第107話 『彼』
『領主の愛人』というのはこの大陸において広くさまざまな村暮らしの少女が夢見る『理想の職業』ではあった。
何せ領主の寵愛を受けられれば働かずに贅沢な暮らしができるのだ。村の手伝いで手指をボロボロにし、麦の収穫で腰が曲がったまま伸びなくなりながら歳を重ね、そのあたりにいるパッとせず金もない男の横で、二人か三人の子を産むことを望まれながら老人たちの世話をして生きていく━━そんな暮らしより、よほどいいに決まっていた。
ただしそれは、領主がまともに『愛人』として扱う気があればの話だ。
このあたりの領主は『雪男』とあだ名されていた。
大柄でずんぐりむっくりした体つきの老年に差し掛かろうかという男性であり、『特定の性質』を持つ人物以外には公明正大で優しく、たとえば魔物を狩った時などはそれを配るようなサービス精神もある。
その大きな肉体を躍動させながら魔物と戦う姿には憧れる男も多い。実際、多くの魔物をその身一つで狩り、その領主軍に所属することが農村暮らしの男の子の夢として語られるほどの人物だった。
まさしく神のような━━たとえば山で迷った者に帰り道を示す雪の精霊とか、あるいは凍川の前で水を求めて立ち尽くす人の横に立ち凍りついた川を溶かして用水をもたらすような、そういう存在と思われている。
そして、多くの精霊や神がそうであるように、領主は生贄を求めた。
このあたりの地域で言われる『雪男』とは、村から離れた雪深い森などで暮らし、外敵を退け力仕事を手伝う代わりに……
幼い少女を喰らう神である。
比喩ではなく。
喰らう、神である。
……地方分権の強いこの時代、特に行き来に不便な雪深い土地の領主は、そのまま神のごとく扱われた。
時代が降って各領地の情報を王家が管理するようになり、領主たちが横暴を働かないように監視体制が敷かれたあとには『王国の法』『王国の倫理』によって裁かれる。
だが、この時代……領主の支配権の強い時代において、領主の決定が『法』であり、領主の感覚が『倫理』であり、それに逆らう者こそが『悪』だった。
すなわち、スノウを領主に隠したがった彼は『悪』であり━━
スノウの身柄を求める領主が『正義』である。
狂った時代、とのちに言う。
けれど今、この時代を生きる人は、その『狂い』の中にいる。
それが、彼らをとりまく『現実』だった。
◆
はっきりと自覚した。
彼は、はっきりと自覚したのだ。
スノウを渡したくない。死なせたくない。
この村はスノウという生贄を捧げて豊かになる。村にはたくさんの知り合いがいる。家族みたいに接してきた。恨みはない。姉が自ら『減らされる』ことを選んで、両親がそれで心身を持ち崩して大怪我をして『減らされて』、それでも村人を恨んだことはなかった。
『弱者は生きていけないのだ。それが自然の摂理だ』なんて気取った言い回しを選ぶつもりはなかった。ただ、受け入れただけだ。
より多くの大事な者が生きるのに、少数を減らすのは、悲しいが、仕方ない。それだけのことだと割り切るのに時間はかからなかった。
割り切るのに時間はかからなかった、と、思っていた。
けれど、全然、割り切れてなかった。
彼は気付いてしまった。はっきりと自覚してしまった。
スノウを死なせたくないのは、『代替』だ。
幼すぎて姉を守れなかった代わりに誰かを守りたいだけだった。
受け入れ難い不幸をただ受け入れるしかなく、家族が減っていく中でただぼんやりと生きる以上のことができなかったあの日の後悔が、『今度こそ、自分は、自分の意思で選択できるだけの力と自意識がある』と訴えかけてくるだけなのだ。
そこにスノウの人格は関係ない。
彼女だから守りたいのではない。『そういう状況にいる彼女』だから、守りたい。
……けれど、けっきょくのところ、選択権は彼にはなかった。
すべてを選ぶのはスノウなのだ。
……もしもスノウに何も言わずに、『領主様に見染められたのね』なんて、情報を伏せられているせいで無邪気に喜ぶ彼女をいきなりさらったりしたら、それは、村長と同じやり口だ。
……ああ、白状することが増えてしまった。
恨んでない。しょうがないことだった。村という種が生き残るために当然すべき選択をしただけだった。
彼はそう思っていたはずだけれど━━
━━どれほどの苦境でも、決して自分の身と身内だけは切ろうとしないあの村長のことが、本当は、めちゃくちゃ、嫌いだったらしい。
だから彼は、『雪男』のことをスノウに明かした。
『信じられない』と言われる覚悟をした。
彼女に不安と恐怖を与えるだけに終わってしまう可能性は高かった。
そもそも、この高飛車な『お嬢様』は自分の発言に重要な価値なんか見出さないだろうとも思っていた。
彼は自分が従者としてしか見られていないと思っていた。世話をしてはいるが名前を呼ばれたこともない。そもそも彼女は村人たちの名前を覚えている様子もなく、自分もそんな、『彼女にとってのその他大勢』の一人だろうと思っていた。
けれど、打ち明けた夜、彼女は微笑んだ。
「ならばわたくしを守りなさい、━━━━」
彼女は彼の名を呼び、彼を信じた。
たったそれだけのことが、彼女を守る理由になった。
『そういう状況にいる彼女』ではなく、『スノウ』を守る理由に、なったのだ。
……果たしたい誓いが、できたんだ。
本当に、果たしたい誓いになったんだ。