音無祭
ため息さえも忘れるほどの疲労に満たされながら私は電車に揺られていた。
家を出てから既に二時間近く経つ。
窓の外を流れている景色からいつの間にかビルが消え、代わりに民家ばかりが立ち並んでいた。
そして、その間隔も段々と開いていく。
近づいているのだ。
故郷が。
トンネルに入り世界が暗闇に閉ざされた。
都会は嫌いだった。
故郷を離れてからずっと。
自分から生まれた場所を離れたくせに。
今と言う時間をただ消費していくだけの世界の息苦しさに藻掻き続ける日々。
過去を振り返る暇さえもない。
トンネルを抜けた。
狭い世界を広い世界が照らす。
「あぁ」
何も変わらないはずの光を受けた私はようやくため息を吐き出して滑稽に呟いた。
「きれい」
少しずつ過去が思い出される。
普段、どれだけ振り返ろうとしても思い出せないものが。
今という時間を耐え抜く内に忘れてしまったと絶望した日々が。
色鮮やかに。
とても美しく、脳の中に再生されていく。
「きれい」
そのお祭りを知っていたのは僕だけじゃなかった。
言ってしまえば誰もが知っているもので、半ば常識に近かったものかもしれない。
音無祭。
皆はそう呼んでいた。
僕のお父さんもお母さんも、おじいちゃんもおばあちゃんも、先生も友達も、近所のおじさんも、みんな、みんなそう呼んでいたし、知っていた。
中には見たって言う友達もいた。
けど、どんなお祭りだったのか聞いてみれば、出てくるものは少し前に見たテレビや漫画をどこか思い出させるものだったり、どこかで聞いた怪談と酷似していたりで嘘だってすぐに分かるようなものだった。
深夜に幽霊たちが集まるお祭りだとか。
昔からこの土地に住む神様たちのお祭りだとか。
とにかく、そんなありきたりな話しか出てこない怪談。
そう。音無祭は怪談。
あるいは限りなくそれに近い何かだった。
山の中にある小さな村の中にある誰も詳しくは知らないお祭り。
誰もがその名を知っているのに、誰もがその内容を知らない。
そんなお祭りだった。
「いつまで居るの?」
「んー、明後日の朝には出るよ」
一年振りくらいに見た両親の姿は私の記憶にあるものより、ずっと老け込んでいた気がした。
「仕事忙しいの?」
「まぁ、かなりね」
母は心配そうに「そう」と一言呟き、まるで何か言いかねているかのように一瞬だけ時間を失ったかのように無言になる。
「飯って何時から?」
その時間に耐え切れず私は気にもしていないのに問いかけていた。
「六時くらいかな。お父さんもそのくらいに帰って来るし」
父の姿を想起して息苦しさを感じた。
きっと、記憶にある姿よりずっと老け込んでいるのだろう。
「とりあえず部屋で少し休むわ」
「そう?」
「うん。あ、そっちの小さいお土産はタエおばさん用ね」
私の一言に母は「あっ」と小さな声を出してから言った。
「言っていなかったっけ。先月にタエさん亡くなったよ」
「うそ?」
実家の近所に住んでいるおばさんが亡くなったと聞き、私の脳裏に先ほどよりもありありと歳をとった父の姿が浮かび言い知れない寂しさを覚えた。
「まぁ、歳だったし仕方ないか。んじゃ、それ皆で食べよ」
私の言葉に母は頷く。
「あぁ、それと。あんたの部屋、今ほとんど物置になっているよ」
「いいよ、別に」
見たくもない今という時間に過去が汚されてしまう気がして私は逃げるように自分の部屋に向かった。
ベッドしか残されていないかつての自分の部屋に荷物を無造作に置くとその場に胡坐を掻いて座り込む。
下がった視線の先には昔、縁日で手に入れた景品のおもちゃが無造作に転がっていた。
微かに思い出される日々に浸りながら私は大きく伸びをする。
遠い日を一瞬の内に思い出せるのではないかと、もしくは目を閉じれば今すぐにでもあの日々に戻って行ける気さえした。
あぁ、あの日々に。
あの日々に戻りたい。
そんな無意味な思考に浸りながら私の脳裏にふと一つの光景が蘇る。
『君、こんなところに居ちゃいけないよ』
そんな一言。
私はぼんやりとしたままの頭で立ち上がる。
夕飯まではまだ時間があった。
『大切なものを失くしちゃうよ』
過去を手繰り寄せながら私は実家を出ていた。
僕が音無祭を見たのは小学校の夏休みの頃だった。
友達が家族で旅行に行ってしまいとても暇だったから何となしに山へ入った。
まだ午後の三時になるかならないくらいの時間だったと思う。
裏山の奥を歩いていた時、僕の目にそれは突如映った。
幾つもの提灯に、出店、そして浴衣を着て祭りを楽しむ人々の姿。
奇妙だった。
毎年行っている祭りの日にはまだまだ遠いし、そもそもこんな山の中で祭りがあるなんて村で生まれ育った僕でさえも聞いたこともない。
だから僕がお祭りの方へ足を向けたのは当然の事だったと思う。
そして一歩。また一歩と近づくにつれて、僕はようやくその事に気がついた。
音がしないのだ。
お店の人がお客さんを呼ぶ声も慌ただしく動き続ける人達の足音も、そしてそこに居る人達の声も。
混乱しながらも近づいていく。
一歩。
また一歩。
やがて一人の少女が僕に気づいてこちらの方を向いた。
その人は口を開いて僕へ何か言った。
いや、何か言ったのだと僕は思った。
何故なら声が聞こえなかったから。
その時になり、僕はようやくあの怪談を思い出した。
誰もが名を知っているのに、誰もが内容を知らない。
山の中にある小さな村の中にある誰も詳しくは知らないお祭り。
音無祭。
携帯に映し出された時刻は既に十六時を回っていた。
郷愁に駆られ外に出たは良いものの私は結局何も得るものがないままに辺りをふらふらと歩いているだけだった。
だけど、それで良かった。
いや、それ以上望んでいなかったのかもしれない。
二十年近くの時間を山の中にあるこの村で過ごしてきた。
だからこそ、私はこの村が好きだった。
時間が流れるままに任せて生きている日々が、今の自分が大嫌いだから。
ここに戻って来ると本当に安堵できた。
少しずつ村は変わっていっているけれど、それでもここには覆せないほどの思い出がある。
立ち止まり、斜陽に包まれつつある村の中でため息を漏らす。
幼い頃に誰かと遊び、喧嘩をし、時には恋をした村の中。
過去に浸り歩いて行くこの時間は、自分が今、都会で生きている毎日の時間と地続きであるとはとても思えない。
あぁ、叶うならば。
私はどうしようもない気持ちのままに空へ想いを放った。
「昔に戻りたい」
一体、その言葉を何度繰り返しただろうか。
そうだ。
私はあの日々に戻りたかった。
過去、故郷で暮らしていたあの頃に。
何も感じず、考えず、ただ暮らしている今から逃れたくて仕方がないから。
今を無意味に生き続けることに何の意味があるのか。
そんな子供染みた事さえも私は本気で考えるようになっていた。
『大切なものを失くしちゃうよ』
再び脳裏に浮かぶ誰かの言葉。
誰がその言葉を私に言ったのか、もう覚えていない。
だけど、今はそんなことなどどうでもいい。
私にとって重要なのは誰が言ったかも分からないこの言葉さえも美しい過去を彩る大切な思い出であるということだけだった。
足の赴くままに私は裏山の方へ向かう。
何故か分からないが、そちらに行きたい気分になっていたから。
僕はこちらを見つめている少女に惹かれるようにして歩を進めていた。
音無祭だ。
疑いようもない。
そうか。
どれだけ人が居ても音が聞こえないから音無祭なんだ。
そう半ば達観したかのような気持ちのまま歩いていた僕を笑うように不意に僕の耳が騒音に支配された。
店の人がお客を呼ぶ声、慌ただしく動く人々の足音、そしてその場に居る人達の声が全て。
今まで確かに音はしていなかった。
それなのに今では狐に化かされたとでも言わんばかりに祭りの喧騒が広がる。
混乱する僕の前にあの少女がやって来ると軽く微笑んで言った。
「君、こんなところに居ちゃいけないよ」
そのあまりにも奇妙な言葉を受けて僕は先ほどまでの確信を少し取り戻す。
「これ、音無祭?」
僕の問いかけに少女は「んー」と一息間を置いた後、どこか躊躇うようにして答えた。
「そうね。多分、そうだと思う」
「多分?」
「うん、実は私にも分かんないの」
そういうと少女は背を伸ばし、どこか気まずそうに僕から目を逸らすと言った。
「けど、ここに居ない方が良いってことだけはわかるの。だから、君も帰った方が良いよ」
「なんでさ」
興味もあった。
そして、何より明日になって友達に色々と話してやろうと言う気持ちで僕の心は一杯になっていた。
だからこそ、帰れと言われても帰る気にはならない。
そんな僕へ彼女は振り返ると少しだけ間を置いてぽつりと言った。
「大切なものを失くしちゃうよ」
「大切なもの?」
問う僕に少女は再び間を置いた。
祭りを彩る様々な音が世界を行き交う。
僕の心は既に少女の答えなどどうでも良いものになりつつあった。
音無祭が何なのかが気になるのは勿論だけど、何よりもこの祭りの賑やかな光景を見て我慢しろというのは子供には無理な話だったから。
ソワソワしている僕に気づいたのか少女は遂に苦笑して答えた。
その答えは祭りの喧騒の中でも確かに届いていた。
山の中で私は立ち止まる。
何を求めてここまで来たのか分からない。
いや、求めていたものなんて本当は存在しない。
ため息をつき大きく伸びをする。
心地良い感覚が全身に行き渡り、自分が今を生きているのを実感する。
あぁ。
普通ならばこの感覚を糧にして生きていこうなんて気持ちになるのだろうか。
けれど、今の私にはそんな気持ちにはとてもなれない。
私はずっとこうしていたい。
生きていたくない。
思い出に浸り続けていきたい。
いや、もっと端的に言うならば過去へ戻りたい。
こうも苦しんで生きていることに何の意味があるのか。
今の先に何があるというのか?
何もあるはずもないのだ。
『大切なものを失くしちゃうよ』
誰かの言葉が三度蘇る。
その言葉を誰が言ったのか覚えておらず、そしてどのような意味を持つのかも覚えていない。
ただ私が。
僕が。
果てなく続く今を生きるのが苦しいんだ。
僕の心にあるのは本当にそれだけなのだ。
苦しい今が無情にも永遠に続く現実を想い、僕は幸せな過去に浸りながら嗚咽を漏らしていた。
祭りの喧騒の中でも確かに届いていた答え。
僕はその意味を捉えきれず、少女の答えを繰り返していた。
「未来?」
少女は頷く。
「未来って何さ?」
僕の問いに少女は言葉に詰まり、そして何か言おうと口を開いた時。
「もういいよ、後で聞く」
僕は駆けだしていた。
少女の言う未来という言葉がどれほどの重みを持つか分からないまま。
過去と今。
その先にあるはずである未来。
それが失われる意味。
幼い僕は知らないままにそれを永遠に失った。