94話 閉ざされた大地
もはや滅びるラカーンという王国にあって、なおも戦う理由とは?
たとえばそれは恨みであった。
とつじょ襲い来てすべてを奪った『魔王の軍勢』に対しての怒り、怨念。
愛しい者を奪われた悲しみをぶつける方法として、『一体でも多くの敵を倒す』というものに命を懸けると決めた者たちがいた。
あるいは使命感があった。
ドラクロワという隣国、あるいは他の国に……そこに住まう自分のような民に、自分たちと同じ悲しみを味わわせぬように。
他国に友人や親戚のいる者もあった。国外に出たこともなく、国外とのつながりもないが、見ず知らずの『同胞たち』のために命を懸ける己に、一種の美しさを感じ、陶酔する者もあるだろう。
もしくは、理由などなかった。
すべてを失い無気力になった。あるいは、このような事態が起こる前から、今日生きて明日を迎える意味がわからない者たちがいた。
降ってわいた『意味のある死』を前に、『じゃあ、まあ、いっちょ、やってみるか』と、けだるげに腰を上げてどこか晴れ晴れとした顔で立ち向かう者たちもいた。
バルバロッサ・ラカーンの率いる最後のラカーン王国軍はそういった者たちが混在していた。
このバラバラな連中に一種の連帯感が生まれているのは、バルバロッサという旗頭あってのことだろう。
「あの軍は本当に強い」
そばでラカーン王国軍の様子を見ていた『最強の騎士』ミカエルは、そんな言葉をこぼした。
それがともすれば『自分があの軍と戦いたい』というようなワクワクした響きだったのに、オーギュストは笑ってしまう。
それどころではないのに。
もちろんラカーン王国軍と優雅に演習などしている場合でもないし……
すぐそばまで『魔王の軍勢』が迫っており、ラカーン王国最後の港町を取り囲まれているという状況も、決して笑っていられるものではなかった。
けれど、港町にいる者たちは、不思議と穏やかな雰囲気で、談笑など交わし、笑い声もそこらから上がっていた。
そしてその、弛緩にも見える雰囲気を厳しくいさめる者もいなかった。
全員が、知っているのだ。
今さら、いかにも厳しい顔をしなければ維持できないような、生半可な覚悟を抱いている者など、ここにはいない、と。
こうして笑い合い、冗談を言い合い、肩を組んで歌っていたとして、敵が眼前に差し迫ればすぐさま戦闘態勢に入り、手にした剣を振るうのにためらわない者たちしか、ここにはいない。
バルバロッサの役割は、ラカーン王都まで突撃し、そこに停泊させてある『空飛ぶ船』を回収、あるいは破壊することである。
そしてオーギュスト・ミカエル・アンジェリーナの役割は、バルバロッサが少しでも王都に入りやすいように、ここで敵を引きつけ……
難民を収容した最後の船が無事にクリスティアナ島に出航する時間を稼ぐことであった。
アンジェリーナには『島に戻れ』と言ったが、アンジェリーナは聞き分けない。
それもまたいつものことなので、オーギュストはその儀式めいたやりとりを思い出して、また笑った。
◆
戦術の立てようはなかった。
港町周辺には広い砂漠があって、隠れる場所などはない。
これが夜ならば砂丘と夜陰にまぎれることもできただろうが、昼日中の焼けるような日差しの下とあっては、人の影はどうしても目立ってしまう。
さらに『魔王の軍勢』はあたり一帯を取り囲んでいて、蟻も漏らさぬほどのありさまだ。
こうなると、この包囲を抜けて王都まで上るには『突撃し、敵陣を貫通し、そのまま走り抜ける』しかない。
もちろん陽動兼防衛であるオーギュストの軍が派手に暴れ回るという程度の意識のすり合わせはあったが、確認すべきはそのぐらいであり、できることもその程度だった。
「オーギュスト、俺は貴様を見下していた」
砂塵の向こうにぽつぽつと見える、敵軍の黒い影。
横に並びながら言葉を交わすオーギュストとバルバロッサは二人とも敵陣を見ていたけれど、互いの意識は互いに向いていた。
決戦の予感に興奮する馬をいさめながら、不思議と二人の面相には落ち着きがあった。
これが最後の会話になる可能性は高い。
だから、オーギュストも、周囲にアンジェリーナやミカエルがいないのを確認してから、こう応じた。
「知っていましたよ。というより、僕はきっと、すべての人に見下されていたのだと思います」
「……意外だな。理解していたのか」
「ええ。……まあ、学園に入る前の僕は理解できなかったのですけれどね。失敗する者は見下される。けれどそれ以上に、挑戦しない者が見下されるのです。僕は挑戦しなかった。だから、侮られた」
「おいおい、オーギュスト……せっかく俺がありがたい助言をしてやろうとしたのに、先回りして正解を言ってくれるな」
「ははは」
「ふむ、つまらん! ……ならば言うべきではないと思ったことを、言ってしまうか」
「なんでしょう。怖いなあ」
「ひとたび他者に見下されたとて、生きていれば、挽回できよう」
「……」
「命が失われる可能性あらば、みっともなくとも逃げ回れ。そうして貴様を嘲笑した者あらば、生きて成果をあげ、見返すのだ」
「……あなたがそうしない理由は?」
「ふふん。俺は王たる者であるからな。王の仕事は国家の運営と、豊かなる国の存続。そしてなにより……国の最期には、忠臣どもに『生きた意味』を与えてやることよ」
「……」
「俺が俺を想う者どもにしてやれるのが、これから先の決死行というわけだ。……貴様も貴様の王道を考えておけよ。不要かもしれんが、必要な時に己の行く道が見えずまごついては、格好悪いぞ」
「それは嫌ですね」
「そうだろうとも! 格好悪い王になど、誰もついては来ない! そして、格好悪い男にも、女はついてこない。……わかるな?」
「ええ。しかと」
「ならばよし! 貴様の隣にアンジェリーナがいること、許そう。格好良く逃げ回り、格好良く生き延び、最後には挑戦し成功し、すべてを挽回するがいい。……未来のドラクロワ王よ。亡国の王子から述べるのはいささか僭越のきらいはあるが、俺は貴国に受けた恩を死したとて忘れぬだろう」
「僕もあなたとの友情を忘れないでしょう。……とはいえ、生きて戻る気もするのですけれどね。あなたはなんだか、死ななそうだからなあ」
そこでバルバロッサは目を丸くして一瞬固まり……
大笑した。
「案外言うではないか! ……ああ、もっと早く貴様と友誼を結べばよかったと、後悔している。存外愉快なやつであったな、貴様は」
角笛の音があたりに鳴り響いたのはちょうどその時だった。
バルバロッサは力みの抜けた顔になり、褐色の頬をつり上げた。
「では、また会おう! 国が滅びそれでも生き延びてしまったならば、貴様の秘書官になってやらんこともないぞ!」
「僕より威厳がある秘書官ですか。それは僕も奮起しなければいけなさそうですね」
「励めよ!」
バルバロッサが馬をかって作戦開始位置へ向かう。
オーギュストはただ一人、砂塵の向こうの軍勢をながめて時を待った。
そうして、二回目の角笛が鳴り響いた。
戦場に怒号が響き渡り、号令一喝、足の速い部隊が敵方へ突撃していく。
左右から前へ進むのはミカエルとバルバロッサの部隊だ。
ミカエルは敵陣を撫でるように駆け回り、外側から削っていく。
バルバロッサは勢いのまま敵軍を突破し、その向こうにある王都まで駆け抜ける。
攻め寄せる軍勢を港町に入らせないよう阻むのは中央に陣取るオーギュストの軍で、アンジェリーナは町で船に乗り込む難民たちの整理をしてもらっている。
このいかにも安全な場所に彼女をとどめおくには大変な苦労があった。
今までは『興味本位』という感じで危険な場所に首を突っ込んでいたアンジェリーナではあったが、今はなにかの使命を思い出したようで、これまでの比ではなく前に出たがる。
そしてその目的というのが、聞いてもにわかには理解しがたい。
未来だの、魔王だの、世界の滅びだの……
話が突飛すぎるのはまあいつものことだが、前提として必要な知識量というのか、そういうものが膨大になってしまい、アンジェリーナの意思一つ理解するのにも、大変な量の解説をしてもらわねばならなくなってしまったのだ。
「……僕らはこれから、どうなっていくのだろう」
学園での日々はあまりにも懐かしい。
当時の自分はきっと、王位継承権争いが終わる前にラカーン王国に来るだなんて想像もしていなかっただろうし……
その王子たるバルバロッサと、ここまで腹を割った会話をするなどと、予感さえしていなかっただろう。
きっとラファエルやバスティアン、それにエマたちと生徒会で学園の問題に取り組んでいき、それが王位継承権争いの糧になると思っていた。
長期休暇のあいさつ回りの時、貴族たちに告げた言葉は、今ではもう意味のないものになった。なにせ『魔王』などと、想像もしていなかったからだ。もちろんそれはアンジェリーナのようなものではなく、現実の脅威として立ち塞がっている魔王のことである。
ミカエルを伴って砂漠の国に来たのもまた、予想だにしない事態の推移で……
兄が死ぬなどと、いまだに信じられていない。
あの兄リシャールが死ぬなどと……
「オーギュスト」
……ふと、懐かしい声がした。
知らず手綱を強く握りしめていたことに気付く。
……きっと、バルバロッサが隣からいなくなったことで、ようやく自分にも悲しみ、嘆く順番が来たのだと、そう思ってしまったのだろう。
オーギュストは首を振り、幻聴をかき消そうとした。
なにせ、今、自分に呼びかけてきた声は……
この低く、しかし耳に優しく触れる、身内に向ける時特有の優しさに満ちた声は……
「オーギュスト」
二度の呼びかけで、オーギュストはようやく、その声が幻想ではなく現実のものであるかなと疑い始めた。
しかし、否定したい気持ちが強い。いや、同時に素直に現実だと認めたい気持ちも、もちろんある。
だって、この声は……
「オーギュスト、陣容にスキがあったぞ。相手は異能を持つ一騎当千の者どもなのだから、蟻の一穴が致命傷となる。充分に気を払うべきだ」
……砂塵が晴れれば、剣の間合いより少しだけ遠く、魔法の間合いとしては少しだけ近い場所に、誰かが立っていた。
風になびく真っ黒い髪と……
輝く、黄金の瞳。
「……」
リシャール王子の姿をそこに捉えて、オーギュストはしかし、声を出せなかった。
『死んだと思った兄が生きて、戻ってきた』。
オーギュストの持っている情報だけなら、そう判断もできるのだ。
しかし、オーギュストは兄の姿を見た瞬間から、悪い予感が止まらない。
さまざまな情報が頭の中で符合していき、最悪な結末を導き出す。
するとリシャールは優しく黄金の瞳を細めて、言った。
「よかった。『兄さん!』とか言いながら駆け寄って来たら、どうしようかと思っていたんだ」
「…………あなたは、誰、ですか?」
「いやあ、それは難しい質問だ。俺は自分をリシャールだと思っている。リシャールとしての記憶もあるし、意思もある。けれどお前と別れる前のリシャールと同一人物かどうかは、ちょっと証明しにくい━━」
「あなたは、カシムの味方ですね」
オーギュストの声は冷え切っていた。
リシャールは口の端をつりあげて、我慢できないというような笑顔になった。
「優秀だ。もっと感情が判断の邪魔をしているものと思っていたが、どうにも俺は、たびたびお前を見誤るらしい。……嬉しいものだな。弟が想定を超えて成長し続けるというのは。これなら……この周回のドラクロワ王国は、安泰だろう」
リシャールが手を前へ突き出す。
すると砂がそこに集まっていき、瞬きの間に、長剣のかたちを成した。
「『最初の魔族』リシャール。魔王の命により、オーギュスト・ドラクロワを大地に還しに来た。……剣を抜けオーギュスト。呆けたお前を斬り捨てるのは、今の俺でも寝覚めが悪い」
━━王とは。
魔獣の王、魔族の王……魔王カシムとは、かくも悪辣かつ苛烈に人を害する者らしい。
敵対者とはいえ、あまりにも情がない。
王とは、なんぞや?
その答えをオーギュストはまだ知らないが……
「たしかに僕は呆けていたようです。今、初めて決意しましたよ。━━魔王はこの世界に生きていてはいけない。必ずや撃滅しなければならない、と」
馬上で腰の剣を抜く。
その切っ先には冷たい空気がまとわりつき、凍りついた水分が日差しを受けてきらきらと美しく輝いていた。