103話 うねり
『空飛ぶ船』━━
「もはや俺はこの船のオーナーではない。貴様が名をつけてやるといい」
そう述べられたアンジェリーナは『このタイミングでそんなこと言われても……』と思った。
というのもアンジェリーナは命名が得意ではない。『魔王』としても他者に命名することはまずなかったし、アンジェリーナとしても人に名前を授ける機会などなかったのだ。
「オーギュスト、なにかないか?」
だから丸投げした。
するとオーギュストは『えぇ……』という顔で苦笑してから、
「では『流星号』とでもしますか。素早く駆け、願いを叶えなければなりませんからね。これよりふさわしい名前もないかと」
流れ星というのは『誰かが願いを叶えた時に流れるもの』とされていた。身の丈に合わぬ大望、あるいは積年のたゆまぬ努力の結実が成った時に、空が祝福のために落とすものとされていたのだ。
この未曾有の危機を前にすれば縁起のよい名であることは事実だろう。
人を乗せて流星号は空に発つ。
時刻は夜明け前より少しだけ早い時間だった。
◆
そのころラカーン王国を完全制圧した『魔王軍』は、ようやくドラクロワ王国へとそのきっさきを向けていた。
また、ドラクロワ王国でもラカーンより攻め寄せる魔王軍に対し防備を固めつつあった。
なかなか納得しない貴族や王族を説得し、『軍を展開する許可』を得ることができたのは、『最強の騎士』ミカエルや次席と言われるウォルフガングの力が大きかっただろう。
……それでも、あくまで『軍を展開する許可』だ。
ドラクロワ王国には数多くの貴族がいる。領主貴族たちは自分たちの領地に隣接する貴族が軍を展開しようとすれば当然ながら警戒し、下手をすれば王宮に『謀反の意思あり』などとみなされてしまう危険性もあった。
そこをどうにか許可を得て、いちおう近隣諸侯を納得させるにいたったのだ。
いまだに地上において『魔王軍』を恐れる者は少なかった。
勇猛ではなく無知であった。傲慢ではなく常識的なのであった。
これまでまったく観測されていなかった脅威がいきなり出てきて、しかもそれがラカーン王国を滅ぼしたというのも規模が大きすぎて信じがたい。
実際に難民を受け入れたクリスティアナ=オールドリッチや現場を見たミカエル個人などは『魔王軍』の脅威を肌で感じていた。しかし、多くの貴族はそうではない。
また、『最強の騎士』という称号が悪い方向に作用したのもある。『あのミカエル』が全力の警戒をもって軍を率いて備えているのだから、まず負けることはなかろうという安心……弛緩もある。
リシャールを失ったと言われてもなお、だ。
……『預言者』は死んだとされた。オーギュストは父宛に細かな事情を記した手紙を出したけれど、王宮の公式発表においては『死んだ』ということになったのだ。
実際のところ、リシャールの動きは公表するにはあまりにも複雑だ。敵なのか味方なのか、その真の目的はなんなのか……現場で実際に言葉を交わしたのでもなければ、なにもかもが作り話っぽすぎる。
そもそもリシャールの行動はそのすべてがどこか現実的ではない。だからこそ彼は『預言者』というイメージを作って説明を省いても行動できるようにしていたのだ。
その彼の行動を彼以外の口から語ると混乱を招くことは想像にかたくない。なので無用な混乱を避けるためにリシャールは『魔王軍に殺された』ということになった。
それでもなお、ドラクロワ王国は一丸にならない。
魔王軍を名乗る『軍勢』はラカーン王国の東から来た『人の勢力』と思われたのだ。すなわち、『人類の殲滅』などという馬鹿げた目的ではなく、侵略し土地と人をとるために西へ軍を進めているのだという見方をされたわけである。
ラカーン王国をあの短い期間で『侵略』してしまえた軍勢と正面からぶつからず、『交渉』をしようとする貴族が出てもしかたがないことであった。
滅亡の脅威を前に、人類は一つになれなかった。
そもそも、『滅亡の脅威』というものを信用できない。どこかで『自分がうまく立ち回れるなら、自分はその脅威から守られる』と思ってしまう。
まさか『脅威』のほうが念入りに人すべてを滅ぼして魔族に置換しようなどという意思で行動しているとは、想像さえ及ばない。及ばないのが、当たり前なのだ。
それが、
人の世界が滅びた原因だった。
◆
流星号は安定して空を泳いでいた。
無論、各々が全力で取り組まねば操船ままならぬ船である。
しかし船に集うは才人ばかり。亡国たるラカーンの最後の王であるバルバロッサ。その卒のないことで人口に膾炙するドラクロワ第二王子オーギュスト。『最強の騎士』が引き取った義理の息子たるガブリエルに、あの名高き騎士家ロシェルの名代となった魔術師バスティアン……
そして悪名高き『傾国の毒婦』アンジェリーナに……
「あの、事情はさっぱりわかっていないんですけど、とにかくお久しぶりです、アンジェリーナ……様?」
四属性を持つ平民、エマ。
本当に久々だった。
そのピンクのふわふわした髪も、小動物を思わせる雰囲気も、くりっとしてどこか落ち着きなく周囲を見回す瞳も、アンジェリーナよりは大きいとはいえそれでも低めの身長も、なにもかもが懐かしい。
舳先から船を振り返るアンジェリーナは、明るくなり始めた空を背負ってそこに立つエマをじっと見ていた。
空飛ぶ船の上、手をこまねくようにしながらそこにたたずむ少女は、はっきり言ってしまえばいきなり『ちょっと空飛ぶ島に行くので手を貸してくれないか』と呼びかけたところで来る動機の薄い、なぜここにいるのかわからないような、そのぐらいの付き合いの少女であったはずだ。
少なくとも問題の中心にかかわり続けたオーギュストやアンジェリーナ、それにオーギュスト臣下たるガブリエルやバスティアンのように、こんな明らかに危険な場所にいるべきではない存在である。
だというのに、とても、なじんでいた。
ここにいるのが本当に自然に思える。まるで最初から、この空飛ぶ船での旅路には彼女がいるべきだと運命で定まっていたような、それほどの自然さ。
むしろ彼女とその背後でバタバタ動く男どもを見ていると、自分がいるのが間違いなのではないかと、そんなふうに思ってしまうほどの『ぴたり』と合う感じがエマにはあった。
「慌ただしくてすまん。まともな説明もなかったとは思うが、よくここに来てくれた」
四属性を扱うことのできる存在というのが操船に必須だというのは、リシャールがこぼしていたことだった。
アンジェリーナはその言葉に従って、別れ際にリシャールが口にした人材を集めたにすぎない。
……だが、アンジェリーナ自身も島から出て直接人々のところに出向けるほどには時間がなかったし、手紙は信用できる者に急ぎで届けさせたとはいえ、満足な説明を記すことはできなかった。
それでも『危ない』ということぐらいはわかっていたはずなのに、エマはここまで来てくれたのだ。
感謝している。感謝はしているが……
「しかし、なぜ来た?」
「えっ、呼ばれたから……」
「いや、本当にありがたいのだが、もう少しごねたりためらったりされるものと思っていたのだ」
「アンジェリーナ……様? が力を貸してほしいとおっしゃっていたので……あれ? 私、アンジェリーナ様のことをなんてお呼びしてましたっけ?」
「うむ……こう、いろいろありすぎて、以前にどう話していたか、我のほうもちょっと思い出せない」
つまり、その程度の縁なのだ。
ほんのちょっと学園でトラブルがあって、その時に解決を手伝っただけ。特別な友情と言えるほどのものが『ある』と言っていいかどうか……いや、クッキーなどで餌付けはしたと思うのだけれど。
でも、来た。
だからアンジェリーナは『ありがたいが、なんで?』と思ってしまうのだ。
しかしエマのほうも似たような心境らしい。彼女もたっぷり首をかしげて悩み、そして、
「……おかしな話になりますけど」
「かまわん。我とておかしな話しかしていない」
「お手紙をいただいた時に、『ああ、ついに来た』みたいに思ったんです。……なんだか学園の貴族の人たちが慌ただしくなって、けっこうな数の方々が実家に帰ったりっていう動きはあったにせよ、私自身は事態を全然把握できてなかったんですけど……なんだか、こうして空を旅することは、わかっていたような……そういう気がするんです」
「ふむ……『前の周回』の記憶などはあるのか?」
「ええと……ない、のかな? 『前の周回』と言われてもなんの話かわからないぐらいで……」
「……まあ、感謝しかないのだが」
「……なんだか不思議な気持ちです。アンジェリーナ様のこと、最初はちょっとこわいと思ってましたし……いえ、小さくてかわいらしいかただと思うんですけど、なんだろう……あれ? 最初は思ってなかったのかな……」
エマは言葉にしようとすればするほど混乱を深めていくようだった。
アンジェリーナもだんだんわけがわからなくなってきている。なんというか、記憶が混濁するというのか、混線するというのか……
「お二人とも、お話中失礼します。前方をごらんください」
エマの背後から歩いてきたオーギュストが手で示すので、アンジェリーナは背後を振り返った。
すると、そこには……
空飛ぶ島が、あった。
それは雲に隠れてはいたけれど、ここまで近づくと薄い雲の向こうにたしかに『ある』のがわかる。
想像していたよりずっと巨大な、ごつごつした円錐形の浮遊物体だ。
「……平地部分だけでもクリスティアナ島ほどあるか? これは、想像よりかなり……」
「ともかく、これで兄さんの話はとりあえず真実だと証明されましたね。問題は、そこに本当に『魔王』を倒すためのものがあるかどうかですが」
隣に来たオーギュストがアンジェリーナの肩に上着をかける。
上空は冷える。とはいえ空を駆ける船の完成品第一号であるはずの『流星号』は、いちおう、空の寒さについても対策はされていた。甲板を覆うように寒さと風を遮る結界を張るようになっているのだ。……まあ、風のすべてを遮らないし、ここまで上空へのぼることは想像されていなかったので、それでもだいぶ寒いけれど。
アンジェリーナはちらりとオーギュストを見た。
彼は青い瞳を細めて微笑み、視線を浮島に戻す。
アンジェリーナは小さく「すまん」とだけ述べて、オーギュストと同じ方向を見た。
「……話によれば、あの島は魔王滅殺光線を放つということだが……」
「確かにそうなんですけど、言い方がちょっとこう……いえ、魔王滅殺かどうかはわかりませんけどね?」
「たしかにあらゆる生命を滅殺する可能性もあるな」
「いえ、だから……滅殺とは限らないとも思いますけど」
「しかし滅殺の他にどういう用途で光線を放つというのだ。こんな高所からピンポイントで滅殺光線を放てる兵器ならば、たしかに魔王にも及ぶとは思う。というより、それ以外で魔王に及ばぬと思う」
「うーん、もっとこう、なんというか……情緒……いえ、そんなこと言ってる場合ではないですね。僕が間違えていました」
「見ろ、雲がだんだん開いていくぞ」
アンジェリーナが指差す先で、空飛ぶ島を覆い隠していた薄い雲が、まるで門のように左右に開き始めていた。
だんだんとあらわになるその島の偉容。
……筆舌に尽くしがたい。それとも、無意識のうちに岩肌と台地で構成されているという想像があったから言語に絶したののだろうか?
その島は、金属でできていた。
尋常な金属かどうかはわからない。しかし、明け始めた朝の輝きを受けて銀色にきらめくそれは、馬上槍の穂先を超巨大にしたかのような、硬質で鋭い物体なのだ。
あのまま直下に向けて落下し、その鋭い先端を突きつけることが目的であるかのようなデザイン。
『光線を放つ』という話から、もっと魔術の杖のような柔らかで歴史あるものを想像していたのだけれど、あれではまるで鍛造したての槍の穂先、あるいは金属で補強した船……
「とにかく接舷を━━」
あまりに不可思議で呑まれかけていたところに、オーギュストの声がかかる。
しかし、その声は途中で途切れざるを得なかった。
「背後より攻撃確認!」
ガブリエルの声が響いたのとほぼ同時、船の真横を太い純白の光がかすめる。
船がぐらぐらと揺れてアンジェリーナが放り出されそうになるのを、オーギュストが抱き止めた。
全員が背後を見やる。
そこにいたのは、黒い点々━━
翼を生やして追いすがる、魔族の、群れ。
しかも、その先頭には『魔王』がいる。
「カシムッ!」
バルバロッサが叫びながら船の後方に走って行く。
しかし、走って船の縁まで行くので精一杯だ。
この船には武装がない。砲などが最初はあったのだけれど、高くまで飛翔するために重いものは可能な限り降ろしていたのだ。
「バルバロッサ! 速度を上げて振り切りましょう! あの数と空戦などしても撃沈されるだけです!」
そもそも『空を飛ぶものとの戦い』のノウハウがこの世界にはなかった。
幸いにも彼我の速度差はそこまでではない。追いすがる魔王の軍勢のほうが速いけれど、少なくとも今のペースであれば追いつかれる前に空飛ぶ島にたどりつくことはできそうに思えた。
『今のペースのまま』であれば。
その時、魔王カシムの背後から槍を構えて先頭へ出てくる。
その人物は不気味な姿をしていた。黒い甲冑をまとった上半身は人間。しかし、下半身は馬であり、その馬の胴体にはカラスのような色合いの大きな翼が生えており、それで飛翔しているのだ。
その人物は槍を脇に挟むようにして前傾姿勢になる。
すると、その穂先から、空を飛ぶ魔王軍全体を包み込むように、『輝く風』が発生し始めた。
それは。
その戦技は━━
「…………父上?」
バスティアンが信じられないという様子でつぶやいた。
ウォルフガング・ラ・ロシェル。その輝く風をまとい全軍を強化する戦技━━騎士として研鑽を続けたすえに至ることができる魔術によらぬ魔道の技術。生き様そのものが出る戦技は同じことができる者が一人としていない。ゆえにこそ、なによりも強い『その人がその人である証明』になる。
魔王がここに来た理由がわかってしまう。
連中はオーギュストたちが地上を発ってからの短いあいだで、流星号の行き先についてくわしい情報を持った者を『仲間』にしたのだろう。
その航路について知っている者は少ない。すなわち集めた情報をもとに『空飛ぶ島』のおおよその位置を割り出した、エレノーラ・クリスティアナ=オールドリッチ……アンジェリーナの母親ぐらいしか、地上には残っておらず……
こういう時でさえ冷静に思考できてしまうオーギュストは、リシャールが情報を漏らしたのではないことだけを理解してしまう。
なぜならリシャールが情報を漏らしたのであれば、連中はもっと早くに現れることができたからだ。
港町に攻め寄せていた魔王軍の不自然な撤退と合わせて考えれば、兄はずいぶん長く時間を稼いでくれたのだろう。それだけが、『良い事実』としてオーギュストに認識された。
だが、そんなものは慰めにもならない。リシャールが情報を漏らしていないのに連中がこうも正確に背後に現れた。しかも防衛にあたっていたウォルフガングさえ引き入れている。それはすなわち、とっくに地上は壊滅、よくても半壊しているということに他ならないのだから。
輝く風をまとった魔王軍は急加速をしてぐんぐん迫ってくる。
しかも純白の光線も次々に撃ち出される。
命中弾も出始めた。そのたび船がぐらぐらと揺れて、放り出されそうになる。
甲板に両手足をついてへばりつくようにする。攻撃は距離減衰があるのかまだ船体に穴を開けはしないけれど、それもこのまま距離を縮められればどうなるかわからない。
「全力で加速を! とにかく島に着陸しないと!」
オーギュストが叫び、流星号に魔力が回される。
全員が全員で役割を果たそうと歯を食いしばる。
しかし、協力して魔を祓うにはここには人が少なすぎた。
直撃弾がついに船体に穴を空け、マストを消しとばす。
船は激しく揺れ、高度を下げていく。
その時━━
島の台地から、光が降り注ぎ、流星号を照らした。
アンジェリーナも、オーギュストも、他の全員さえも、光の中に溶けて消えていった。