第106話 『スノウ』
これから始まるのは幸福な話であり、これから終わるのは話の中に確かに存在した『彼女』の幸福だ。
とある寒村の近くで目覚めた彼女は、それまでの記憶をすっかり失っていた。
ただ性分というのか、気性というのか、そういうパーソナリティは確かに残っていて、自分がよくわからない平原に放り出されている現状にはいたくいらだったし、怒ってそのへんに積もった雪を蹴飛ばしたりもした。
「どうして、わたくしがこんな目に遭っているんですの!? 誰か! 誰か!?」
彼女がストレスの高い事態に直面した時には、どうにも習慣的にこんなふうにしていたらしい。
甲高い声で叫びながら『あたるべき誰か』を呼び、誰も来ないとますますイライラしてしまう。
しかし『大きな声を出す』という行為は彼女を救った。
雪の降りしきる中で半ば遭難状態だった彼女は、雪崩や魔物などの自然災害に襲われる前に、発見されたのだ。
それが彼の『彼女』の出会いだった。
◆
『彼女』は記憶こそなかったが所作が美しく、きっといいところの生まれなのだろうと予想された。
しかし彼女が村人たちから『お嬢様』と呼ばれるようになったのは、その所作が美しいことより、言葉遣いがいかにもな風であるというより、むしろその高飛車さやわがままさのせいだった。
「スノウ、君はもう少し、人に優しく接しておくれよ。君はかわいいんだから、そうしたら村の人たちもきっと、もっと君に優しくなるはずだよ」
「またわたくしを子供扱いして! わたくしは立派なレディです!」
「いや、僕が言いたいのはそういうことではなくって……」
しかしスノウと名付けられた少女は、こうなるともう、人の話を聞かなくなってしまう。
彼は怒鳴り散らすスノウに微笑みかけ、「わかった、わかった、悪かったよ……」とひたすら謝り、なだめる。
スノウという少女は小柄で童顔で、一見すると十一、二歳といった具合の見た目をしている。
白い肌とふわふわした銀髪は雪の精霊のようだった。気が強そうな赤い瞳のせいもあって、村の老人の中には『このあたりに昔いらしたという神様が降臨なさった』などと、あながち冗談でもないふうに言っている者もいる。
確かにスノウは女神のようだ。
その美しさも、その振る舞いも、とてもこのあたりで生まれ育った村娘とは思えなかった。
わがままで高飛車だが、どこか愛嬌があって、それは村人たちに愛されていた。
これ以上優しくしてもらう必要なんかないだろうというぐらい、よそ者に厳しい村人たちに受け入れられていた。
だが、それも今年の冬が豊かだからだ。
領主様が大きな魔物を狩ったとかで肉の大盤振る舞いがあり、この冬は村に肉も酒もたくさんあった。
それが村人たちをおおらかにさせ、余所者を受け入れさせた。
……だが、彼は貧しくなれば人の心からおおらかさが奪われることも知っている。
昨日まで笑い合っていた人が、貧しさというものを理由にして不意に見せる残酷な表情を知っていたのだ。
……加えて。
領主のもたらした肉が、本当に久しぶりの、近年ではもうほとんど見られなくなった、大型の魔物のものであることも、知っていた。
スノウはきっと許されなくなる。
貧しさの苦しさを村人たちが思い出す前に態度を改めないといけないだろうと、ほとんど彼だけが危機感を抱いていた。
……彼がスノウという出会ったばかりの少女にこれほどまで親身になるのは、『拾ったのが自分だから』というだけの理由ではなかった。
彼の姉は大怪我がもとで『減らされた』のだ。
両親もまた、同じ目に遭ったのだ。
だから村人たちを恨む━━ということはない。それは仕方のない、自然の摂理みたいなものだと理解している。
人は生きようとする。生きるためには食べねばならない。食べねばならないが食料は無限ではない。だから、食べられないなら、稼げない者から『減らして』いく。
人はそうやって生き延びるべきを生き延びさせ、生存し、増え、豊かになろうと努力する生き物だ。
彼は生物のサイクル、種としての総体というものを俯瞰して見るところがあった。
それは彼の家が猟師であり、獲物の生活サイクル、減らしすぎないための方法、何をどう残せば種はどういう行動をとるかなどの知識を幼いころから叩き込まれ続けていたからかもしれない。
……もっとも、彼は獲物を狩る方法よりも、そのオマケに教わった薬草知識の方に夢中で、できることなら薬師一本でやっていきたいと思っているのだけれど。
……とにかく彼は、この村が『種』としてスノウを切り捨てるような状況になる前に、スノウには自分が『村という種』にとって役立つと示してほしいと思っていた。
……何より、スノウはとても美しかった。
だから、彼女がもしもこのまま『村人』として受け入れられないなら、彼女を待つ道は、同じように美しかった姉が拒絶し死を選んだ道しか残されていない……
彼は、スノウにあのような決断をしてほしくなかったのだ。
だから彼はスノウを家にかくまうようにしながら、彼女の世話をして過ごした。
スノウは世話され慣れている様子があって、彼の世話を普通に受け入れた。その代わり、彼が『自分でやって』と言うと怒り、嘆き、『なぜそんなことをしなければならないのか、理解できない』という様子を見せる。
世話され慣れている、というか。
世話をされない状態がまるで生物として受け入れ難い屈辱であるかのように、感性が出来上がっている。
そしてスノウは『自分を変える』ことを決してしようとしなかった。
彼の苦労は身を結ばず……
雪深い季節が終わり、麦を刈る時期が訪れる。
収穫した麦の量を見るために徴税官が現れて━━
スノウが見つかった。
「美しい少女だ。領主様にご報告するが、かまわんな」
村長は喜んだ。
あるいは『これ』を期待してスノウを留めおくことを許したのかもしれない。
……脚をなくし、一人では動けなくなった姉が生き残るために示された道。
選ばずに『減らされる』ことを選んだ道。
それこそが領主の愛人という道で……
今、スノウの前に開かれた道だった。