92話 『王とは、なんぞや』
ドラクロワ王国は強大な軍事力を誇る。
『軍事力』にはもちろん陸軍だけではなく海軍も含まれる。
『聖クリスティアナ王国の魔女』の伝説は、実際に舳先を向き合わせた者以外にも広く伝わっており、その海軍力は今やドラクロワ王国の戦力として数えられているのだ。
また、軍事力を支える食料自給率も高い。
王国南部には一大穀倉地帯が存在し、そこでとれる麦は王国民の腹を満たし続けているし……
もう少し東に目を向ければ、そこでは数多の海産物と、そして潮風のそばで育つ果物や木の実などが多く見られた、
たっぷりと日と海の恵みを受けて育ったそれらは、食用油や酒など数多のものに加工される。もちろん、そのまま食べてもいいし、塩漬け、酢漬けなどの用法もあった。
『たとえ世界を敵に回しても、生き延びる』
ドラクロワ王国の強壮ぶりはそのように表現される。
……だが、それは。
あくまでも、危機に際して国家が素早く一つにまとまって邁進した場合の話だというのは、付け加えねばならないだろう。
━━リシャール第一王子死亡から、ひと月が経過した。
魔王カシムの存在はもちろん報告され、隣国たるラカーン王国がどのような道をたどっているのかは次々と続報がもたらされている。
かの砂漠の大国は勇壮なる兵を持ち、第一王子バルバロッサを旗手として戦いを続けているという。
そして、その指揮下にはドラクロワ王国第二王子オーギュストと、その婚約者のアンジェリーナ……
なにより最強の騎士であるミカエルが参戦し、オールドリッチ領の支援まで届いているのだとか。
対するのは魔王と呼ばれる謎の存在。
そいつは次期国王当確と目されていたリシャールを殺し、獣どもを操り、単身でラカーン王都を攻め滅ぼしたという。
今日、ドラクロワ王国にも『獣の軍勢』は現れており、これを操っていたのも、魔王カシムという情報も入ってきている。
第一王子の仇にして、間違いなく人類の脅威。
しかもすでに最強の騎士が現場入りしており、なおかつ『離島』の支援までもが入っている。
そして第二王子もそこにおり、奮戦している。
だから、王宮の会議場では、こういう意見が出ていた。
「もはや、これ以上の支援は必要ないでしょう」
「魔王カシムというのは、なんともはや……ははあ。御伽噺のようですな」
「第一武功はオーギュスト殿下、その補佐としてアルナルディ卿……かの『離島』にも、業腹ながら第三勲功を認めねばなりますまい」
「食糧支援と難民救助も行っているとか。……あの忌々しい『離島』を、いよいよ完全にドラクロワのものとする好機やもしれませんな」
「では、我らの武功はその時に」
……その戦場には、もはや、『うまみ』がないように思われた。
魔王という個人など、最強の騎士ミカエルが蹴散らすものと思っていた。
第一王子であったリシャールが亡くなったならば、王位継承権争いは実質的に中止となる。
となれば残ったオーギュストが民にその権威を認められるためにはなんらかの偉大な働きが必要であり、第一王子を殺害したという『魔王』の討伐はいかにもおあつらえ向きだ。
物資支援はすでにクリスティアナ=オールドリッチが行っているというし、その支援の中には『住処を失ったラカーン王国民の受け入れ』もあるのだという。
身銭を切って、さらに難民を受け入れる……この行いは非常に立派なことである。
立派というのはつまり、『自分ではやりたくない』ということだ。
これを率先して行ってくれるなら拍手喝采で応援するし、その結果としてあの『離島』が力を落とすならば、これ以上に素晴らしいことなどないだろう。
なにより力ある騎士たちは自領の防衛という大義名分もあった。
ドラクロワ王国は領主の自治権が強い。
基本的には領の問題は領主とその臣下が対応し、どうしても及ばない場合のみ、国王が号令をかけて『連合軍』が形成される。
王というのはこの自治権を担保し、ある領からある領への侵攻を含む越権行為を取り締まる役割が主だ。
『王とは公正なる目である』と表現した学者もいた。『王は機構たるべし』と述べた王族もいた。
王の役割は、国家が掲げる『正義』の決定である。
なにが正義でなにが悪かを見定め、国家を挙げて立ち向かうべき悪あらば、これに総力を結集するよう号令するのが役割だった。
では、正義とはなにか?
……これが難しいのだ。
もしも掲げるべき正義に誰の同意も得られなければ、王が号令したとてすべての貴族がついてこないということもあるだろう。
もしも誰もが認める『正しきこと』のために号令を発したとして、それが全員にとって得のないことであれば、やはり従う者は減るだろう。
『全員が納得し、従う範囲の正義』
王の役割はこの見定めであり、つまるところ、『貴族たちの願望に逆らい過ぎず、貴族たちにある程度の得が見込める方針を提示する』ということが必要になってくる。
……ゆえにこそ、ドラクロワ王は国家に号令をかけられない。
息子を殺され、もう一人の息子もまた危機に瀕しているが……
激情のまま号令をかけて全軍をラカーン王国へ向かわせることは、できない。
貴族に『得』を示さねばならないが、すでに第三功までがほぼ決定しているこの状況では、栄誉も褒賞も、望み薄と見られている。
なにより相手が『魔王という個人』なのがまずい。
これが『ラカーン王国への侵攻』であればもっと話は簡単なのだ。敵軍を蹴散らし、土地を奪い、それを貴族たちへ与えることができる。
しかし打ち倒すべきはラカーン王国に発生した災害のようなものであり、これを打ち果たすついでにラカーン王国の土地を切り取ってしまっては、世界中からの非難を集めるだろう。
国家という、利害と伝統でつながった組織は、『突如出現する単身で国を滅ぼしうる個人』への対応ができないのだ。
……貴族たちを『弱腰の保身者だ』と責めることもできない。
彼らは土地を持ち、あるいは商売をしている。そして軍を出すには金がかかり、金を使いすぎると疲弊する。
貴族が疲弊しては治安も悪くなるだろうし、臣下への給金支払いが厳しくなれば人員削減もありうる。
すると路頭に迷う者が増え、その者たちが治安を乱し、それをきっかけにさらなる戦いが始まることもありうる。
全軍突撃! と号令するだけならば簡単なのだ。
だが、王はそれがもたらす損害と、その後十年、二十年先に号令がどのように影響するかを考え、『ここで号令をかけるのは、本当に国家を守護することになるだろうか?』と問い続けなければならない。
ゆえに、ドラクロワ王国はラカーン王国で起こることを静観するしかない。
……若き日のドラクロワ王は、騎士ミカエルに憧れた少年であった。
そのころならばきっと、槍を担いで、単身でもラカーン王国へと助太刀に向かったことだろう。
ままならぬは、玉座に根付いたこの体。
誰に向けることもできず、ただ、王冠の下で自問する。
王とは━━
『王とは、なんぞや?』