第120話 『彼ら』の物語 後
「アンジェリーナ・クリスティアナ=オールドリッチ、君との婚約を破棄する」
十四歳の誕生日に唐突に言い渡された婚約破棄が、アンジェリーナの人生設計をまるごと変えてしまった。
どうしてそんなひどいことを言うのか理解できないというような顔で、アンジェリーナは婚約破棄を言い渡してきた王子様の顔を見た。
オーギュスト・ドラクロワ。
王位継承権レースを演じる二人の主役のうち、美しく完璧な方の王子様。
もう一人はいまいちパッとしないというのか、長兄ではあるし、優秀は優秀なのだろうけれど、次期国王としてどうかと言われるとおおっぴらには評価を口にできない、その程度のお方だ。
だからアンジェリーナは自分の夫としてふさわしいのは、オーギュストの方だと思っている。
アンジェリーナのいるクリスティアナ=オールドリッチ領はドラクロワ王国主要大陸より北に浮かぶ島であり、もともとは独立した王国だった。
かつて戦争に敗北してドラクロワのいち領地となったが、その独立性はさして失われていない。
独自の文化を持ち、本国に強い影響力を持ち、領民などはアンジェリーナの母親のことを指して『うちの王様』などと呼ぶぐらいだ。
だからアンジェリーナも王女のつもりで生きている。
そして王女にふさわしい相手は『王子』だ。だからアンジェリーナはこの婚約に満足しているし、この関係がずっと続くものと疑っていなかった。
それが、婚約破棄。
あまりのことに息もできない。
アンジェリーナは倒れ込んだ。
◆
目を覚ましたアンジェリーナは、己が魔王であることを思い出した。
きっと、たぶん、魔王のような気がする。
◆
自分の行いを振り返ってみるとまあまあひどかった。
クリスティアナ=オールドリッチという領は形式上ドラクロワ王国のいち領地にしかすぎないけれど、その実質は独立した王国だ。
かつてドラクロワ王国を苦しめた海軍……それを支える造船技術、そして造船技術発展の途上で生まれた様々な『科学技術』によって、他の土地にはない文明と製品生産能力を誇っている。
『食料自給率が低いこと』と『食料自給率が低い問題を解決するのに工業製品生産のノリで食料を作っていること』以外には問題がないこの土地は、影響力、経済力、軍事力においてドラクロワ王国内でも特異であり……
多くの貴族たちが、顔色をうかがう大貴族。
王族でさえも無視できない影響力を持った、王子の婚姻さえ左右してしまえるほどの力がある家になっている。
いわゆる『権力者』というやつだ。
アンジェリーナはその実家の権力を利用してまあ好き放題してきた。愛想をつかされるのも当然と言える。
婚約破棄は当然。それどころか、これまでかけた迷惑のぶんを補填しなければならないぐらいだろう。
が……
(……まあ、オーギュストはオーギュストで、好きにやった方がいいやもしれんな)
償おうという意思はあるが、果たして自分が償おうとして何ができるのか? という疑問がある。
なのでアンジェリーナは素直に身を退くことにした。
オーギュストには幸せになってほしいなと思いつつ、婚約破棄は成立した。
◆
学園に入ったあと、アンジェリーナにはいわゆる『取り巻き』ができた。
けれどアンジェリーナの実家の権力におもねるべくくっついてきた連中は、アンジェリーナがあまりに評判と違う──『ちょっとおだてればすぐに調子に乗って、ガンガン支援の空手形を切ってくれる』という前評判と違うことを察して、だんだん離れていった。
そこからはもう評判が落ちるだけ落ちていく。
『離島の悪女』『わがままなお姫様(笑)』『勘違いしたチビ』『王子に婚約破棄されて恥ずかしくないんですか?』などなど……
アンジェリーナ本人もこれら評判を気にしないものだから、あっというまに学園内で孤立していき、いじめさえ始まった。
そこで接近してきたのがオーギュストであり、なぜか彼がいじめにいたく憤慨し、いじめを企てている者を糾弾しているので、アンジェリーナは不思議がってたずねてしまう。
「急にどうした?」
あんまりな物言いにオーギュストは言葉を失った。
いじめっこたちも言葉を失い、その場はお開きになった。
その後オーギュストから呼び出され、謝罪を受ける。
「……僕は浅はかでした。婚約も、その破棄も内々の話であり、あの時点で終わったものと思っていた。だというのに、君がこういった被害に遭うことを想定できなかった。……いえ、想定しようと、しなかったのです」
「別にそこまでアフターケアを万全にする必要もなかろうに……」
「君の窮状は僕の責任です。この学園内で君や君の評判を傷つけるすべてのものから、僕が君を守ります」
「別に構わんが……」
「ありがとうございます。精一杯、つとめさせていただきますから」
アンジェリーナの『構わん』は『しなくていい』であったが、オーギュストは『やっていい』だと捉えたらしい。
こうしてオーギュストはアンジェリーナの評判を守るため、アンジェリーナと行動を開始する。
真面目な男だな……とアンジェリーナは感心していたが、『婚約破棄したはずのアンジェリーナとオーギュストが四六時中いっしょにいる』という事実は、また違った憶測を生み、『敵』をもたらした。
曰く『アンジェリーナがオーギュストを脅してそばにいることを強要しているのではないか』というものだ。
それに伴って、『空いている』王子であるオーギュストを狙う貴族の子女や、オーギュストの側近を名乗るヒョロ長い男などからアンジェリーナはいたく敵視されてしまった。
「僕は人の心がわからないのかもしれません」
アンジェリーナを守ろうとしたはずが、自分の行為によって余計に評判を傷つけ、敵を増やしている……その事実はオーギュストをひどく弱らせてしまった。
「考えればわかるはずだったんです。わかるべきでした。だというのに僕は……」
「まあ貴様もまだ若いので……」
「同い年なんですよね……」
『完璧な王子様』であるオーギュストは、確かに、学業だの、イベント運営だの、運動だの、そういったものでは完璧だった。
出された課題に応えることにおいて無欠の王子様だったが、付き合いが深くなっていくと人心の機微については疎い面があり、それをひどく気にしているのだという点が見えてくる。
それはアンジェリーナの心の中にある『何か』をむずむずと刺激した。
かわいらしい、というのは、母が子を見守る感じというか、姉が弟を見る感じというか……
幼いころから知っている相手の意外な一面が見えるというのは、特有の感慨があるものだった。
一方でアンジェリーナも完璧とはほど遠い。
基本的には優秀ではあるのだが、考え方が変わっているというのか、発言が突飛というのか、とにかく人の感情をあまり気にしない言動が目立つ。
そういった彼女の言葉や行動が軋轢を起こすので、アンジェリーナをサポートするためにオーギュストが奔走することになる。
その様子が『使いっ走りにされている』と見られ、ますますアンジェリーナの悪評が高まっていく……という循環になっていた。
そしてアンジェリーナの悪評が出るたびに、アンジェリーナよりオーギュストの方が傷つき、憤る。
それを何も気にしないアンジェリーナが慰めるので、二人の関係性ははたから見てよくわからないものになっていた。
そのような日々に転機が訪れたのは平民にして四属性を持つエマという少女が入学してきた時だ。
その案内を申しつけられたアンジェリーナが、役割を放棄してしまったのだ。
これは『平民への嫌がらせ』ととられてたいそう好き放題言われることになったのだが、アンジェリーナ視点では『案内のために出向いたが、指定の場所にいなかったし、捜したが見つからなかった』ということになる。
おかしなことが起こったために調査をしていくと、学園の地下に続く通路を見つけた。
ここを進んでいくと、最奥に不可思議な道具があるのを見つける。
それは香炉のようだった。
ただし誰かが管理している様子もないのに、ぼんやりと輝きながら、香りのする煙をもうもうと漂わせている。
その煙は真っ黒で、見たこともない魔力を宿していた。
……正確に語れば、『オーギュストにとっては』、見たことのない魔力を宿していた。
その時にオーギュストは一瞬、ぐらりと視界がゆがんで正気を失った。
そうして彼の口から出てきたのは、彼自身さえ意識しない、『本音』だった。
「どうして君は、そんなふうに何も感じていない様子なんですか。君の名誉が傷つけられ、君を守ると言っておきながら失敗続きの僕に、なぜ怒らないのです? 不当に君を傷つけ、君の意見に耳を貸さないくせに誰から聞いたかもわからない悪評を面白おかしく広める人たちを、憎いとは思わないのですか?」
それは確かにオーギュストが秘めていた毒々しい本音であった。
だが、急に自分がこのようなことを言い出した理由がわからない。それでも言葉は止まらない。
するとアンジェリーナがオーギュストの口を手でふさぎながら、こう述べた。
「闇の魔力を帯びた煙が充満している。吸わん方がいい」
原因はそこにある香炉であり、それはどうやら、魔導具のようだった。
だが、おかしい。
魔導具というのは『魔力を持った人間ができることをできるようになる道具』であり、存在しない魔力とされる闇と光の属性でできることはできない。
代わりに起動する者の魔力属性は問わないというのが便利なところであったが……
「我の闇の魔力に反応し、起動したのかもしれん」
アンジェリーナが語るには、闇と光の属性を持つ魔導具は、それら属性の持ち主が魔力を注がなければ起動しない、ということだった。
オーギュストはアンジェリーナがおかしなことを言うのに慣らされていたし、今回の発言も『そういうもの』だと思いたかった。
だが、自分の身に異変が起きたことが事実だったので、闇の魔力などというおとぎ話について信じざるを得なかった。
けっきょく、この香炉の煙にあてられた生徒がアンジェリーナへの黒い感情を噴出させ、平民の転入生を迷わせた責任をアンジェリーナに押しつけようとしたことが、今回の事件の全容だった。
その生徒への処分をアンジェリーナは望まなかったし、不安にさせてしまった転入生には謝罪した。
世間はまた面白おかしく『離島の悪女』についての噂を広めたが、転入生のエマとは仲良くなることができた。
学園生活は、続いていく。
◆
学園で過ごしていくうちに、アンジェリーナは自分が何か大事なことを忘れているのだという焦燥を感じることが増えてきた。
学園生活で多くの生徒からの評判は相変わらず『悪女』だったが、オーギュストやエマといった友人もできて、その生活は充実していたと言える。
アンジェリーナたちが二年生に進んだちょうどそのぐらいのタイミングで、アンジェリーナの『忘れていたもの』が顕在化する。
それはエマを目指して学園に客として来たバルバロッサの故郷にあたるラカーン王国で、『魔王』を名乗る者が出た……という噂だった。
ラカーンより海を挟んで西にあるドラクロワ王国、その貴族学園においては『遠い異国の話』だったし、ラカーンはお国柄的に精強な兵士がたくさんいるので、『魔王を名乗る不審者は、そのおかしさゆえに話題にあがっただけで、大したこともなく対処されるだろう』という安心感があった。
ところが、そうはならなかった。
……そうならないと、アンジェリーナはわかっていた。
なぜ、自分がそれをわかるのかは、わからない。魔王だという自覚があるからなのか。それとも、記憶にある『欠け』に、大事な何かがあるのか……
ともあれ『魔王出現』を重要視したアンジェリーナは、学園でできた友人たちに協力を求めた。
この『魔王』に対処することこそが自分がここで生きている理由なのだと、そういう気がしたからだ。
アンジェリーナの話を信じ、協力してくれた者たちは多かった。
『悪女』の評判はまだまだ面白おかしく騒がれているが、実際のアンジェリーナと付き合いがある者は、『変なやつだけれど、悪いやつではない』とアンジェリーナのことを評価していたからだ。
武名轟くアルナルディ家の養子たるガブリエルは、最強の騎士と名高い父に連絡をとってくれた。
ガブリエルの父ミカエルはアンジェリーナの人柄をいたく気に入り、協力を承諾してくれた。
規格外たるミカエルを除けば最強とされるヴォルフガング・ロシェルの子であるバスティアンは、実家と折り合いが悪いようだったし、アンジェリーナにたびたびチクリとする苦言を呈する男だった。
だが彼のオーギュストに対する忠誠は本物だったし、アンジェリーナの無茶な要求にも、たびたびため息をつきながら付き合ってくれる。
今回もまたチクリとする苦言を呈し、ため息をつき、『殿下を便利に使おうとするから、悪女だなんだと呼ばれるんですよ』などと言いつつも、仲の悪い実家に協力要請をしてくれた。
バルバロッサは問題が自分の国なので否応もない。
彼の立場は『臨時講師』であったし、実際にその場にいる誰よりも年上で、オーギュストが未だに『次期国王候補』であるのに対して、バルバロッサなどは『次期国王』だ。
その彼が頭を下げて協力を頼み込んだというのも、アンジェリーナの協力要請と同じかそれ以上に、人々の心を動かしたことだろう。
そしてオーギュストは、国王に要請をしてくれた。
ただし、国王を動かすのは難しい。
まだ『魔王』は『隣国から流れてきた噂話』にしかすぎなかったし、それに対し国王が動くというのはいかにも大げさであり、特例的だ。
国家というのは軽々に動いてはならない。王子のわがままで軍を動かしました──などという前例ができては、今後、『悪しきわがまま』で軍を動かそうとする王子が出た場合、参照され、軍を動かす根拠とされかねない。
未来、国家を乱す種を減らすためにも、わがままが通ってはいけないのだ。
ゆえにオーギュストは決断を迫られた。
その決断は、彼一人ではできないものだった。
「いち領地の令嬢のために王子が軍を動かすなどというのは、許されることではない」
この国王の意見に反対するためには、オーギュストが王になり、アンジェリーナが『いち領地の令嬢』でなくなればいい。
だが、そのためには同じく継承権を争う兄であるリシャールに王位をゆずってもらわねばならない。
いや、そちらはどうにかなる。そもそも兄のリシャールは王位継承へのこだわりが薄いし、たびたびオーギュストにゆずる旨の発言をしていた。ここで急に方針転換をしたとしたら、偽物に成り代わられていることを疑うぐらいの事態だ。
だから、何より重要なのは……
「アンジェリーナ、僕は最低のことを言います。……君の提案を呑むための条件の一つとして、君を『王妃』に迎えねばなりません」
アンジェリーナを『国家の重要な立場』に置かねばならない。
空席は、『王妃』しかなかった。
『今の段階では脅威かどうかもわからないもののために、大臣などの位を空けてもらい、そこに実績もない小娘を据える』よりは、『王妃とする』方が、話が早い。
そしてアンジェリーナの様子から、どうにも『魔王』への対処は緊急のものであり、長い時間をかけているうちに取り返しがつかなくなる可能性が高そうだった。
だから、オーギュストは、恥を忍ぶ。
「かつて君との婚約を破棄しました。それは……もちろん、理由があってのことです。けれど今また、あなたを僕の妻に据えようとしなければならない」
「頭を下げて頼み込むべきは、我の方だが」
「……確かにあなたの要請に僕が応えようとしているという現状だけを見れば、そうも思うのでしょう。けれどねアンジェリーナ、僕は……君と学園で過ごすうちに、君に惹かれてしまった。かつて婚約を破棄し、悪評のただ中に突き落とした君のことを、僕はどうやら、愛してしまったのです」
平穏ながらもトラブルだけはたっぷりあった学園生活において、オーギュストはじっくりと自分の心を見つめる余裕を持つことができていた。
王位継承レースは自分が優勢だったし、余計な目的もなく、夜に眠る前、昼食をとっている時、先生には失礼ながら授業の合間など、いつでもアンジェリーナのことを考えている自分に気付くことができたのだ。
この感情が愛と呼ばれるものだと定義するのに、さほど時間は必要なかった。
想いを打ち明けるかどうかは迷った。迷ったというよりも、秘めるつもりだった。
けれど、この婚姻を、利害だけのものだと──
アンジェリーナからの頼み事をどうにかするためだけの、『彼女からお願いされて仕方なくしようとしているもの』だと、そんなふうにふるまうのは、耐えきれなかった。
「僕の方から膝をついてお願い申し上げます。どうか、僕の妃となってはいただけませんか?」
そのプロポーズには花もなく、宝石もない。
喫緊の時だ。演出を用意している時間はなかった。
だけれど、花よりみずみずしく、宝石より輝かしい笑顔が、その告白を飾った。
「……謹んでお受けします」
◆
アンジェリーナの言葉の通りにドラクロワ王国に訪れた『魔王』は、確かに国家をあげねば対抗できぬ強敵だった。
だけれど、国家をあげて挑めば対抗しうる敵ではあった。
何よりも、王家に受け継がれてきた初代王の遺した魔導具の数々が、まるでこの時に備えられていたかのようにシナジーを発揮し、大いなる力となった。
魔王は、倒された。
人は、勝利した。
◆
国難、否、世界の危機を打ち破り、オーギュスト王が正式に即位する。
アンジェリーナ妃との結婚もその時に大々的に発表され、『魔王討伐と新王即位、その王の結婚』が同時に起こった結果、世界は七日間のお祭り騒ぎになった。
その後のオーギュストとアンジェリーナの治世についてどうなるかはわからない。
だが、オーギュスト王は優秀な若き王として人々に期待されたし、悪女という評判を未だにささやく者はいるけれど、アンジェリーナのよくわからない行動力と善意に救われた者も多くいた。
国家には明るい兆しがある。
……いや、『世界』には、明るい兆しがあり……
未来もきっと、変わるのだろうと、彼はこの世界を見下ろしながら思った。
「やったな、親友」
浮島にあって世界を見下ろす者は、嬉しそうにつぶやいた。
そうして複雑な術式に光の魔力を通し、その姿を薄れさせていき……
最初からそこにいなかったかのように、消え失せた。
魔王は何度も繰り返す
これにて完結です
長らくお付き合いありがとうございました!




