86話 砂漠の街での約束
『獣の軍勢』との戦端が開かれるより少し前━━
もちろん獣の軍勢との戦いに参加しようとしていたオーギュストは、兄のリシャールに呼び止められ、こんな指示を受けた。
「オーギュスト、お前は国に帰れ」
預言者とあだ名されることのある兄リシャールは過程をはぶいて結論だけ伝えることのある人物ではあったが、それでも理不尽と感じさせる物言いをするわけではなかった。
説明を省くべきは省くというだけで、このように、押し付けるような言動はしなかった。
オーギュストは弟であり第二王子ではあるが、まだ王位継承権争奪戦中の現状、リシャールより立場が低いわけではなく、命令をされる筋合いもない。
それが命令口調でこうも唐突に言われれば、不満を覚えるより先に、その意図が気になる。
周囲を慌ただしく義勇兵たちが行き交う中で、オーギュストとリシャールは立ち止まり、言葉を交わすことになった。
「突然ですね。……もちろん、理由の説明はしていただけるものと思って間違いはないですか?」
「……まあ、そうだな。すべて正直に語ろう」
リシャールは黄金の瞳を閉じてため息をつく。
そこには常ならば頭のてっぺんからつまさきまで充溢している『自信』とか『強さ』みたいなものがなく、ほとんど『預言者』としての兄しか知らないオーギュストからは、かなり弱々しい姿に見えた。
しかし、再び目を開いたリシャールからは、もう、弱々しい様子はなかった。
いつものように、余裕があり、自信に満ちた、完璧なる王候補としての姿がそこにある。
「『心』の話からしよう。俺は、お前とアンジェリーナ嬢には無事に生き延びてほしい。ここからの戦局がどう転ぶかわからぬ以上、お前たちをここには置いておけない。お前たちはまだまだ未熟で、戦いを知らないからな。初陣がこれというのは、少々どころではなく要求が高すぎよう」
それについて反論はできなかった。
なにを言っても戦場に立ったこともない若造が、がなりたてるだけということになってしまう。
もちろんバスティアンの実家であるロシェル領での戦いはあったが……
ドラクロワ王国王侯貴族的な価値観で言うならば、あれは『初陣』とは呼ばない。
『初陣』とは、軍の中で揉まれ、人間関係を作り上げ、一兵卒としての力量を認められ、そのうえで挑むものだ。
そういった通過儀礼をこなしてこそ、兵たちに認められ、兵士として、あるいは指揮官として『軍』に参加できる。
ロシェル領での戦いは完全に『軍』からは独立した状態での参加であり、獣の軍勢を押し留め、『共に戦った』と認めてはもらえたけれど、それはあくまでも『客分』として認められただけのこと。
軍に組み込むにはまだなにもかもが足らず、今、目の前に迫る『獣の軍勢』との戦いで求められるのは、『軍』として動ける、通過儀礼を済ませた戦士なのだ。
「『実』の話については、お前がまだ軍を率いるために必要なことをこなしていない、というのと……あと、お前とアンジェリーナ嬢にしかこなせない役割がある」
「……それは?」
「オールドリッチ領への伝令だ。かの島へ援軍を求めに向かってほしい」
オールドリッチ━━クリスティアナ=オールドリッチは、アンジェリーナの実家だ。
ここはドラクロワ王国貴族としては特異な立ち位置にある領土で、その『特異性』は実に多岐にわたるが……
今の展開の中で、この領地の助力を求めるとすれば、それは……
「海軍力、ですか。それと……」
「ああ。それと立ち位置だな。俺が俺の名で勝手にドラクロワ王国に援軍を求めることはできん。バルバロッサもラカーン王国としてドラクロワ王国に援軍を求めはしないと述べていた。戦端を開く前から獣相手に他国へ援軍を求められないのは、国家としてしかたない。だが……アンジェリーナ嬢の婚約者である我らが、あの島に助けを求めるならば、ぎりぎり通る」
アンジェリーナの故郷であるクリスティアナ=オールドリッチ領の特異な立ち位置は、その島の絶大な影響力に起因する。
もともとは『クリスティアナ王国』であったその領地は、今なお巨大な海軍力を保持しており、これをある程度自由に動かしてもおとがめを受けない独立性を持っている。
もちろん『大義名分さえあれば』ではあるが、『娘の婚約者を救うため』という程度でも軍を動かすことが可能だ。
これから始まる『獣の軍勢』との戦いは陸戦であり、軍艦は役立たないかもしれない。
リシャールが預言力で『海にも獣どもの軍が出る』と知っているわけでもないだろう。そんな預言が降りているなら、そもそも『無事にいてほしいアンジェリーナとオーギュスト』を海路で帰そうとはしないだろう(島国であるクリスティアナ島に伝令として向かわせる話をしているので、必然的に海路での帰還になる)。
しかし、海軍の力というのは軍艦の砲撃力だけではない。
運送力。
どのような馬車より重い荷物を乗せて、あらゆる移動手段より速く動くことができるというのが、最大最高の船の利点だ。
つまり━━
「兄さんは、この戦いが……国外から物資を補給しなければならないほど長引くと?」
「さてな」
「……『さてな』って」
「オーギュスト」
リシャールの瞳が輝きを強くし、真っ直ぐにオーギュストを射抜く。
そのあまりの眼光に、オーギュストはついつい背筋をますます伸ばし、気圧されたように頭をわずかに引きながら、「はい」と応じる。
「……オーギュスト、よく聞け。……『黄金の瞳持つ者』、『預言者』あるいは『予言者』……俺のあだ名は数多い。そのどれもに共通して『未来を見通しているかのようだ』という意味が付随する。だが、今回の獣の大軍勢侵攻については、未来がわからん」
「……」
「それゆえに必要になるのは、なにが起きてもいいように備えることだ。そうして、軍や民を生かすためにもっとも重要かつ、現場の指揮ではどうにもならず、事前に戦略を立てておかねばならないものは、補給だ。いざとなれば軍を散らし逃げ延びることも不可能ではなかろう。人は強い。だが、食事や飲み水の確保は、人の強さだけではどうにもならんのだ」
そして、ラカーン王国は砂漠の国だ。
オアシスと呼ばれる場所や、果樹園なんかも存在はするが、王都の周辺は砂漠であり……
飲み水は、枯渇しやすい。
「水属性の魔法である程度はどうにかなる。だが、もしも王都にまで敵を攻め入らせてしまった場合、逃げ延びるであろうすべての人々の飲み水を賄うことは、魔術師だけでは不可能なのだ。その時には補給ができる場所と、そこを守る『無事な軍』……そしていざという時のための、国外退避に使う『足』が必要になる」
「……ミカエル殿まで擁する軍が、獣に敗北する可能性を考えているのですか?」
「おそらく負けはせぬだろう。だが、戦略は、最悪の事態を想定し、『あの時、備えていれば助かったのに』という死者を出さぬために練るものだ。役に立たぬなら、それでいい。損失は俺の資産から補填する。だが、借財をしてでも、備えはなくてはならない」
「……」
「ところが、『王国』という立場同士になると、協議が必要だ。協議をするには根拠を用意せねばならん。今のラカーン王国がそれをやるには少々時間がかかる。ところが獣の軍勢は目の前におり、ことと次第によっては、その『時間』というやつが、無辜の民の命を奪うやもしれぬのだ」
「……だから、『感情』に訴えかける、と? 『娘の婚約者を助けてください』と」
そこでリシャールは目を大きくし、それから口元に笑みを浮かべた。
「その通りだオーギュスト。愚かと言われようと、情けないと言われようと、それで人命が救われるならいい。……対外的に、誇りは命より重くなくてはならん。だが、本質的に、命は誇りとは比べものにならぬほど重い。どうか、それをわかっていてくれ」
……それは、なんだか。
これから死ぬ者が最期に告げるような、そういう響きを持っていた。
「兄さんは、死ぬつもり……では、ありませんよね?」
冗談めかした笑みを浮かべて、オーギュストは問いかけた。
本気という態度で聞いてしまうのがあまりにもおそろしかったから。
リシャールはいつもの、不遜な、自信に満ちた笑顔で、応じた。
「死ぬつもりだったことなど、一度もないさ。だが、それでも、人は死ぬんだ。……願いなど踏み躙って、どれほど生存を祈ろうが、人は、死ぬ時は、あっけなく、すがりようもなく、死ぬんだよ」
「……でも」
「ああ、勘違いをさせてしまったか? 死ぬつもりはないさ。ただなあ。運命というやつは、いいやつの命から奪っていく。ほら、俺はとてもいいやつだろう? だから、運命の女神に常に狙われているんだ」
そこまでいくともう完全に冗談という調子で、オーギュストは苦笑する以外の選択肢を奪われていた。
「頼むぞオーギュスト。今回ばかりは大人しく従ってくれよ。最近のお前たちは、どうにも暴れん坊だからなあ」
「暴れん坊って……」
「特にお前とアンジェリーナ嬢をそろえておくと、どう暴れるかわからん。頼むぞ。……本当に、頼むぞ?」
それは切なる願いのようであり、本当にオーギュストたちの暴走を危惧しているような響きでもあった。
ここまで清々しく信用されていないのがわかると反論の一つもしてやりたくなるが、たしかにアンジェリーナと自分が合わさった時の最近の出来事を振り返ると、『暴れん坊』と言われるのも、否定しきれない。
「頼むぞ」
リシャールがさらに念を押すのに、オーギュストは苦笑したまま「わかっていますよ」と返すしかなかった。
このあとリシャールは、オーギュストたちが大人しく伝令に従事しない可能性を想定して、軍の後方で備えるということまでするのだから、徹底した念の入れようだと言えた。