100話 茜差す
カシムが純魔力を照射し、それが噴出する砂の壁に削られ消えていく。
ただの魔術で純魔力を受けることはできない。
ということは、あの砂の障壁は、砂のように見える……リシャールが操りやすいイメージに変換された、純魔力なのだろう。
魔王と魔族の戦い。
人ではありえないほどの魔力のぶつかりあい。
それが、遠ざかっていく。
「リシャール! おい、リシャール!」
船の縁を握りつぶさんばかりに握って、バルバロッサが叫ぶ。
けれど船は土砂に持ち上げられ、運ばれ、どんどんリシャールから遠ざかっていく。
すでに高度も相当なものになっていて、このまま空までのぼってしまうのではないか、という様子だった。
バルバロッサは高度と距離のせいでいよいよあきらめたらしく、最後に「くそ!」と船を拳で叩いて、荒く息をつき、灰褐色の瞳を大きな手で覆った。
「あいつめ! 殿の栄誉を俺から奪いおったな!」
あのままリシャールが魔王カシムを倒し、世界は出現した危機を回避した━━となれば、どれほどいいだろう。
しかしきっと、そうはならない。
あのリシャールでさえも、カシムを前には時間稼ぎの足どめぐらいが精一杯で……
それはきっと、命を懸けることに、なるのだろう。
「ああするしか、なかったのだ」
バルバロッサは目もとを覆う手をどかすと、静かにつぶやいた。
灰褐色の瞳はアンジェリーナのほうを見てはいたけれど、言葉にはどこか、独白の響きがある。
「この船をクリスティアナ島まで運ぶには、ああするしかなかった。あいつが命を懸ける以外になかった。それこそが『予言者』の見た未来なのだろう。……憤懣やるかたないが、俺の理性はあいつの行動を賞賛している。だが……」
そこでいったん言葉を切って、
「……すまなかったアンジェリーナ。この俺よりも、オーギュストの……リシャールの弟の婚約者たる貴様のほうが、嘆くべきであったのだ。感情のままに取り乱したこと、深くお詫び申し上げる。貴様の嘆く機会を奪った罪、いかように裁かれても文句は言わぬ」
「いや」
アンジェリーナは瞳を伏せて、首を左右に振る。
それきり黙り込んでしまったので、バルバロッサは所在なげに空を見やり、気まずさにたえかねるように口を開いた。
「……港町へと向かっているな。この船を用いて目指すべきはクリスティアナ島の上空ということだが、さすがにリシャールのやつでも、この船をそこまでは運べぬということらしい。……ははは。見ろ。いつの間にか湾を出て、大地の上を渡っているぞ。これならば半日もせず港町まで辿り着くであろう」
バルバロッサが話しかけるが、アンジェリーナはうつむいたままだ。
ため息を一つつき、船の縁に背中をあずけ肘を乗せ、バルバロッサは天空を見上げた。
茜色の太陽がそこにはあり、すぐさままばゆさに目を閉じる。
その時、アンジェリーナがようやく、口を開いた。
「勝利はいつでも犠牲の上に成り立ち、その犠牲に報いようと奮起し、そうしてまた犠牲が増えていく」
「……」
「我々は過去にあった犠牲に報いるため必死になるけれど、『先人の思い』『失われた命』『痛みに耐えた歴史』などというものは本来、『復讐』『怨恨』と同様に、未来に受け継いではならぬものと、我は思う」
「……ははは。なるほど、なかなかどうして、耳の痛い話だ。この俺ですら、『被害者たちの想い』に酔って、それを旗印にこうして決死隊など率いているのだからな。その甘美な酒は、人には手放し難いものであろうよ」
「で、あろうと我も思う。ゆえに、ここですべて、終わらせよう」
「……」
「犠牲に報いるために犠牲を出さず。想いを継いだ者の想いをまた先の者に継がせるような状況を避けよう。━━ここで『魔王』を終えるのだ」
バルバロッサが見やれば、そこには、茜色の光を受けて遠くを見る少女の姿があった。
いつの間にか右目を隠していた眼帯はむしりとったように小さな白い手の中でぐしゃぐしゃになっていた。
その、真っ赤な瞳━━
茜差すせいなのか、その濃く鮮烈な、バルバロッサを魅了した赤い瞳が、一瞬、黒く黒く染まっているように、見えた。
「我らは幾度も繰り返した。この時代への干渉を繰り返した。同じ時間を繰り返した。そうして魔王が生まれてからは、人と魔との戦いを繰り返した。だが……すべて、終わりにしよう。応えるべき想いを終わらせ、受け継ぐべき痛みを終わらせ、胸に抱くべき犠牲さえも、ここですべて、終わらせる」
アンジェリーナがバルバロッサを見上げる。
その二つの瞳はやはり真っ赤で、先ほど濃い影があったのは、見間違えだったように思われた。
「魔王を倒そう。絶対に」
アンジェリーナの表情にこめられた悲壮な決意は、なんだかとても危ういもののように見えた。
リシャールの背中に感じたものと同じ、自己犠牲の色合いを見てとったものだから、バルバロッサはあえて力が抜けたように笑い、こんなふうに、茶化す。
「それを俺に宣言してくれるのは嬉しいがな、そういった誓いは俺よりもオーギュストに向けてしてやるがいい。それとも、オーギュストから俺に乗り換える気にでもなったか? 俺は許すぞ」
「そ、そういうことではないが!?」
「……ならば、とっておけ。俺はなにも聞かなかった。だから、貴様も今言ったことは、もう一度よく考えてから、大事な時に、大事な相手に告げるといい。俺はお前のすべてを許す。だからこそお前は、許してくれぬ相手の意向こそ、汲むべきだ」
「……どういう意味だ?」
「もう港町が見えてきたな」
あえて話題を切り替えて、バルバロッサは舳先のほうを指さした。
アンジェリーナは舳先近くまで寄って行き、背伸びして指さされた方向を見始めた。
……強い風がアンジェリーナのふわふわした銀髪を揺らす。
茜色の光を受けてドレスをはためかせる小さく美しい姫は、なんだかそのまま光に溶けて消えてしまいそうな、不思議な儚さを感じさせた。
「……やれやれ。年長者の順に、損な役所が回ってくるようだ。……オーギュスト、きっとこの働きのぶんは返してもらうぞ」
バルバロッサはつぶやく。
しかしその発言は強い風にかき消されて、彼がなにを覚悟したものかたずねる者は、誰もいなかった。
十五章終了
次回更新ぶん締め切りは10月24日予定
書け次第更新します