88話 砂に埋もれた半生
語るほどのことなど、ないのだった。
『彼』は砂の中で過ごし続けたし、それが不幸なのか、はたまた幸福なのかを考えたこともなかった。
ただ、あるべきようにある。
流れのままに、動く。
『彼』はおおよそ欲望や願望といったものを持ち合わせていなかった。
たとえどこかでのたれ死んでいたとしてもそれを悔いることはなかっただろうし……
誰かの幸福そうな様子を見せられて、それが、ともすれば自分が享受できたはずの幸福だったのだと知ったとしても、うらやむことはなかった。
『彼』にはずっと流れが見えていたのだ。
人から人へと渡っていく流れ。人から自然へ、あるいは自然から人へと渡っていく流れ。
その流れに逆らうことなく、それを利用してやれば、たいていのことがなるようになる。
彼には『己』がなかったものだから、その流れにうまく従うことができた。
その『流れ』に『魔力』という名前がついていると知ったのは、彼が十歳を過ぎた日のことだ。
まともに教育を受けていなかったため、この世界を取り巻くものに疎かった彼は、その日初めて自分が見ているものが魔力であるということと、貴族などの偉い連中が使う力が魔術と呼ばれるものであることを知ったのだった。
彼にその情報をもたらした者は、太陽を思わせる、すさまじい流れの源流だった。
流れ……魔力に頼らないでその者を見るならば、真っ白い髪に、褐色の肌、灰褐色の瞳を持つ少年……
そして、どことなく、自分に近しいところを感じさせる、奇妙な存在、なのだった。
その少年の名は『バルバロッサ』といった。
バルバロッサはどうにも血縁上は自分の弟であるらしく、迎えに来たのだとか。
「うまく潜んでいたな。なかなか見つからず、だいぶ苦労をさせられたぞ。こうまで俺に手を尽くさせるとは。だが、許す。貴様は王たるこの俺の兄だ。不吉な黒髪も、そばに置いておくぶんには魔除けになろう。以降、俺の剣となり盾となれ」
まだほんの幼い少年であったバルバロッサだが、すでにその人格は完成しているようだった。
傲慢な口振り。尊大な態度。
だけれどどれもが、ぴったりと彼の性質に合っている。
生まれながらの王━━
バルバロッサから放たれる瀑布のごとき魔力の奔流を見て、『彼』はこの幼い少年に従うことを決めた。
今までと同じだ。
彼は流れに従う。
そうして、これまで生きてきた。
彼はラカーン王国の治安の悪い場所に捨てられていた。齢二桁に入ったばかりにして、数限りない暴力と悪意にさらされてきた。
悪意、敵意、あるいは殺意……それらの感情は常に流れとなって彼には知覚されていた。
そうして、その流れに逆らわないよう、流れるままに立ち回って、これまで生き延びてきた。
このころになると、彼にとって『流れに従う』というのはほとんど絶対の行動原理……信仰とさえ、言ってしまっていいものになっていた。
もしも人が必ず一つは『信仰を捧げる神』を選ばねばならないならば、彼をとりまく魔力の流れこそ、彼が奉ずべき神だった。
その神を信仰する限りにおいて彼の生命は守られてきたし、治安の悪い地域にあってさえ、彼の幸福は保証された。
自身の命を守り幸福をもたらすものを人は崇めるのだと、彼は知っていた。だから、彼はその人生を『魔力の流れ』という『神』に奉ずると決めていたのだった。
……命は惜しくなく、幸福で喜ぶことはなかった。
己自身に価値を見出せないまま、彼は生きてきた。
けれど━━否。だからこそ、彼は、普通の人がそうするように、自分を生かし、幸福にするものをありがたがろうとした。
思い返せば。
『普通の人』にならなければならないという想いだけが、ずっとあったのだろう。
それは、おそらく、叶わなかった。
……だからこれは、最初からなにもなくて、長く生きてもなにも得ることのなかった者の、語るべきほどでもない、話なのだ。
彼はどれほど幸福でも幸福がわからず、生命の危機にも脅威を感じず……
自分を見出し、重用してくれた弟その人にではなく、その人から発せられる流れにのみ従っていて……
けっきょく、人と人との関係とか、人間性とか、恩とか、そういうものが、よくわからなかった。
流れに従うだけの生命。
最初から人とは違った生き物だったのだと、彼はようやく、結論づけることができたのだった。
◆
「『復讐か』などと、おっしゃらないでください。私には、報復すべき相手など、一人たりとも思いつかないのです」
━━獣の軍勢が、そこにいた。
前例などない統制のとれた獣どもの大侵攻。
これに対するは、近隣諸国すべての歴史を百年さかのぼろうとも、おそらく最強と呼ぶにふさわしい、人の軍勢なのだった。
諸国に響く最強の騎士、『灰かぶり』のミカエル。『預言者』と呼ばれ未来を見通す黄金の瞳を持つと言われるリシャール王子。
ラカーン王国においてバルバロッサといえば、『現在主義』の国にあってさえその実力を高く評価されている。政務はもとより剣術、さらに軍事においても人々にあつく信頼されていた。
それら名声煌めく新進気鋭の将に率いられるのは、その腕をたのみに剣術大会へ参加しようという荒くれども。
王のお膝元である王都にそのような荒くれどもを招く危険性を想像できぬほど、ラカーン王国は無能ではない。そうしたのは精強にして忠実なる正規軍の存在あってこそで、その屈強なる正規軍もまた、馬の頭をそろえて獣の軍勢と相対していた。
敗れるはずなどない、人類最強の軍勢なのだった。
これとまともに戦おうと思ったならば、悪名高き『クリスティアナ王国の魔女』を再びこの世に呼び出し、海に誘き出して叩くしかないほどの、本当に、本当に、強い軍勢だった。
それが、獣たちの前に、倒れている。
砂をはらんだ強い風と、夕暮れ時を間近に控えているはずなのにかげらず照りつけ続ける日差しの下……
風に舞う砂に埋もれるようにして、人と、馬たちが、倒れている。
「うらやむことなど、ありませんでした。あなたにお仕えしていた時間は、まぎれもなく、私にとって幸福な時間だったのでしょう。あなたは信頼すべき、そして……愛すべき、弟、だったのでしょう」
二本足で立つ人型のモノは、その場にたった、一つだけ。
ターバンを解いた黒髪を強い風になびかせる背の高い人物だ。
鍛え込まれた手足。しかし背の高いその人物は決して太くは見えず、むしろ、ある程度の距離をとって向かい合えば、細身のような印象さえ抱かせる……あまりにも均整のとれた体つきをしていた。
風にふきつけられてたっぷり布を使った衣服が体に張り付く。浮かび上がるラインは彫像のように美しく……
風を浴び、日を浴び、砂を浴びて両腕を広げて空を仰ぐ姿は、そのまま一葉の絵画として宮殿の壁にあっても、行き交う者を立ち止まらせ、ため息をつかせるほど荘厳であった。
「けれど、幸福も、愛情も、信頼も……『流れ』に比すれば、どうでもよかった……今まで努力を続けても、それに行動を決定づけるほどの価値を見出せなかったのです」
そのモノが視線を落とせば、砂にうもれかけてうごめく者がそこにいる。
砕けた鎧を身にまとい、折れた剣を片手に持つ、白髪褐色肌の人物━━
バルバロッサ・ラカーン。
バルバロッサを見つめて、そいつは言葉を続ける。
「どうか、私の動機の推察などと、無駄なことをなさらないでください。理由など、ないのです。あなたはなにも、悪くない。黒髪を蔑むこの国の人々さえも、なんのかかわりもないのです。私はただ、より大きな『流れ』に従っただけなのですから」
「ずいぶん……」
バルバロッサは力のこもらない腕にいっぱいの力をこめながら、上体を起こす。
力の抜けた体はそれだけで精一杯だったけれど、灰褐色の目だけは、まったく弱々しいところがなく、ぎろりと目の前のモノをにらみつけていた。
「ずいぶん、饒舌ではないか、カシム!」
裏切り者の名を呼ぶ。
それは、獣の軍勢に挑むに際して、バルバロッサが真っ先に放った懐刀であった。
優秀な秘書であり、冷徹な将であり……
忠実な。
……世界で一番信頼できる、血を分けた、兄、なのだった。
バルバロッサは、ここまで叩きのめされてなお、なにが起きたのか、把握しきれていなかった。
カシムとミカエルを切り込み隊長として獣の軍勢に放った。
そうして、二つの軍勢は獣の軍勢を切り裂き、後続に道を作った。
そのまま突撃しながら殲滅できる━━そういう勢いだった。
ところが、ほんの一瞬あとだ。
軍が、壊滅していた。
……あまりにも唐突すぎて、笑ってしまったほどだった。
冗談のようだった。そういう喜劇めいていた。ありえなさすぎて夢かと思ったほど、なのだった。
しかし、いつの間にか軍は壊滅していて……
カシムが、獣の軍勢を率いるように、そこに立っていた。
それが現在で、それがすべてだ。
「なにをしたかは、今は問わん」
不明な点があまりにも多すぎた。
なにが起きたのか。なぜ軍は壊滅しているのか。どうやってやったのか。どうして獣どもはカシムに従うようにしているのか。これまでドラクロワ王国の方で出た獣の軍もカシムが? だとしたらなんのために? いや、そもそも……
……わからない。なにも。
あのリシャールでさえも、予見できなかっただろう。
過去を悔いても仕方がない。それはすでに過ぎ去ってしまったことだ。
なにかしらの予兆を見逃していたのかもしれない。だが、検討すべきは今ではない。
未来を思っても仕方がない。そもそも、未来は現在のあとに続くものだ。
乗り越え難い危機が『今、目の前』にある。これを超えるために力を尽くすべき局面で、その後のことなど思っても仕方がない。
だからバルバロッサは『現在』に対応する。
ラカーン王国の未来の王は、徹底した現在主義だ。
……これまで過ごした時間も。
ともに歩むべきだった未来も。
『今、目の前に、敵対するように立っている』という事実より重いものではない。
「カシム、俺の懐刀に戻れ。今すぐ武器を捨て、頭を垂れ、後ろの獣どもを散らし、のちにすべてを述懐すると誓え」
バルバロッサがふらつきながら立ち上がる。
カシムは……それを、見ていた。
震えながら立ち上がる歳下の主人を……祝福された弟を、ただ、見ていた。なんの感情もなく、ながめていた。
「カシム! ……俺が、どうにかしてやる。俺が、お前のすべてを許す! ゆえに、再び俺に従え!」
カシムは、バルバロッサを見ている。
そして、彼の感情が激流となってその身から溢れ出すのを観測した。
うずまく感情……魔力の微細な流れかたや勢いから、カシムは相手の思うことをおおむね察することができた。
バルバロッサから溢れ出す魔力からは、悲しみと、絶望と……
それらを呑み込んであまりあるほどの、なにかよくわからない、とても熱い感情があった。
だが……
「バルバロッサ、私はあなたの許しなど求めません。いえ、誰の許しも必要でないのです」
「カシム!」
「……あなたは、すさまじい流れの源流だ。しかし、人だ。私の行動に動機があり、動機の源泉に不満があり、不満の始まりに環境があり、それさえ改善できれば私が思い直すのだと、そう考えておいでだ」
「……」
「繰り返し申し上げます。私は、あなたも、この国も、この世界も、嫌いではないし、不満もないのです。ただ、そこに、あなたよりもなお従うべき『流れ』が見えたから、そうした。それだけなのです」
「……なにを……なにを、言っている?」
「バルバロッサ」
カシムはそこで、笑う。
バルバロッサは、半歩退いてしまった。
無表情で無口であったこの男の笑顔は、おそらく、初めて見た。
……その、笑顔は。
『顔の筋肉を笑んでいるように動かしただけ』とでも言いたくなるほど、人間とは違ったものだったのだ。
「あなたは私を理解できないのでしょう」
「……」
「けれどね、私も……一度も、あなたたちのことが理解できませんでしたよ」
ゆえに、この蛮行には、人間の観測できる伏線などなく。
だからこそ、彼の行為を説得で止めることはできず。
なにも、わからない。
一つも理解できるところがないまま━━
「悲しいな。どうして、そこにいるのがあなたなんだ」
そう述べながら、理解不能な力をバルバロッサに放つのを、カシムがためらうこともなかった。