいか?」
気が付いたらテーブルの真ん中に紙が広げられていました。
「共同研究に関する資金と利益の配分についてがここ。販路の選定についてがここ。三年分の貸付額と返済スケジュールについてがここ」
「ふむふむ、さすがアダルスタン様です。問題が起きた場合については……あ、こちらに記載がありますね、なるほど、はい」
一通り目を通したところで、困ったことになりました。私自身の買い取りに関する条項がない。
どのように指摘したらいいかしら、と頭を悩ませつつファッジをぱくぱく口に放り込んでいきます。考え事をするときには糖分をとるべきですからね、美味しい!
するとアダルスタン様がまた別の紙を差し出しました。
「婚約の申し込みと、支度金に関する条件の一切がこれだ」
「こんやく」
「身売りするんだろう? 俺が買い取る」
「妾ですか」
「婚約を妾の契約と解釈するなら自分の中の常識を疑ったほうがいいな」
アダルスタン様とお会いするのは初めてではありません。社交の場では何度かご挨拶したことがあります。大体いつもご令嬢に囲まれていて、私は彼女たちに押しのけられてましたけど。
でも一度だけ、ちゃんとお話ししたことがあるのです。きっと彼は覚えていないでしょうけど。幻の花、ゴールドムーンジャスミンの存在を教えてくれたのはアダルスタン様でした。すごく綺麗で、かぐわしい花なのだと。博識で、専門でもないのに植物への造詣が深くて、現実主義でありながらどこかロマンチストで。だから私はずっと彼のことが……。
「なんで私と?」
「放っておくのは良くないと思ったからな。むしろ今までよく無事だったなと感心するほどだ」
「ありがとうございます」
「褒めてないぞ。……ってちょっと待て、なんで泣く。泣くほど嫌だったとか言うなよ? 君が持って来た話だぞっ?」
「いえ、嬉しくて」
どうせ誰かに売られるのなら、最初で最後の恋を彼に捧げようと思ってここに来たのです。それがまさか、本当の意味で最初で最後の恋にしてくれるなんて。
アダルスタン様に差し出されたハンカチで目元を拭っていると、彼が遠くを見つめながら口を開きました。
「以前、夜会でとある女性にゴールドムーンジャスミンについて話をしたことがある」
「え」
「ずっと興味深く花の話を聞いてくれたのは君だけだったな」
「ふぇぇ……。枕営業してよかったぁぁぁ」
「泣くな、枕営業って言うな」
それから父は大喜びですべての契約にサインをしました。と言っても条項は伯爵家がかなり不利な内容だったので、きっとすぐに泣きついてくると思います。
だってアロマキャンドルで得た利益はほぼすべて公爵家のものになる計算でしたし。あとゴールドムーンジャスミンの栽培に成功した場合、公爵家のみが買い取ることができるというような条文もあったと思います。目先の利益に囚われて契約書を読み込まなかったのが敗因ですね。でもまぁ、領民が幸せに生きるだけの経営はできるでしょうから。
私はというと、教育に悪いという理由で結婚前ですが公爵家に留め置かれることになりました。娘に枕営業させるなど言語道断、だそうです。
「……だけど」
「ん?」
片側にヘッドレストのあるカウチにアダルスタン様と並んで座り、窓から見える月を肴にお酒をぺろりと舐めます。
「女商人の『最も手早く確実に取引を成功させるなら枕営業だ』という言葉は確かでしたね」
「なんか色々訂正したいのに! 否定できない! なんだろうなコレは!」
アダルスタン様はグラスをサイドテーブルに置き、ごろんと横になりました。彼の頭が私の膝に載ります。
「だってほら、枕営業がお気に入りではないですか」
「それは断じて違う。外で言うなよ、誤解を生むからな、いいな。わかったな?」
「では、ピロートークでもしますか?」
「……あのさぁ、意味わかって言ってる? というか、そういうのどこで覚えて来るんだ?」
もちろん例の女商人なのですけど、アダルスタン様は彼女のことがあまり好きではないみたいなので内緒にしておきます。
はい、私の枕営業はここでおわりです。では皆さまごきげんよう。
お読みいただきありがとうございましたー!
おもしろかったーと思ってくださいましたならば!!
ブクマやら★応援ポイント★やらいただけますと!!
幸いに!存じます!はい!ありがとうございます!!