夢化粧、恋心添え
───今日も、鏡の中の自分と会う。
三面鏡に様々な角度の顔を映して、肌の状態をチェック。よし、ニキビは出来ていない。変な赤みもない。顔だけでなく、首筋も入念に見る。
化粧水で肌を潤し、美容液を塗り、日焼け止めをまんべんなく塗る。日焼け止めは夏でも冬でも必需品だ。ネクタイを絞めて、眉毛を軽く整えてから出勤する。本音を言うと、これだけでは物足りないけれど。
仕事が終わり、自宅ではない方面に足を向ける。今日は特別な日。今日は解放される日。心臓がドクドクと跳ねる。嬉しくてソワソワして、身体が軽くなる。
目的のあるマンションの一室のドアフォンを押して、家主が「いらっしゃい」と玄関扉を開けてくれる瞬間を待つ。きっといつも満面の笑みを浮かべているだろう。
「いらっしゃい。どうぞ」
予想通りの声をもらい、勝手知ったる部屋の中に持ってきた荷物を置き、洗面所を借りて顔を洗う。余分な脂を取り去り、潤いは取り過ぎないように。テーブルの上に大きめな鏡を置き、いざスタート。
眉毛は顔の表情を決めるのに重要な役割。スティック糊で眉毛が浮いてこないように固める。ここからが始まりだ。眉毛を完全に剃っている人もいるが、他の生活を考えるとちょっとそこまで冒険することは出来ない。
ファンデーションはリキッドやスティックタイプを併用する。色も濃いものやハイライトの白色まで。最初は濃い色のファンデーションで肌の色むらをカバーしていたけれど、段々肌が整ってきたからこの工程も楽になった。
鼻筋と目の下にハイライト。髪の生え際と輪郭のサイドにはシェーディング。最初にこれを塗った時の衝撃は忘れない。丁寧に馴染ませて、白粉を軽く。ここまでくると、一層ワクワクする。
ファンデーションを塗った自分の顔は、パレットだ。これからどんな線を描こうか、どんな色で彩ろうか……とにかく気分が高揚する。
眉毛は思い切り弓形に。元の眉毛の位置も無視して、おでこに到達するくらいの弓形。躊躇わずに一筆で描いてしまう方が自分には合っている。眉頭はぼかしてナチュラルにするのが主流だけれど、そんなものは無視して思い切りはっきり描く。
アイラインも大きくはっきりと。眉毛につくくらい濃い線と、目尻から一体どれだけ伸ばしてるのかと測りたくなるほど長い線。ダブルで描いて、線と線の間を塗り潰す。これだけでもかなり目元の強調になるけれど、まだまだ足りない。
薄い紫のカラーをまぶた全体に塗って、次に少し濃い目の紫カラーを心持ち小さく重ねて、最後に濃い紫カラーを二重のラインより大きめに塗る。その上にはキラキラのラメを大胆に。
アイメイクの仕上げはつけまつげ。目を大きく強調するにはつけまつげは欠かせない。ドラッグストアで売っているつけまつげを3重につける。下睫毛にも2重に。最初のころは上手くつけられなくて苦労した。3重にしたまつげは鉛筆を乗せられそうなぐらいだ。
唇はオーバーリップに輪郭を取って、真っ赤な口紅を均一に塗る。この時、いつも母親が口紅を塗っている昔の光景を思い出す。母親が違うひとになっていくようで、いつも意味なくソワソワしていた。今日はグロスは重ねず、マットにしよう。
チークをシェーディングファンデーションを馴染ませた部分に軽く重ねて、今日のメイクは完成。最終仕上げに、フワフワ金髪のウィッグを被り、ピンで固定して毛先を自然に垂らして、変身完了。
───鏡の中には、見事変身を遂げた自分が映る。
変身するのって、ものすごく楽しい。いつもの自分とはかけ離れた姿。性別さえも離れて、成りたい自分になれる。いつもと違う日常。けれど、これもいつもの日常。
「今日も綺麗に出来ました」
ここに居るのは、いわゆるドラァグクイーン。男の面影を消して、にっこりと笑った。
実はこの変身の過程はすべて配信している。需要があるかどうかなんて関係ない。自分がやりたいから、そうしたいからしているだけ。
こんな自分でも、こうやって楽しく生きているということを、誰かに見てもらいたくて。同じような境遇のひとはそれなりに居るんじゃないかと思っているから。
「───お疲れ様。今日も上手くいった?」
無事変身して、配信も終了したころを見計らって、この部屋の家主が隣の部屋から戻ってきた。
「うん。ありがとう、桜さん。今日もとっても上手くいったわ」
口調も自然と変化する。それに違和感はない。だってこれも自分の自然な姿だから。
「今日はパープルなんだ。いいね、パープル。良く似合ってるよ」
「うふふ、嬉しい。ありがと」
スーツを着ていたら絶対に口にしない言葉が、この姿になると自然と口を突いて出る。どちらも自分。今はこの変化をも楽しめるようになった。
写真を数枚取って、ブログにもあげる。何か書き込むことはしない。いつもただ写真をあげるだけ。見てくれているひとは、写真だけでいいねをしてくれる。それだけでいい。
メイクをする一番最初のきっかけは、ドラッグストアでもらった化粧品サンプルだった。
そのころ、思春期の証といえば聞こえはいいが、悩みに悩んでいたのがニキビだ。皮膚科に行っても弱い塗り薬を出されるだけで一向に改善しない。素顔を晒しているのが耐えられなくて、ずっとマスクをしていた。それでも隠せないのが額だ。もちろん額にもニキビは出来ていた。
コンプレックスの塊になっていたこのころ、誰にも相談出来ないし、皮膚科の薬もまったく効果が得られない。何か他に良い物はないかとドラッグストアに行ってみた。
そこで出会ったのが桜さんだ。
化粧品担当の社員として働いていた桜さんは、時々来る男子高校生を気にしていたらしい。ずっとマスクをして、前髪を不自然に垂らした根倉な男子高校生……そんな自分を見ていてくれた。
前髪とマスクの隙間から見えた肌を見て、静かに声を掛けてくれた。その時は思春期特有の恥ずかしさとプライドと、こんな肌状態を見抜かれていた情けなさとで何も考えられなかった。逃げるように店を出て家に逃げ帰った。
恥ずかしかった。とにかく恥ずかしかった。まるで悪事を咎められたような気持ちになった。それでも振り払わなかった手の中の物───化粧品のサンプル。化粧水、乳液、美容液とある。使い方のリーフレットも。
今まで皮膚科の薬は塗っていたけれど、こういう物はまだ使ったことはなかった。恥ずかしかったけれど、物は試し……7日分くらいまとめてくれたサンプルを使ってみた。
使い終わってみても、正直効果は判らない。肌を見ても、状態は変わってるとは思えない。それなりに期待した分、がっかりした気持ちも大きい。
これからどうしようか。皮膚科に行っても治らない。けれど、サンプルをくれた人は、何となくだけれど親身になってくれそうに感じた。恥ずかしさのあまり逃げ出してしまったけれど。もう一度だけ、あのドラッグストアに行ってみようか。それでもしあの人が居たら、相談してみようか。居なかったら諦めよう。
そんな気持ちで行ってみると───偶然の賜物か、それとも本当はもう一度会いたかったのか……桜さんは居た。顔を見た瞬間、何故か涙が出そうになったのは内緒だ。
桜さんは色々なことを教えてくれた。
肌の生まれ変わりは約1ヶ月。気になるからといって皮脂の取りすぎはNG。乾燥しても駄目。余分過ぎる栄養は与えず、必要な分は補うように。肌の仕組みや荒れる原因なども教えてくれた。
桜さんの勤務するドラッグストアに、足繁く通うようになった。そして個人的にメッセージをやり取りするのに時間は掛からなかった。今思い返してみれば、随分気が合ったんだと思う。そうでなければ、いくら肌について悩んでいても、お互い連絡を取ろうなんて思わなかっただろう。まだ学生だったとはいえ、店員とただの客の関係だったんだから。
皮膚科の薬でも治らなかったニキビは、桜さんが薦めてくれた化粧品で改善した。それはもう劇的に。若い肌向きの、さっぱりしつつも潤いを与える。オイリー肌だからと敬遠していたオイルタイプの美容液も効果があった。
これが自分の肌だというのが信じられなかった。あんなにニキビが出来てぼこぼこになっていたのに、綺麗に滑らかになっている。肌が綺麗になった。たったそれだけのことなのに、生きる希望が見えてきた気がした。
『肌に合った化粧品が見付かって良かったね。私も昔悩んでたから、放っておけなかったの』
桜さんは最初に声を掛けてくれた理由をそう言った。昔悩んでいたなんてまったく判らないほど、桜さんの肌は滑らかだ。
『私も散々試したんだよ。皮膚科にも通ってたし、CMでやってるやつも試したし。色々やってみて、地道に丁寧にケアすることが大事ってやっと判かったの』
このころには、桜さんのアパートを訪ねてお茶をするほどの仲になっていた。(桜さんの警戒心はちょっと緩いと思う)
『でも良かったね。本当に肌綺麗になった。力になれて良かったよ』
段々と将来の道を考え始めたのもこのころだ。肌を触るのが楽しい。最近は桜さんの部屋に居る時だけファンデーションを塗ってみている。違和感もない。もっと色々試してみたい。だから、メイクの研究をしてみたい。その気持ちは桜さんと会う度に強くなっていった。
進学校に通っていたけれど、美容の道に進んでみたくなった。それに立ちはだかるのは両親だ。美容は美容でも、興味があるのは化粧品。両親との関係は良好だったけど、こればかりは言い出しにくかった。けれど、言わないと始まらない。夢に向かえない。
意を決して、両親に向き合った。母親に言えば、父親に伝わる。父親に言えば、母親に伝わる。どっちに言っても同じなら、同時に言ってしまえばいい。これでもかというほど勇気を振り絞ったけれど。
『美容の道に進みたい』
そう言った時に感じた重たい空気は、きっと忘れることは出来ない。心臓はもの凄く早鐘を打っている。しばらく漂った沈黙を破ったのは母親だった。
『美容って一言で言っても色々あるんじゃない? どんな?』
『……化粧とか、化粧品の方』
『そう。よく考えたのよね? 最近肌も綺麗になってきてたし、色々研究してたの? 化粧品を使ってみて?』
『うん……』
『自分の肌が綺麗になって、どんな仕組みか知りたくなるのは当たり前よね。あなたが自分で考えて選んだ道なら、お母さんは反対しないわ。パパは?』
母親は元々楽観的だと思う。昔からやりたいことをやらせてくれる。けれど父親は……成長してからある程度距離を置くようになっていた。どう言われるか、判らない。
『……やりたいことを見付けたなら、しっかりやってみなさい。後悔しないように』
意外な言葉だった。絶対反対されると思っていたのに。思わずぽかんと呆けたような顔になった。
『どうしたの? そんな顔して』
『……いや、だって……絶対、反対されると思ってたから』
『別に反対しないわよ? あなたは私たちの子どもだけど、別の人間なわけだし。進みたい道に進んで、好きなように生きて幸せになってくれればそれが一番なんだもの』
母親のこのあっけらかんな言い方に、肩の荷が下りた気分になった。そうだ、そういえばこのひとってこういうひとだった。
本当にやりたいことなら、やりなさい。本当に好きなことなら、続けなさい。逃げたくなったら、逃げればいいの。逃げることも出来ない、命を賭けて行かなきゃいけない学校なんて必要ないし、命を代償にしなきゃいけない仕事もない。あなたがお腹に宿った時から、あなたの幸せだけを願ってきたわ。だからあなたが幸せに、好きに生きてくれれば私たちはそれで幸せなの。
そう母親からよく聞かされた。
あなたは私の宝もの───幸せに生きて。それだけが願い。どんな性癖でも構わない。もし男の人が好きなら、男の人と結ばれてもオッケーよ……っていうのはちょっと飛躍していると思うけど。
けれど、こんな両親に愛されて育ったのは幸せだったと思う。
桜さんは優しい。ドラァグクイーンになってみたいと言った時、驚きはしたものの応援してくれた。
化粧をして、化粧をしている時は自然と言葉使いも変わるから、桜さんにはもしかしたらゲイと思われている気がする。ゲイではない、と思う。格好良い芸能人とかを見れば素敵だなとは思うし、ああなってみたいとも思う。男を好きになったことはない。けれど、男に恋愛感情を向けられたとしても嫌悪することもない。
女性になりたい、というわけでもない。身体を女性にしたいわけでもないし、自分の気に入るように心行くまで化粧をしてみたいだけ。化粧だけで女性になってみたいという願望はあるけれど。
桜さんは優しい。いつも優しく受け入れてくれる。だから絶対、もう特定のひとが居ると思っていた。思い切って訊いてみた時、眉毛をハの字に寄せて『年齢イコール居ません』と教えてくれた時は小躍りしたくなった。桜さんの周りの男の見る目のなさに感謝したくなったほどだ。
桜さんは、自分を救ってくれた。
たかが肌のことって言われたこともあったけど、そのたかがなんて言えるひとには肌悩みのことは絶対に解らない。本人はその肌で生きて行くことさえ辛かったのに。
化粧をしてウィッグを着けると桜さんとの距離が縮まる。この状態だと同性だと感じるのかな。
「綺麗になったね。顔も生き生きしてる」
桜さんは毎回そう言いながら褒めてくれる。かつてはニキビが出来てぼこぼこになっていた肌。こんなに綺麗に治るとは自分でも思わなかった。
「ありがとう、桜さん」
桜さんに綺麗と言われると無図痒くなる。綺麗なのは桜さんだ。外見だけじゃない、内面もとても綺麗だ。桜さんは他人を救ってくれるひとだ。ひとの痛みを理解してくれるひとだ。
「桜さんも凄く綺麗よ」
「あら、嬉しいこと言ってくれるのね」
同じ台詞でも、スーツを着てネクタイを絞めている時は素直に受け取ってくれない。クイーンのフルメイクをして、ウィッグを着けている時は素直に喜んでくれる。どちらも同じ自分なのに……
それでも、桜さんの今一番近くに居るのは自分のはずだ。これだけ桜さんの部屋を訪ねているけれど、他の男と鉢合わせしたことはないし、部屋の中にも気配すらない。今はまだ、恋人にはなれない。精々が友だち。下手したら弟扱い。いつかは、そのポジションから抜け出してやる。
「桜さん、一緒に写真撮ろ」
「ん? うん、いいよ」
男型だと警戒されるのに、クイーンだと警戒されない利点を活かして頬を合わせるほど密着出来る。桜さんの暖かい頬。仄かに香る薫り。小さな肩。細い指。サクランボみたいな唇。あぁ、もう……
「どうしたの?」
気を許してくれているのは判る。クイーンの姿だとほぼ同性気分でいるのも判る。けれど、もう少し意識してみて欲しい。ずっと桜さんだけを見てきたから。
ずっとずっと、綺麗なあなただけを見ているから───……