83話 『幸福』と『不幸』
……本当に、楽しい余暇だった。
いよいよ剣術大会の朝が来て、リシャールはずいぶんすっきりと目覚めた。
体が慣れるほどラカーン王国に滞在したのは、放っておいている祖国に申し訳なくもある一方で、政務執務に追われる日々にあってまたとない骨休めになったなとも思う。
(帰ったら溜まっている仕事が大変だぞ)
そんなことを思いながら笑えるほどの余裕がある。
……人生に『余裕』なんていうものを見出す隙間ができたのは、いつからだっただろう?
『一番最初』のリシャールは、余裕がなかった。常にいっぱいいっぱいで、別に玉座に就くことを目指していたわけでもないというのに、王子のこなすべき執務をこなすだけで、ただそれだけで毎日余力も残らないほど疲れ果てていたのだ。
当然ながら人脈など広げられるはずもなく、王城にある自分の部屋にこもりきりで、ガブリエルなどのもともとの知り合い以外には、誰も近付けることのない日々を送っていた。
そんな中でオーギュストが婚約者に困らされているという話を聞き……『一番最初』のころのオーギュストの婚約者、すなわちアンジェリーナは本当に『困らせていた』のでまったく笑い話ではなかったが……『いい機会だし、弟の婚約者でも見てみるか』と重い腰を上げたのだ。
そうして、『弟の婚約者を見るついで』に、彼女らと同級生である、エマに出会った。
平民ながら四属性の使い手という彼女は有名人であり、貴族の権威を保障する大きな要素の一つに『魔力』があるドラクロワにおいて、その行く末には注目すべきだったからだ。
もっとも、本当に優秀な人材であればどうせオーギュストが持っていくだろうし、自分ごとき『負け確定王子』には、平民出身とはいえ……いや、平民出身だからこそ、興味も示さないだろうと考えていたのだ。
けれど、エマは違った。
……こんな自分に興味を示した変わった少女は、勤勉さと優秀さで頭角を表していく。
そうしていつでも自分のそばにいた。
なぜ、なのだろう。
オーギュストだってエマを気に入っていた。ガブリエルもエマに一目置いていたし、他にもエマという少女は色々な人に目をかけられていた。
それでも彼女の卒業式にダンスパートナーをつとめたのはリシャールだった。
『今』のように『予言者』だの『黄金の瞳持つ者』だの言われていないころの、落ちこぼれ王子だったリシャールが、だ。
━━オーギュスト様は才覚にあふれていて、等身大の自信があふれていて、素敵な方だと思います。きっと、将来はあの方が王になるのだと、そばで見ている者はみんな、思っているのではないでしょうか?
━━ガブリエル先輩は、明るくて、朗らかで、でも、締めるところはきっちり締める人です。頼れるお兄さんっていうのは、ああいう感じだと思います。
━━アンジェリーナ様は厳しいし、ちょっと暴走するところもあるけれど……あの方の振る舞いは、『貴族のお姫様!』っていう感じで、見ていてとても素敵で、いつでも手本にしています。
━━でも、そばにいて幸せを感じるのは、あなたなんです。だから私はここに……あなたのそばにいるんですよ。
かつての自分は、明確な理由がほしかった。
自信がなかったんだ。自分というものに褒めるほどのところなんかなにもないと思っていた。だから、誰かに好ましく思われているなら、その人が自分を好ましく思う理由をどうにか知りたくて、あれこれと試すようなことも言ってしまったように思う。
けれど……
━━じゃあ、なんで、あなたは私のそばにいるんですか?
微笑んで彼女がそう言うと、自分は言葉に詰まってしまった。
彼女がなぜか自分を選んでくれたのだと、そればかり思っていた。
でも、片方だけが近寄っても、もう片方が遠ざかってしまえば、二人は寄り添うことができない。
自分が彼女を避けも遠ざけもしない理由など、なかった。
ただ、そこにいるのが心地よかったから、そこにいた、だけだった。
好きとか、嫌いとか、そういう心の動きに理屈なんかいらない。
思い知らされた。でも、自分に自信がないと、相手が自分に好意を向ける理由ばかりが気になってしまって、明日にはフッと冷められているような不安ばかりが胸にあって、どうしても、理由が気になってしまう。理由が、あってほしいと、願ってばかりに、なってしまう。
その自信のなさが相手を遠ざけるのだとも思う。だから自信たっぷりに振る舞おうとして、失敗ばかり積み重ねてきた。
『俺が王子という立場だからか?』
……そんなひどいことを言ったこともある。
でも、彼女は━━
ガブリエルがオーギュスト暗殺未遂を起こしても。
オーギュストが王になることが確定しても。
……王妃となるアンジェリーナが『万が一』を嫌ってリシャールを国外追放しても……
ずっと、そばにいてくれた。
━━たくさんの人が、不幸になってしまいました。
ガブリエルは処刑された。
オーギュストは王となったが、聞こえてくるドラクロワ王国のニュースには明るいものがない。
近々ラカーンと戦争が始まるらしく、その流れの中でアンジェリーナ妃は処刑された。なんでも、国費の使い込みと外患誘致が理由だとか。
最強の騎士ミカエルもまた、義理の息子の不祥事とアンジェリーナ妃との不仲とが理由で国を出ていたらしく、そんな有様で大国ラカーンに勝利できるとは思えない。
その上、アンジェリーナ処刑によってオールドリッチ領までもが敵にまわり、クリスティアナ王国として復活したとかいう話だ。
もはやドラクロワ王国は滅びるのだろう。
あの国で過ごしていた時には、なんて窮屈で不自由な場所なのだろうと思っていた気がする。
けれどこうして離れて滅びゆく祖国のことを思い出せば、そこにはきらびやかな青春と、愛すべき仲間たちの笑い声ばかりがあった。
戻れない場所ほど美しいと思えるのは、なぜなのだろう。
これだけ美しいのだと最初から知っていれば、もっと、たくさんのことができたと思うのに。
━━ドラクロワ王国の滅びは、オーギュスト陛下が失敗をなさったからではないのです。人智ではどうしようもないものがあって、それが悪さをしたからなのです。
それはオーギュストを庇うような発言ではあったのだけれど、そう語るエマの黄金の瞳には、事実を語る者だけが持つ真摯さがあった。
━━私にはもう、わかりません。どうしたら、みんなが幸せに生きていけるのか。きっとどこかに『正解』があるはずなのに、それは私ごときには及びもつかない場所にあるみたいで、いくら探しても見当たらないんです。
『みんな幸せ』だなんて、そんな理想郷はないんだ。
幸せはこの世界に決まった量だけしかなくって、人はそれを奪い合って生きているのだと思う。
━━たとえ世界に幸せが定量しかなくって、世界中のみんなでそれを奪い合っているのだとしたら……
━━私は、私の仲のいい人たちのためだけに、その幸せを独占したいんです。
━━私の見えない場所、知らない場所のことなんか知らない。そこまでの責任は持てない。私は、世界の誰かを不幸にしても、私の目の前の人に笑っていてほしいんです。
━━でも、もう、わかりません。
━━どうして、あなたはいつも、悲しそうなの?
━━笑っていても、泣いているような。明るくしている時も、なにか痛みを秘めているような。
━━あなたが心から笑う姿を、私は一度も見ることができなかった。
━━あなたは、きっと……
「リシャール」
「……ん? ああ、バルバロッサ王子か」
気付けばそこは剣術大会のために用意された天幕の中で、リシャールは粗末な椅子の上でまた寝こけてしまっていたらしい。
まだ時間に余裕があると思っていたが、外はすでにたくさんの人のものと思える騒がしさが満ちていた。
ついに剣術大会が始まるのだ。
「リシャールよ、貴様、疲れているのではないか? 最近は少し目を離すとまどろんでいることばかりだと聞く。……剣術大会は万全でない者を無理に戦わせる場ではないのだぞ」
ふん、と鼻を鳴らす褐色肌の青年は、どうにも物言いが傲慢ではあるが、こちらを気遣っているのだろう。
バルバロッサは傲岸不遜にして豪放磊落、まさに東部諸国の物語に出てくる『砂漠の王』という感じの人格ではあるが、それとは別に、優しさも持ち合わせているのだ。
まあ、思い込みが激しく人の話を聞かないところがあるので、優しさゆえの気遣いでとんでもない二次災害を起こすことも、ままあるが。
そこもバルバロッサという青年の愛嬌、といったところだとリシャールは思っている。
「……なに。ラカーンは昼夜の寒暖差が激しく乾いた風も吹き荒ぶと言われてはいるが、そこにいる人々は心地よい暖かさを持っている。ついついまどろんでしまうのも無理はない、ということだ」
「持って回った言い回しを」
「ではラカーン風に言うか。居心地が良くてな。気が抜けている。こちらには毎日いかめしい顔で書類を運んでくる年寄りもいないからな!」
「……まあ、そういうことにしておいてやる。……なんだ。貴様の不調はその……髪の色とは関係がないのだな?」
「……ああ、『体色に黒があると……』というアレか。だからそれは迷信だよ。なぜ、ラカーンでここまで信じられているのかは俺にもわからないが……迷信には発生源があるものだ。きっとなにかがあるのだろう。ところで俺たちの試合は全行程終了後のはずだったな? こんな朝っぱらから俺の出番はないだろう?」
「……隣国の王子が開会のあいさつもせぬつもりか?」
「おお、そういえば原稿も用意していたな」
「まったく……オーギュストはすでに準備して待機しておるのだぞ」
「あいつは優秀な弟だからな」
「兄より弟が優れているというのは、うなずきたいところだが」
リシャールはそこで、バルバロッサが常にそばにつけている青年を探した。
カシムという名前の黒髪褐色肌の青年は、血縁上はバルバロッサの兄にあたるはずだ。
体色に黒が入っているということで王位継承権がないらしいが、その優秀さには目を見張るものがある。
なんでも『今回』、オールドリッチ領からアンジェリーナを連れ去ったのも、ほとんどそのカシムの功績だとかいう話だ。
「……というか王子が一人で俺を呼びに来たのか。もっとあるだろう、人を遣わすとか」
「居場所は知らせてあるし、天幕の外には兵もつけている。……というか、一人で護衛もつけずに、これだけ人の出入りが激しい催しの中、天幕で寝こけている王子に言われると説得力が違うな」
「おお、見事な切り返しだ。ドラクロワの者かと思ったぞ」
「こういうのは好かん。くだらないことで舌鋒を交わしても仕方あるまい」
「まったくだ。このあと剣を交わすのだから、それでよかろう。……さて、あいさつにでも行くか」
リシャールが立ち上がる。
……ちょうど、その時だ。
会場のざわめきに、いやな気配が混じった。
「……どうしたリシャール、突然止まって。まだ寝ぼけているのか?」
どうやらその『気配』はリシャールにしか感じ取れなかったものらしい。
だが、勘違いとは思えなかった。
『いやなこと』の起こり始めには独特の気配があって、それはいつだって幸せなまどろみを冷たく覚ますのだ。
ぬるま湯のような心地よい日常にひたっている時に決まって訪れるその気配は、リシャールのぼやけていた頭を勝手に極限まで覚醒させ、周囲のさまざまな情報を集め、整理させる。
「北方向、鎧をまとった足音だ。伝令が来る」
「貴様はなにを言って……」
しかしそのあとに「失礼いたします!」という声が響き、返事も待たずに兵が入って来たので、バルバロッサはリシャールに「『予言者』め」とつぶやき、
「どうした!」
「は! その……」
伝令はリシャールを見た。どうやら国家機密に類する報告らしい。
けれどバルバロッサは「かまわん」と言う。
「緊急であろう。俺が許す。言え」
「は! 王都北部に、『獣の軍勢』が出現したとのことです! その規模、大型の獣だけでも数万! 整列し、鼻先をそろえ、一様に王都方向を向いているとのこと!」
獣の軍勢については、ドラクロワからラカーンに一応知らせていた。
愚かな国家であれば『獣が軍勢など、そんなことがあるものか』と一笑にふすところであろうが、ラカーンでは少なくとも『現実に起こりうる可能性があること』と認識していたらしい。『獣の軍勢』と述べる兵の口ぶりには引っかかりがなかった。
「……リシャール、経験者として意見がほしい。今から立てる作戦本部に参加せよ。これは国家としての打診である」
「承った。オーギュストも参加させてくれ。あいつも一戦交えている。もちろん、ミカエル殿もだ」
「……オーギュストにはアンジェリーナとどこかに避難してほしいのだが」
「アンジェリーナ嬢が呼ばれなくても来る。するとオーギュストも来る」
「……まったく……わかった。伝令! 聞いたな! その通りにせよ!」
伝令は大きな声で返事をして去っていく。
バルバロッサが天幕から出ると、そこにはすでにただならぬ気配を察した近衛兵たちがおり、道を作るように整列した兵たちの真ん中に黒髪褐色肌の片目を隠した青年……カシムがいた。
「カシム将軍、軍を率いる準備をしておけ」
無言のまま礼をし、カシムは去って行く。
「……王になるのはだめだが将軍はいいのか」
「『体色に黒』の話か。周囲の者は反対したが、俺が望んで『緊急時に限り』その立場となる権利を与えた。案の定、こういう時に動かしやすい」
「腹黒い男だ」
「失礼な。褐色と黒は区別されるものだ」
ドラクロワ風の言い回しに、ラカーン風の切り返し。
二人の王子はニヤリと笑って、それから同じように歩いていく。
(……やはり今回も、『なにか』が起こったな。願わくばいつものように、誰かが……仲のいい誰かが死ななければいいのだが)
リシャールには半分の期待と、半分の諦念がある。
やはり幸福は定量だとリシャールは思っている。
だからこうして、いろいろな人の仲を取り持って、幸福の先どりをすると、どこかで帳尻を合わせるようにおかしな脅威が発生するのだ。
(もしも、誰かがここで、前借りした幸福のぶんの不幸を負わねばならないのだとしたら……)
その役目を負うべきは。
……リシャールは意識して口元に笑みを浮かべ、誰かを挑発するように言い放つ。
「さて、楽しいことが起こるといいな」
黄金の瞳は曇り始めた天をにらみつけていた。