第110話 漆黒の夜明けはここに
アンジェリーナという少女が自分を見つめた場合、残念ながら美辞麗句の一つも思い浮かべることができない。
マナーを身につけた。
けれどマナーに気をつけるほどの相手がいるとは思えなかった。
ダンスができた。
けれどいっしょに踊りたいと思える人もいなかった。
王子の婚約者になった。
きっと、自分ののぼるべき場所は『そこ』だと思ったからだ。
オーギュストは完璧だった。
できると述べたことはなんだってできた。できないと判断したこともその通りだった。
いつでも『可能・不可能』を聡く判断し、嘘をつかなかった。
偽装は。
……偽装は、どうだったのだろう。あの王子様はそれさえ完璧だったように思う。
というよりも、たぶん。
偽装どころか、なんの想いも向けられていなかった。
ようやくわかった。
アンジェリーナは━━本来その名前で呼ばれるべきだった少女は、王子様に恋などしていなかった。
恋愛というものを学んではみたけれど、それはどうにも自分の中にある感情とは違うものだった。
『きっと、王妃にならないと、自分は自分にふさわしい居場所にあることができないのだ』という想いが━━
『ここ』が自分の居場所ではないのだという、それだけの、根拠もなく、詳細もよくわからない焦りみたいなものがずっとあって、イライラしていただけで。
自分の居場所だと思えるところに行けるなら、肩書きも権力も重要ではなかったのだろう。
━━お父様もお母様も、きっと『わたくし』を望んではいなかったのでしょうね。
━━『わたくし』は『あなた』が入るための器で、だから宝物のように扱われたのかしら。
━━だからね。
━━『あなた』は、あんな、出会ったばかりの『彼』のために、わたくしがこんな、犠牲になるようなまねをするのを意外に思うようだけれど。
━━権力でも血筋でも家柄でも、肉体でもなくって、『わたくし』を必要としてくれる人が一人でもいたのなら……
━━きっと、わたくしは『こう』できたと思うの。
アンジェリーナという少女は、自分の中で大きくなっていく『あなた』と対話する。
その存在はアンジェリーナが記憶を取り戻した時から感じ取れた。
焦っているくせに。やることを大量に抱えているくせに。この状況を解決したくてたまらないくせに……
『世界の未来』なんていうものを変える目的があるくせに。
アンジェリーナが『彼』と過ごす時間、ずっとずっと、無理やりに縮こまって、存在感を消して、体を返してくれていた。
だから、アンジェリーナは呼びかける。
━━誰にもかえりみられなかった、いない方がいいとさえ思われていたわたくしは、確かに『彼』に惜しまれた。
━━だから、充分です。というか……
━━早く出てきて、『彼』の逃げる時間を作りなさい。
━━わたくし、戦いなんかしたことなくてよ。
━━いるんでしょう? 未来の魔王さん?
◆
曖昧だった自我が確立していく。
混濁していた記憶がよみがえっていく。
何がなんだかわからず、自分でもはっきりしなかった『自分』が蘇ってくる。
滅びた世界から来た魔族の王。
過ごすうちにその記憶はどんどん混濁していき、知らないはずのことを知っているのは妄想なのではないかとか、知っているべきことを知らないから自分の存在はなんなのかとか。
見えてはいけないものが見えているのはなんなんだろうとか。自分が見えているものが人に見えないのはどうしてなんだろうとか。
自分が知ってる世界のことと、みんなが知ってる世界のことが全然違ってどうしたんだろうとか。
存在意義とか。
存在理由とか。
そういうものにさんざん惑わされて、ひたすら自分を探し続けた。
けれど、ようやく、確立できた。
体の主から正式に存在を定義され、魔王はようやく形を持つ。
まあようするに、どういうことかといえば……
願われたからには、叶えよう。
もともと、魔王とは『そういうもの』であることを思い出したので。
◆
だから『魔王』は、己の願望を思考から外す。
『願った誰かの役に立つ』という機能でしかないそれは、人格を持ってしまうとおかしくなる。
手段を選ばず、役に立つ。そういう機能。
だから、夜明けと同時に生まれた惨状は、魔王の機能ゆえのことで━━
惨状の中で誰も死んでいないのは、彼女の意思のたまものだった。
朝焼けよりなおまばゆく燃え盛る炎があった。
真っ赤に輝く左目が見つめた先に炎の渦が立ち上り、それが巻き起こす気流だけで鎧をまとった騎乗兵士を蹴散らしていく。
真っ黒に沈む右目が見つめた先には、ずんぐりむっくりとした男がいた。
全体のシルエットは丸い。しかしそれは脂肪ではなく筋肉によるものだった。
真っ赤な髪に真っ赤な瞳を持つ、鎧姿の初老の男性。
片鎌のついたこのあたりでは珍しい形状の槍を持つその男性は、顔全体のサイズに比して小さめの瞳で、炎の中に立つ少女を見つめていた。
目が、離せなかった。
少女は遠方にいるというのに、まるですぐ耳元でささやくかのように聞こえる声で、述べる。
「『人を喰らうことを禁ずる』」
この領主のただ一点の汚点。
……いや、この時代背景だと汚点でさえない。土着の神が庇護と引き換えに生贄を求めるのはあまりにも当然であり、この領主は領内の人々にとっての神も同然だった。それゆえに半ば以上受け入れられている癖でしかない。
だが、彼女の倫理観にはそぐわない。
だから彼女は一方的に禁じる。
黒い瞳からほとばしる魔力━━魅了の魔眼によって、精神を縛る。
曖昧だった力はその使い方と本来の能力を取り戻した。
強い敵意、警戒をこの少女に向ける者相手にしか発動しなかった力が、ようやく意のままになる。
魔王はその術式が確かに領主の精神に食い込んだのをもって、自己の復活を確信した。
そしてこの魔王のベースとなった人格と倫理観によって、こう結論する。
「……やはり、『魔王』はいてはならんな」
最初に願った誰かの願いを叶える願望器。
世界からの魔力を吸い上げて生まれる魔族の頂点にして、意思を持たぬ力の塊。
……いや、意思を持っていたとしても、それは『願い』にゆがめられ、どれほど本人が望まぬことを願われても、まるでそれを自分の願いであるかのように、無理やりに解釈してしまうようになる。
魔王は何度も繰り返した。
願いによって生まれるたびに、混乱をもたらしたり、平穏をもたらしたり。
けれど混乱をもたらした比率の方が圧倒的に多かった。だからこそ、人は魔族と魔王を廃しようと戦いを始め、結果として世界は滅びかけた。
魔王というシステムがある限りずっと世界が平和にならないのは、彼女も『確かに』と思っている。
だから、初代魔王を否定するために、時を遡った。
それが彼女が魔王として確立した際に根本に刻まれた願い。
それは今、叶う直前まで来ていて、だからあと一手だけでこの魔王の発生理由は成就する。
━━まあ。
それは置いておいて。
「……オーギュスト……どうか無事でいてくれ……」
アンジェリーナは弱々しくうめく。
魔王とか力の塊とか願いとか、そういうものはまあ、それはそれで大事だが……
今の彼女には、それよりも仲間の安否の方が気になる。
だって……
「あそこまでいろいろ駆けずり回ったのだから、オーギュストには王になってほしいぞ……!」
あの時代、あの国で。
彼を王にするという誓いは、まだ続いているのだから。
十七章はここで終了です。
十八章で終わると言ったけど十九章までかかりそうな感じになってきました
続きは今書いてますのでお待ちください。
よいお年を




