第109話 夜明け前の暗闇にて
彼らの暗闇に光が追いすがってきた。
黄金の夜明けが迫って、気付けば領主軍に囲まれていた。
……たかが少女一人逃がしたというだけであまりにも大仰と考える者もいるかもしれない。
実際、彼は一瞬、そう考えたのだ。武装をして馬をいななかせ、山を取り囲む領主軍の威容を樹々の隙間から見た時、『実際に姿を目にしたわけでもないだろうに、そこまで執着するのか』の舌打ちをした。
けれど、冷静になればすぐにわかる。
この軍勢が追ってきたのは『少女一人』ではない。
『領主に召し上げられるはずの少女』と、『それを奪って領外に逃げようとしている盗人』なのだ。
領という枠組みは領主が『その範囲を管理できる』という威信を示すことによって確保され、他領からの侵害を防止できる。
領主に土地と民草を管理する力なしと他領に漏れれば、自領を脅かす軍勢を招いてしまいかねない。
……まだ、この大陸に数々の領を真の意味で従える国家……
ドラクロワ王国は、できていない。
群雄割拠と言うべき時代の中で国主たる領主の権限は強く、そこには勝手に他領に侵攻する権利さえもふくまれている。
すなわち『領主に召し上げられるはずの少女を盗み、他領に逃げようとする者を追う』のは、『国防行為』なのであった。
とはいえ、この規模の軍勢は…………
(このまま他の領地に戦争にでも行くつもりなのかもしれない)
軍事などわからぬ彼ではあったが、大量の人が行軍するには大量の食糧が必要になることはわかる。
そして大量の人を差配するには『計画』が必要であり、そのためには準備時間がいる━━たとえ収穫直後で食糧の用意をすぐにできる状態だったとしても、いくらなんでも迅速すぎる。
……彼らの知らぬことではあるが、彼の想像はおおむね当たっていた。
この時代。
黄金の輝きに呑まれたアンジェリーナたちが飛ばされたこの過去。
いずれドラクロワという王国が生まれる直前の動乱期の入り口にあった。
それは魔物数の減少が理由に他ならない。領主がきちんと領主として仕事をしたがゆえに、領内をおびやかす魔物が減った。魔物が減れば軍事力を中ではなく外に向ける余裕ができた。
そういう、彼らには認識しようのない、どうしようもない大きな流れの入り口に彼らがいた。それだけのことなのだった。
それだけのことで、彼らを取り囲む軍勢は絶望的にふくらんでいた。
もう少しだけ彼が村にい続けたならば、徴兵の呼びかけをする領主軍の声を聞くこともできただろう。
だが、そうはならなかった。
時はもう至ってしまい、じきに訪れる朝焼けは彼らの姿をつまびらかにするだろう。
夜明けはかろうじてまだだった。けれどたくさんのかがり火の明かりが、山の中にいる彼らのもとまで届くほどだった。
鎧のぎらりとしたきらめきは直視すれば目にこびりつく。それらに日の出の明かりが反射した時に彼らを待ち受ける運命はただ一つだった。
すなわち、死。
……ただ二人の逃走劇は、ここに終わってしまうのだ。
「……あの軍団の中を掘り進み、君を連れ出すことができるならよかったのだけれど、僕にはそこまでの力がないんだ。君を守ると誓っておきながらこのていたらくだ。なんとお詫びをしていいかわからないよ」
彼は言う。
スノウは、ふん、とくだらなさそうに鼻を鳴らした。
「わたくしに誓ったことを破るのですか?」
「……そう、なってしまう」
彼の姿はまだ暗い時間の木陰に隠れ、うつむく顔にどのような色合いが浮かんでいるのか、スノウからはうかがい知ることができない。
ただ、
「……君のために命懸けであの軍団に攻めかかれば、万が一……いや、それ以下の可能性だけれど、君を混乱に乗じて逃がすことができるかもしれない」
「それを、わたくしが許さなければならない理由は?」
「……わかってほしい。もう、僕にはそれ以上のやりようがないんだ。だって……」
あの軍勢は。
多数の騎乗動物を並べ、鎧と槍で武装し、戦いにおいて神のごとく崇められる領主に率いられたあの軍勢は━━
猟師一人で、どうにかなるものではない。
この上なくはっきりした『現実』だった。予測してしかるべき夢の終わりなのだった。
人数差、訓練差、武装差。騎乗動物による脚の速さ。こちらがたった二人であることに対してあちらは百をゆうに超える軍勢だ。『目』の数がそもそも違う。万が一ここを超えられたとして他領はまだ遠い。
子供でもわかる『詰み』の盤面。
けれど、スノウは怒る。
「どうにかなさい」
「……どうにか、と言われても」
「わたくしの言うことが聞けないのですか?」
「……スノウ、この状況は……」
どうにかできるなら、もちろん、したい。
あの軍勢を蹴散らして少女を救う。なんと甘美な英雄譚なのだろう! ……だが、自分に英雄の資質がないことを彼はよく理解している。
むしろ英雄と呼ぶべきは、自分たちをこうして包囲している領主の方なのだった。
あの無双の豪傑は、『少女を喰らう』というただ一点を除けば、優れた為政者であり、勇猛なる兵であり、公明正大で愛される君主なのだから。
そのきらびやかさの中にあるただ一点だけが、彼らに逃亡を選ばせた。
スノウはいらだったため息をついた。
「……本当にどうしようもありませんのね」
「……すまない」
「わたくしに誓ったことを破るなどと……なんと無責任なのかしら。このわたくしをいらだたせたこと、万死に値する罪ですわ」
「……本当に、すまない」
「どうしてできもしないことを誓ったのかしら。わたくしがここまで、野宿だなんていう屈辱的な仕打ちを耐えてきたのは、あなたが誓ったからなのですよ。それを……」
「……」
「……あなたも、わたくしに嘘をつくのですね」
……それが。
たくさんの不機嫌と罵倒の最後にぼろりとこぼれたそれこそが、スノウの怒りや不満の原因であることを、彼は理解させられてしまった。
嘘をついたつもりはなかった。
本気だった。
でも、結果的に嘘になった。
どうしようもないことだった。
でも、誓いを破ることだけは、事実だった。
聞き分けのない子供。
スノウの性質はまさにそれだ。相手の事情や力量、状況を考えて配慮したり斟酌することができない。
言われた言葉をそのまま受け取り、いかなる事情があれども、嘘をつかれれば『嘘をつかれた!』とわめく、あまりにも聞き分けがなく、わがままな子供。
だというのに、彼は、スノウを嫌いになれなかった。
彼女の傷ついた顔を見てしまって、本当に申し訳ないと思ったのだ。
……だから、なのかもしれない。
「でも、努力は認めますわ」
「……」
「ねぇ、あなた。わたくし、きっと世間を知りませんの。嘘をつかない人は、今までに一人しか知りませんでしたの。自分で放った言葉を嘘にしないでいられる人は……とても、優れたかた、なのですね」
「……そう、だね」
望んで嘘をつきたいと思ったことなど、一度もない。
どんなに他愛ない約束でも、どんなに不可能と思われる誓いでも、守り抜くことができたらどんなによかったか。
けれど、人生は細かい嘘を重ね続ける旅路なのだ。
二人で歩んだ安らかな夜が永遠に続けばいいと願っていた。
けれど願いは叶わない。なぜなら彼に、『英雄の率いる武装の整った軍勢』を一人で蹴散らす力がないからだ。
……どうしようもないのは事実だけれど。
思えば昔から、どうしようもない嘘を……偽装をされて、彼は家族を失った。自分が知っていてもどうしようもなかった情報を秘匿されて、何かをしようと思うことすらできず、彼は家族を失ったのだ。
「『君を殺して僕も死ぬ』と言えば、君はそれを許してくれるかな」
「許しませんわ」
「『嘘をついた償いに、僕が死ぬ』と言えば、君の溜飲は下がるかな」
「そんなことをされても、わたくしの怒りはしずまりません」
「……どうすれば、僕は君に許されるだろう。君に偽装を働いた罪を償えるのだろう」
「もう結構です」
「……」
「あなたの顔など見たくもありません。どこへなりと立ち去りなさい」
「……君は?」
「山のふもとに迎えが来ているでしょう?」
その事実の意味するところを理解していない━━というわけでは、なさそうだった。
つまり、それは。
「それじゃあ……それじゃあ、あべこべじゃないか! ぼ、僕が君を逃がして……君のために死のうと……!」
それは、スノウが領主軍のもとへ行き、引き付け、彼を逃す……『どこへなりと立ち去らせる』という、ことだった。
スノウは赤い瞳を細めて冷酷につぶやく。
「そのような想いは迷惑です。わたくしは嘘が嫌い。嘘つきも嫌い。実行する力がないのなら大言壮語を吐かないほうがよろしくてよ」
「……!」
「けれどね」
「……」
「わたくしに嘘をつかないよう努力する姿は好ましく思いました。あなたは……述べたことを残らず実行できて、口にした言葉を嘘にしないだけの才覚を持った……王子様ではなかったけれど……きっと、友ではあったのだと思います」
「……僕なんかが、友でいいのかな」
「わたくしも『友』というものを知りませんけれど、きっとそういうのを『友』と呼ぶのではなくて?」
「ねぇ、スノウ」
「なにかしら」
「君、記憶が戻っているんだろう?」
少しでも彼女の行動を引き伸ばしたくて、彼は問いかけた。
スノウは、答えた。
「ええ」
「……領主の娘、ということは……」
「ありません。わたくしのお父様は、あのような筋肉卵ではないのです」
「……『筋肉卵』」
「ですから、ご心配なく。わたくしは貴族です。それも、大貴族の正統後継者。魔力量には自信があります。あの程度の軍勢など、一人で蹴散らしてみせましょう」
「……だったら、僕も」
「わたくしは、あなたに、『立ち去りなさい』と言いました」
つまり、それは。
……彼は、スノウが嘘をついたことを察してしまった。
一人で蹴散らせる、だなんて。
そんな嘘をついてまで自分を逃がそうとしていることを、察してしまったのだ。
でも。
彼女の手の細かな震えを指摘するのが野暮であるというのも、わかった。
嘘が嫌いなこの少女は、これまできっと、正直すぎるほど正直に生きてきたのだろう。
その彼女が震えながら嘘をつくのだ。……自分のために、嘘をついているのだ。
野暮を働いて二人とも生き残れるならいくらでもそうする。けれど、目の前の現実が『どうしようもないもの』であることは、何度だって確認して、何度だってそれ以外の結論には至れない真実なのだ。
ならば、あと、自分にできるのは━━
この『友情』に報いて、生き延びることしか、ない。
「……最後に、君の本当の名を聞いてもいいかな」
彼は声が震えないように注意しながら問いかけた。
彼女は大きな胸を突き出すようにして、ふわふわした銀髪をかきあげ、艶然と赤い瞳を細め、答えた。
「わたくしの名は、アンジェリーナ・クリスティアナ=オールドリッチ。わけのわからないものに人生を乗っ取られ、けれど今ここに自分を取り戻した━━」
世界の命運だの未来だのなど背負っていない、ただ、あの時代を生きて、あの時代に死んだはずの、この肉体の本来の持ち主。
すべての人から嫌われた、嘘を嫌いすぎた、正直すぎた、令嬢━━
「━━きっと、夜明けには覚める、夢のようなものですわ」
朝焼けが、彼女の姿を照らす。
夢は終わろうとしていた。




