救われたのは
声が聞こえる。でもそれは、きっと私を呼ぶ声じゃない。
私じゃない。別に私じゃなくても構わない、誰かを呼ぶ声。
でも、助けを求めているのは間違いない、のだろう。
そもそも、泣いているのかすら朧げで。
雑音にかき消されることもなく、ただひたすらに私の耳へと遠く音が運ばれて。
目の前を往く人々がどれ程いるのか、数えるのも馬鹿らしい。空より叩きつけられる水玉を気にしている余裕も無い。
超能力者にでもなったのだろうか。行きかう人の合間を視線がすり抜け、折れ曲がった道筋が一直線になったかのように錯覚してしまう。
その先に見たもの。
小さくて、か弱い存在。そんな風に見えてしまう。
今そこで間違いなく生きているのに。どうして弱いと、そう思ってしまうのだろうか。
雨を凌ぐ術を持たないから? それは私だって同じだ。
ただ鳴くことしかできないから? それは、私はできていないのに。
どうして自分のことを棚に上げ、あの子はとても弱い存在なのだと決めつけてしまえるのだろうか。
水を吸ってグズグズになってしまっている、段ボール。茶色いその箱の中だけが、生きていける生存可能な空間なのだろう。
だからそこから出ても行かないし、出ていこうとも思わない。
いや、それは違うのだろう。
知らないだ。この、目の前で泣き続けるこの子は。
外の世界を知らないのだ。
だから、その中だけでしか生きていかない。
たとえ命が尽きようとも、その中から出ることはしないのだ。
私を見ているような気分だ。
姿形は違えども、この有り様は一緒だ。
何が起きても、ただ泣くだけ。逃げることもしないまま、私は泣き続けているだけ。
部屋の中に入ったまま、そこから出ていこうとしない。
私だけの空間。私が生きていくための、まさにぐしょ濡れの段ボールと同じ空間。
そこから出ていく術を知らない。その中でしか生きていけないのだ。
何とも阿呆な話だ。
誰かを脆弱な存在であると言えるような資格なんて最初からないだろう。もっとも、そんな資格どこへ問いかけても貰えるようなものでもないのだろうけど。
誰かに怒鳴られ、突き飛ばされ、ひたすらに鼓膜を埋め尽くす程の嫌味を延々と呟かれ続けて。
息をしているのが辛い。目を開くのが怖い。言葉を聞くのが苦しい。
吐きかける。突然に、前触れもなく。
何も食べていないのだから、何も出てくることはない。それでも、その事実にただ驚くことしかできない。
そんなことの繰り返し。
時間が来れば、無理にでも出ていかなければいけない。
部屋を出れば、私は死んでいるのと同じだ。
身体を動かしていても。言葉を喋っていても。私が生きていられるのは、私の部屋の中だけ。その外では、生きていられない。
延々と私は雨に晒され続けていた。
同じ時間、この子も雨に打たれ続けていたのだろう。
私が手を伸ばせば、同じようにして手を伸ばしてくる。
人差し指に、じゃれついてきた。
そんなことをしてる場合じゃないだろうに。目の前にある私の手を求めて、手足をばたつかせている。
そっと。抱きかかえて、持ち上げてみる。
一度小さく鳴いたものの、顔を忙しく動かして辺りを見渡すことに夢中になっている。
「……邪魔だ」
わざとだろう。
わざわざ近くまで来て、足をぶつけて去っていった。確かに人通りは多いが、幾分か道に余裕はある。
きっとあの人も何か事情があったのだ。部下が失敗したのか。妻と喧嘩したのか。ただそういう気分だったのか。
既に全身濡れている。だから、倒れてもあんまり気にならない。ちょっと痛いくらいだ。
あの子は大丈夫だろうか。
拍子に手を放してしまったけど、怪我をしていないだろうか。
すぐ傍で、声がした。
目を開けてみれば、小さなその身体を私に摺り寄せて来ていた。
動物の言葉なんて分からない。けど、どうしてだろう。
どうしてこの子は、こんなにも強くいられるのだろう。
生きていけるのはあの段ボールの中だけであるはずなのに。どうして、生きていけるのだろう。
今ここで、首を絞めればきっとこの子は死ぬ。このまま放っておいても、きっと死ぬ。
倒れてる私にすら声をかけないのだ。この子を助ける人も、きっといない。
このままにしていれば、私もきっと死ぬ。言葉通りの死。
いっそのこと、その方が良いんじゃないのだろうか。
湿った身体を撫でてあげながら、私はそんなことを考えている。
この子は、今何を考えているのだろうか。
撫でられて嬉しい。くらいのことしか思っていないのだろう。
私にとっては救いのないこの世界でも、この子にとっては今。救いのある世界にでも見えているのだろうか。
だったら、私は――――。