96話 願ってもいない再会
『魔王の軍勢』が港町に迫っていたころ━━
アンジェリーナはおおいに不満を持っていた。
『避難誘導』という役割に回されたからだ。
もちろん『魔王の軍勢』がすぐそこに迫り、戦う力を持たないラカーン王国の民を逃さなければならない状況なのは、わかっている。
もはやラカーン王国の砂はほとんどが魔王軍のものになっていて、人が住める国ではなくなっているのだ。
であればこそ、国の滅びに際して出てしまう『難民』を安全な場所に移すことは急務だし、これはこれで一つの『戦い』と言える。
つまり、指揮官が必要なのだ。
そして避難先がクリスティアナ=オールドリッチ領であること、なにより船も救援物資も船員も、すべてがクリスティアナ島から出たものであることを思えば、そこの一人娘にして次期当主内定であるアンジェリーナが指揮をとることに、不自然はない。
ないのだが。
「我は『魔王』を見定め、それに抵抗せねばならんというのに……!」
歯痒いのは、どうしようもない。
そもそもだ。昼日中のラカーン王国最後の港町には多くの人がいすぎた。
その中でアンジェリーナは民を誘導しなければならないのだけれど……
アンジェリーナは、小さかった。
背が低いのだ。体つきが細いのだ。
この炎天下で真っ黒いドレスを着た姿は痛々しいほどであり、それは彼女が右目に眼帯を、左腕に包帯をつけていることで、ますます増長されている。
『お嬢ちゃん、ひどいケガじゃないか! 避難誘導のお手伝いは立派だけれど、君こそ、真っ先に船に乗り込むべきだよ!』
……親切で、そしてアンジェリーナの容姿と立場を知らないラカーン民からそのように言われること、この一時ですでに五回。
あまりにもアンジェリーナのところで人が止まるので、今はクリスティアナ兵からの『進言』によって、『本陣待機』となっていた。
ようするに『邪魔なので人のいないところで座っておとなしくしててください』という話である。
「こんなことならば、前線に行くべきであった……オーギュスト……」
あの穏やかで美しい少年がアンジェリーナを港町に残したのは、これから始まる戦いが死闘になるとわかっていたがゆえであろう。
この時代のこの世界、特にドラクロワ王国貴族には『紳士』という生き方が骨の髄にまで染みついていて、とにかく女性を危険な場所に置くだけでも『恥ずべきこと』だと思う傾向がある。
アンジェリーナに馴染み深い価値観は『男女なんて言ってる場合ではなく、とにかく全員が命懸けでことをなさねばならない』というものなので、この『紳士的』な対応には、いわく言い難い不満がある。
この時代において一般的なのがオーギュストのほうだというのは、わかっているのだけれど……
「『魔王』への対処は、我が宿願のはず、なのだが……」
アンジェリーナは精神だけ未来から来た。
記憶にはまだあいまいなところがいくつもあるのだけれど、『魔王カシム』の登場をきっかけに、かなり色々なことを思い出しつつある。
もちろん使命感も思い出していて、だからなるべく『魔王』のそばで立ち回り、これを観察し対処を編み出し、どうにかこうにか、消し去らねばならないという危機感もあるのだが……
それでもオーギュストに言われるまま、後方で避難誘導などに甘んじているのは……
「……あんな切なそうな顔で頼まれたら断れんではないか」
自分が『魔王』へ向けて駆け出さない理由。
悲願成就の機会を目の前にして大人しくしている理由。
それが『オーギュストに頼まれたから』に集約されてしまうのは、なんともおかしな話だった。
そんなに軽い使命ではなく、それほどやわい決意でもない。
まだすべてを思い出してはいないけれど、それでも、『魔王』というものを消し去らなければならないという使命感は覚えているし、それが多くの者の命を……『時代』さえも背負ったものだというのも、思い出している。
それでも。
時代や親しんだ人たちの命を背負ってなお、あの懇願には勝てなかった。
きっと責められるだろうことはわかっている。こんなところでぼんやりしている場合でないのは痛いほど理解しているというのに、それでも、勝てないものがある。
それはきっと……
「ミス・アンジェリーナ」
「どわぁ!?」
不意に男の声がして、アンジェリーナは椅子から飛び上がった。
周囲を見回しても、アンジェリーナの『本陣』として接収された粗末な小屋の中には、なにもいない。
ただし、仕切りも床もない、ただ一部屋の、テーブルと椅子しかないこの小屋の中に、『魔力』がうずまいているのを、アンジェリーナの視界は捉えた。
「どうされましたか、姫様!」
アンジェリーナの叫びに気づいた兵が、小屋の外から声をかけてくる。
それにアンジェリーナは、
「なんでもない。気にせず任務に邁進せよ」
と、応じた。
外の気配は数秒、いぶかしがっていた。
しかしアンジェリーナが指示を撤回する様子がないのを理解してか、「かしこまりました!」と述べて、遠ざかっていく。
充分に遠ざかったあと……
小屋の中にうずまいていた魔力が束ねられていき……
人のかたちを成した。
「俺は助かったが━━」
引き締まった長身。真っ黒い、華美ではなく、しかし威厳を感じさせるマントつきの服。
黒い長髪に━━黄金の瞳。
その人物は困ったような笑みを浮かべ、
「━━貴人を警護する兵が、ああも簡単に引き下がってしまうというのは、問題だな。エレノーラ殿に要人警護訓練について進言する必要がありそうだ」
━━リシャール。
この時点では、まだ、『バルバロッサを逃がすため、カシムの前に残り、その後消息不明』としか伝えられていない人物が……
……おおよそ『人』ならざる方法でその姿を現していたのだった。




