65話 エレノーラ・クリスティアナ=オールドリッチ
クリスティアナ=オールドリッチ船団旗艦『曙光号』には、現当主その人が艦長として乗っていた。
「おひさしゅうございます、オーギュスト様。エレノーラ・クリスティアナ=オールドリッチがお迎えに上がりました」
水兵服で優雅にカーテシーの動作をするその人こそがクリスティアナ=オールドリッチの当主であり、かの領地において彼女の夫はその補佐にあたる。
クリスティアナ=オールドリッチにおいて当主とはすなわち女王の血脈たる女性であり、それは海軍指揮官、陸軍指揮官など軍部最高司令官を兼ねる。
もっともあくまでも『立場上は』という話で、実際には名代たる軍人が司令官をしているものだが……
かつての戦いにおいて、当時『女王』であった聖クリスティアナ王国国家元首が自ら旗艦に乗り込み、立ち塞がる敵をことごとく打ち倒したという伝説はあまりにも有名である。
そのあまりに美しく、恐ろしい姿は今でも語種になっており……
船乗りたちが船に女性名をつけるのは、『かの女王』に魅了され、海上で立ち往生しないようにするための験担ぎだとも言われているほどであった。
「出迎え感謝します、オールドリッチ卿」
「いえいえ。我がクリスティアナの娘の里帰りをお許しくださったのですから、これぐらいは」
アンジェリーナの母親であるエレノーラは、アンジェリーナをそのまま大きくしたような女性であった。
ゆるくウェーブした腰まで届くほど長い銀髪は、今はひとつにくくられている。
潮風に揺れるそれは朝日を受けてきらきらと輝いており、潮風に揺れるたびきらめきの軌跡を残した。
穏やかでおとなしそうにも見える瞳の色は緑。
すなわち風の属性を持つ者であり、船乗りとしての才能は風や水の属性もちがあるとされている。
実際、かつてアルナルディを海戦において完封した『女王』も、緑の瞳を持っていたと言われている。
ぴったりとサイズの合った水兵服は男性用のものと同じデザインなのだが、彼女が身にまとうだけで最新のドレスなのではないかと錯覚させられてしまうほど、その身になじんでいた。
貴族女性がズボンをはく、というのは『奇行』に分類されるはずが、あまりに堂々としているせいで『そういうものなのかもしれない』と見る者が自分のマナーの遅れを錯覚するほど自然なのだ。
(……アンジェリーナと違って、目立たず、大人しい、自己主張の少ない女性、としか見えていなかった)
オーギュストはかつての自分の認識の甘さを自覚する。
エレノーラ・クリスティアナ=オールドリッチ。
外交のほとんどを夫に任せ、本人は領内の統治のみをする、引っ込み思案の貴婦人。
娘と違って目立つところのない━━というか、娘の暴走を止める強さもない、弱々しい石畳の上の花。
……だが、船団を率いて来た彼女はどうだ。
まるでそうあるのが当然というかのように船上にあり、そこらで走り回る水兵たちも、彼女の存在を中心に適切な緊張感を持って動いているかのようだった。
そこには『不慣れなのに同乗してきたお貴族様』に対する気遣いというものはない。
彼女は紛れもなく指揮官として受け入れられていた。
……ただの引っ込み思案の貴族の女性が軍人からこうも認められるわけがない。
目立たないのではなく、明かしていなかったのだ。
クリスティアナ王国は大きな領地として今もあり、それはいざとなれば王国に突き立てられる牙を持っている。
で、あれば。
オーギュストは一緒に来たアンジェリーナに視線を移す。
アンジェリーナは母と抱き合って再会を喜んでいるところだった。
というか母に抱きつかれて再会を喜ばれているところだった。
親しい女性同士、特に親子などはあいさつとして軽いハグをするというのも珍しいわけではないが。
なんというか、あの二人のハグは、あまりにも強くて、ちょっとばかり長くて、アンジェリーナが母を引き剥がそうとしているようにも見えた。
……クリスティアナが牙を失ってないので、あれば。
なぜアンジェリーナはあんなふうなのだろう?
もしもクリスティアナ=オールドリッチが家訓として牙を研いでいるのであれば、アンジェリーナはあまりにも弱すぎる。
……まあ、強いのはエレノーラだけで先代などは『大貴族のお嬢様』以上のものでなかったとか、両親が娘かわいさに甘やかしているだけとか、そういう理由の可能性もあるけれど。
……未だアンジェリーナを離さないエレノーラのもとに水兵が来て、なにかを報告した。
エレノーラは微笑んでうなずき、アンジェリーナをようやく解放してから、オーギュストに向き直る。
「荷物の積み込みが終了したようです。それでは本曙光号はこれより、クリスティアナ島へと出発いたします。道中の旅路は我が船団がお約束いたしますわ。もっとも、最新の大砲の威力をお見せする機会に恵まれるのであれば、それはそれで、喜ばしいのですけれど」
「アンジェリーナが海に転げ落ちてはたまらないので、遠慮願いたいですね」
「まあ! それは、たしかに。海までも我が子に魅了されぬとは限りませんものね。……けれどご心配なく。我が海軍は、あらゆるものから我が子を守り抜きます。相手が海だろうが、大地だろうが」
……大船団を率いてきたこともそうなのだが。
こう、言葉の端々が微妙に攻撃的というか。
視線に奇妙な敵意があるというか。
……冷静に思い返せば、アンジェリーナとは極めて利己的な理由で婚約したし、それを破棄しようとしたし、そのうえでまた婚約続行したので、個人的に嫌われる理由は山ほど思いつくのだけれど。
大地という表現は、国家そのものへの敵意を読み取れてしまう。
あらゆるものから。大地━━たとえ大陸の国家からであろうとも我が子を守り抜くと、そのようにも、聞こえるのだ。
(ここから、ごくごく短い時間のみで、アンジェリーナの死後の憂いをなくせるよう説得しないといけない)
繰り返すが、アンジェリーナを守るつもりはもちろんある。
あるが、オーギュストは現実的で、アンジェリーナがもしも例の『獣の軍勢』との戦いに積極的にかかわるつもりがあるなら、なんらかの不可抗力で死ぬ可能性がありえないとまでは、言えない。
そのあたりを汲みつつどう説得をすればいいのか。
……曙光が走り出す。
先ほどまで乗っていた払暁と比べるとあまりにも滑らかな滑り出しに、いくら世代を隔てるとはいえ、船の性能差を感じる。
このぶんなら予想より早くクリスティアナ島に着くだろう。
……帰りの船は手配していない。
それはこの予定が急に決まったからということのみではなく、島での用事を円満に片付けて、そうして送ってもらうのだという決意表明のつもりでもある。
だが━━
(予想していたより、重い交渉になるかな)
侮ってはいなかった。
だが、ウォルフガング、ミカエルという大人たちとかかわったことで、これまで見えていなかった世界がだんだんと見えるようになってきていた。
そのせいで、周囲の者たちの大きさと、その足元に張る根の規模がなんとなくうかがえるようになったのだ。
それは図らずも、世界がより困難な部分を自分の前に開陳したという意味で、これからやることの大変さがいつのまにか増されていたような、理不尽ささえ感じてしまう。
王とは、この複雑な根の上に立つ大人たちを従える者である。
それになるのだという宣言の重みが増したのを感じて、オーギュストは知らず、肩を回した。
九章終了
次回は10月18日から




