87話 砂で隠された未来
「移動のための『足』をもらえなかったのは、まあ、『余裕がない』というのも事実ではあるんでしょうけれど……たぶん、『なにか騒ぎが起こってもすぐには戻れないようにするため』という意図もあるんでしょうね」
「なるほど、それが我らが砂漠を徒歩で移動させられている理由なのか……」
アンジェリーナの声にはじゃっかんの恨みがましさがあって、オーギュストは思わず笑ってしまう。
気持ちはわかる。
たしかに、猛烈な風の吹き抜ける砂地を徒歩で移動するというのは思っていたよりずっと大変で、体力をそれなりにつけているオーギュストでさえ、砂にうずもれた足を持ち上げるたびになかなか大変なように思われるほどだった。
ましてアンジェリーナの体力のなさは折り紙付きなものだから、彼女がさっきからぜえぜえ息を荒らげて歩いている様子は、見ているだけでかわいそうになってくるほどだ。
「背負いましょうか?」
と、問いかけるけれど、これは実のところ、今初めてした質問ではなかった。
アンジェリーナがずっと大変そうなので、合計で四回ほどこのように申し出ている。
最初はもちろん冗談で言っていたのだが、だんだんと真剣みを帯び、今ではもう『それ以上歩くと死にかねないので背負いたい』ぐらいの本気の申し出だった。
しかし……
「問題ない。自分の足で歩く……」
アンジェリーナは、頑として申し出を承諾しなかった。
……それはまあ、淑女がおんぶされて移動するというのが、色々と『ありえない』のはわかるのだけれど。
そんなこと言ってられるスタミナ状況であるようにはとても見えないのだ。
オーギュストとて『風上に立つ』などのさりげないフォローはしているのだけれど、それだけでどうにかなるものではない。
(……というか兄さん、もしかして、僕らに移動のための『足』をよこさなかったのは、アンジェリーナの歩調の遅さまで計算に入れていた可能性がありますね)
オーギュストたちは『いざという時の備え』のため、アンジェリーナの実家に行こうとしている。
その必要性はリシャールから語られ、たしかにオーギュストも納得した。
しかし、それでも、やっぱり、『いざという時の備え』は『いざという時の備え』でしかない。
リシャールは、オーギュストたちがこうして砂漠を歩いて時間を浪費し、戦闘にかかわらないでくれるなら、それでいいと思っていそうな気がする。
(はめられた━━とは思いませんけど。たしかに、重要ではある。というか、『たしかに重要』だからこそ、僕も断れなかった……)
アンジェリーナを安全なところへ逃しておきたいという気持ちは、自分もリシャールも同じだろうというのは、わかっている。
だからこそ、『たしかに重要』であり、なおかつ『アンジェリーナを安全地帯へ退避させられる大義名分たりうる』この役割を拒否できなかったし、あえて理屈を捻り出して拒絶しようとも考えなかった。
砂漠を渡る逃避行は絶対安全というわけではないが、少なくとも、獣の群れと正面切って戦うよりは安全なのだ。
獣の一匹、二匹程度が相手であるなら、アンジェリーナを連れたオーギュストでも充分に対応が……討伐ではなく逃亡が……できる。
(……考えれば考えるほど、この伝令のための逃避は、なにも間違っていない。理屈の上では、すべてにおいて正しい……)
だからこそ、今さらになって、兄にしてやられたような、そんな気持ちがある。
もしも『護衛のために兵をつける』などと言われでもしたら、この『正しい理屈』はすべて『アンジェリーナと自分を逃したいという想いに立脚したもの』であることを看破できたかもしれない。
護衛をつけるという話がなかったからこそ、自分はこうして『自分たちにしかできない役割』に納得する羽目になったのだ……
(……まだまだ、及ばない、か)
敗北感。
ここから兄に勝つにはどうすればいいか? なんて、自分はいつからそんなに勝ち負けにこだわるようになったのだろう?
負けることが前提の人生で、未だなにもかもで兄に及ぶ気がしない。
それでも、この伝令を完璧以上にこなして━━兄の手のひらの上から脱してやりたいという気持ちが、たしかに胸の中にある。
……砂漠を歩いていく。
直線距離的に、実は、ラカーン王都から港までの距離はそう遠くない。
ぎりぎり、移動のための足がなくとも、徒歩で半日以内にたどりつく……そういう距離なのだ。
しかし砂をはらんだ強い風の中を進むのは予想していたより消耗が激しい。
(僕はともかく、アンジェリーナの体力が心配なんですよね……)
アンジェリーナの周囲に水をまとわせ、乾燥や砂から守ったりはしているのだけれど、それでも一歩ごとに足に砂がかぶさり、そこから引き抜くというのは、かなり体力を削っているようだった。
「……ねぇ、アンジェリーナ、意地にならずに、せめて僕の肩を借りるぐらいは、しませんか? 君がつらそうなのをただ見ているのは、つらいのですよ」
すると婚約者の片目……もう片方は眼帯で隠れている……がオーギュストを捉えた。
砂塵の中にあり、疲労の極地にありながらも、燃えるような赤い瞳は、捉えた者の魂を引き込むような輝きを放っていた。
体力や魔力、あるいは権力なんかさえ超越した『力』が、その目に宿っている。
魅了の魔眼━━とアンジェリーナ本人は語る、その瞳。
……いや、魅了効果があるとされるのは、眼帯に隠れている方だったか。
だが、どちらにせよ、その瞳には人を引き込み、夢中にさせる、凄絶な美しさがあって……
困ったことに、状況が危機的なほど、彼女の輝きは増すように思われた。
「……なにも、意地を張っているわけではない」
射抜くような視線とは裏腹に、その口調は冷静なものだった。
アンジェリーナは機嫌を損ねているわけではなく……
「ここから先のことを考えると、オーギュストの体力を浪費させるわけにはいかんのだ」
「……ここから先?」
港について、船を確保し、オールドリッチ領に向かう━━
アンジェリーナの声音からは、そんな予定通りの旅路ではない『なにか』を想定していることがうかがえた。
「君は、なにが見えているのですか?」
……早く先へ進みたい。
けれど、オーギュストは、足を止めてしまった。
歩きながら聞くにはあまりにも重い話が始まる……そういう、奇妙な予感が働いたのだ。
アンジェリーナもまた足を止めて、真剣な声音で述べる。
「……『魔王』を知っているか?」
「……君のことでは?」
かつていたとされる人物。その転生体を名乗るアンジェリーナ。
……まあ、それは現在のところ、判断保留されているものでもある。
アンジェリーナの『自分は魔王の生まれ変わりだ』という発言には、たしかに『そう』だと思いたくなる数々の要素はある。
だが、オーギュストはそういった不思議なことを『ない』とするスタンスをとっている。
個人的にアンジェリーナの発言には信じるに足るところがあるとはしながら、対外的・公的には『そんなものはない』として、さまざまな予定、計画を組んでいく……そういった立場だ。
だからか、オーギュストの声には自然と肩透かしをされた感というのか、今このタイミングで真剣に話すことだろうか? という感がにじんでしまった。
だが、アンジェリーナは変わらず真剣━━いや、深刻なほどの様子で、言葉を続ける。
「……よくよく思い出していくと、我が記憶に欠けというか、齟齬というか、そういったものがあることに気付いた。それは最初、『アンジェリーナ』という存在と統合されたゆえのひずみだと考えていたが……どうにも気になり、この国の書庫に入り浸り、調査をした」
「……その結果、なにかがわかったと?」
「いや。なにもわからなかった、と述べてよい成果であったと思う」
「……あの、アンジェリーナ、君の言いたいことがちょっとわからなくなってしまっているのですが……」
「『魔を率い、人と戦った』」
「……」
「『平和な世に再び目覚めさせてもらうと約束され、甘んじて封印を受けた』」
……オーギュストの背筋に、ざわざわとしか感じが起こった。
アンジェリーナの発言はすべてこれまでに彼女が語った『魔王であったころの記憶』にかんするものだというのに、なにか、おそろしい、新たな事実でも語られているかのような……そういう感触があったのだ。
「しかし、我が魂が転生した先は、今、この時代で……この時代はどうにも、我が生きた時代からは、過去にあたると、そういうふうにしか思えない情報が、散見された」
決め手は『文字』だった。
この世界、この時代で扱われている文字が、古代のものであると、そういうことを思い出せたのだ。
そこから考えていくと、光属性や闇属性といったものが存在しないとされているのも、魔族というものが『最初からいなかった』ということになっているのも……
自分たちの親世代になにかしらの隠し事がありそうなことさえ、すべてが、一つの可能性を示しているように思えてならない。
「我が封印されたあとの未来に『平和な世界』などなかった。我はもしかすると、我のいた時代からもっとも近い『平和だった過去』に転生をしたのではないかと、そういう予想ができる」
「……君の話はなんというか、今、目の前にある状況にどうつながってくるのか、ちょっとわかりにくいところがありますよね。つまり……僕の体力を温存しておいた方がいいという話には、どうつながるのですか?」
「なにが起こるか、わからんのだ」
アンジェリーナは話しながらだんだんと表情に浮かべる深刻さを増していっているようだが……
オーギュストからすれば、アンジェリーナの頭の中にあるらしい危惧がさっぱりわからない。
それはもちろん、現状、『獣の軍勢』なんてものが出ているし、危機的状況ではあるだろう。
最強の騎士であるミカエルがおり、リシャールまでいる軍勢が敗れるとは思わないが、兄が『万が一に備えてオールドリッチ領に援助を要請しに行ってくれ』と言うのに一定の説得力がある状態ではある。
だが、言ってしまえば、それだけなのだ。
リシャールをして『なにが起こるかわからない』と言わしめるような。
アンジェリーナの口から『なにが起こるかわからん』と出てくるような。
……そして、誰もが、ここからどうなるかわからないような。
そういう状況でしかなく……
「……」
なにが起こるかはわからない、が。
あのリシャールが、嫌な予感を覚えるような。
アンジェリーナが、危機が差し迫っているようなことを述べつつも、本当にどうなるのかはわかっていないというような。
そういう、状況。
……そう考えると、奇妙な恐怖感がオーギュストを襲った。
嫌な予感というのは、案外、馬鹿にできないものだ。
しかもあの『預言者』リシャールが、説明もできずに嫌な予感を覚えている。
「この砂まみれの風の中で歩くにつれ、だんだんと、『嫌な予感』がふくらんでいっている」
アンジェリーナの語りは、彼女本人もまた、ここからなにかが起こる予兆をつかめていない様子だった。
彼女の言動がふわふわしているというか、思考が本筋から遠いところを行ったり来たりして、超理論を展開してしまうのは、わりといつものことではあるのだが……
「言葉にすれば『とにかく、なにか、悪いことが起こりそうで落ち着かない』というふうにしか語れんのだが……知っている気がする。我はこの砂漠でこれからなにかが起こると知っている気がする。学んだ……あるいは伝わった気がする。しかし、わからん。勘違いかもしれんが……こうして歩いていると、どうしても、記憶の底が刺激されるような気がするのだ」
「……僕らは戻るべきだと思いますか?」
「わからんのだ。ただ、もし、なにかが起こるとして……リシャールやミカエルまでいるあの場所でなにかが起こったとして、我ら二人が戻っても、なににもならんのは、わかる」
「……僕はそういう、不思議であいまいなことを行動の根拠にはしたくないのですが……」
「……」
「主義を変えましょう。……君の危惧はわからないが、僕らが進むという方針はたしかに、現在とりうる中で、最善なのでしょう。……肩は貸しません。歩けますね?」
「うむ」
二人は進み出す━━その前に、一度、自分たちの歩いてきた道を振り返った。
向こうに、ラカーン王都がある、はずだ。
しかしその姿も、ここまで歩んできた足跡も、すでに砂をはらんだ風に隠されて、見えなくなってしまっていた。




