98話 海を渡る花
「……ということで、なんだかわからんうちにここにいた。リシャールの行方は知らぬ」
「『なんだかわからん』とはどういうことだ」
「『なんだかわからん』は『なんだかわからん』だ」
リシャールの予言通りにバルバロッサと合流したアンジェリーナは、情報の擦り合わせを行うはめになった。
船の上ではそこらじゅうをラカーン王国兵が駆け回り、出港準備をしているところだ。
操舵輪のあたりでバルバロッサと話しつつ見ていると、ラカーン兵の出港準備の手際は、あまりよろしくないように見えた。
もちろんアンジェリーナの実家が、世界有数の強壮な海兵と、最先端にして魔術理論だけでは説明のつかない船を擁する海洋大国……国ではないが……だからということもあるのだが……
そもそも、ここにいるラカーン兵たちはみな、水兵ではないそうだ。
ラカーン王国に海兵がいないということもなく、あの港町に限っても存在はしたはずなのだが、文字通り『決死』の覚悟だったバルバロッサたちは、優秀な海兵水夫を港町に残し、クリスティアナ島に渡ったあとの海洋戦力になってもらおうと考えていたようだった。
「まさか生きて……それどころか、傷一つ負わずにここに来ることができようとは想像だにせぬ僥倖である。この俺が太陽に愛されているがゆえか……」
「……」
「冗談だ。……リシャールの計略であろう。まったくもって忌々しい男だった。いつでもすべてを予測しているような顔をして、実際に、すべてわかっていたことのごとくこなしてのける。……俺やオーギュストのみならず、あらゆる王となる者が『いつか超えるべき壁』と見定めていた存在であろうな」
そこでバルバロッサは、灰褐色の瞳を閉じて、胸に平手を添えるようにした。
それは祈りの所作だ。……たとえば墓前などでする、簡易的な黙祷なのである。
「して」
操舵輪に肘をついたバルバロッサが、腰を折ってアンジェリーナをのぞきこむ。
彼我の身長差が頭二つ分以上あるせいで、そうされるとかなりの威圧感だった。
アンジェリーナがちょっと上体をそらすと、バルバロッサは「ああ、すまぬ」と腰を伸ばして、
「……つまるところ、この船はまだ飛ぶことができんのだな?」
「うむ。……バルバロッサの連れてきた兵の中に、貴族並みの四属性いずれかの使い手と、四属性持ちの魔術師がいれば別だが……」
「ふん、この俺が率いたのは真なる覚悟を抱いた、祖国のため命をいとわぬ精鋭よ。属性や血統で選んだわけではない」
「……であれば、通常の船として航行し、まずはクリスティアナ島に渡るべきであろうな。だが……その、なんというか、大丈夫そうか? 航海指揮とかそういうのは……」
「我が隊に属するには志さえあればよい。経験も経歴も不問だ。不問ゆえにいちおう確認してみよう。━━誰か! 水兵であった者、あるか!」
バルバロッサが呼びかけると、一瞬、なんとも気まずそうな『しーん……』とした静けさがあった。
そして少ししたあと、木箱を持っていた、まだ少年と言える年若い男性が述べる。
「じ、自分は東方海軍に所属しておりました!」
「良し! 階級はいかに!」
「見習いであります!」
「では貴様をこれより、ラカーン海軍大将軍に任ずる! この俺と国家のため、我が軍唯一の軍艦の総指揮をとるのだ! 励めよ!」
「は! …………はああああ!?」
「アンジェリーナ、これで船長も決まった」
バルバロッサが笑うので、アンジェリーナも苦笑いするしかなかった。
ひとしきり笑ったあと、アンジェリーナはため息をついてから述べる。
「……しかしまあ、経験の不足はいかんともしがたい」
「アンジェリーナ、貴様はどうなのだ。貴様の御母堂はずいぶんおてんばと聞いたぞ。女だてらにズボンをはいて海兵を率いているのだとか……貴様も御母堂から薫陶を受けてはおらんのか?」
「潮風は髪がべたつくので……」
バルバロッサは一瞬おどろいたあと、大笑した。
しかしこれがまったく冗談ではないのだ。
今のアンジェリーナになる前のアンジェリーナは、海に連れ出そうという母の誘いを『髪がべたつくから嫌!』と断っていたのである。
そのため、海兵の動きをなんとなく見知っているだけで、その詳しいことはまったく知らないのだ。
「ふははははは! 海戦の素人がそろって! 魔王カシムという未曾有の敵から! たった一隻しかない船を! 海を渡って持ち帰らねばならぬ! いや、見事なものだ! 乗り越えた先には英雄譚として我らの活躍は歴史に刻まれることであろうよ! 重責だな、海軍大将軍!」
話を振られた若者は「へへぇ!」とよくわからない声を出し、それを聞いていた周囲の兵たちが笑った。
バルバロッサもにやにやしながら、
「海軍大将軍、貴様の役割を教えよう。それはな、最後の最後まで生き延びることと、アンジェリーナの身を守ることだ。なにせ大将軍に最初に
身罷られては、指揮系統が混乱するからな! そうだろう、皆の者!」
兵たちから口々に「おっしゃる通りで!」「まったくですな!」という声が上がる。
バルバロッサはまたひとしきり笑って、
「貴様は若い。ゆえに生き残れ。そのための大将軍位だ。理解したな。では、こちらに来て首脳会議に加われ」
「は……は!」
きびきびとしたダッシュで近づいてきたかと思うと、バルバロッサから五歩はあろうという距離で『気をつけ』の姿勢をとった。
「もっと近くに」
「は、いえ、しかし……畏れ多く……」
「かまわぬ」
「で、では失礼します!」
バルバロッサは「うむ」とうなずき、
「さて、作戦もなにもないという事実をまずは明かしてしまおう。船員たちには秘密だぞ。士気が下がるからな!」
もちろんこれは冗談であり、操舵輪のあたりで話しているせいで、会話は筒抜けだ。
大将軍の緊張をほぐそうという試みだったが、緊張の度合いが高すぎたせいで、大将軍にはその冗談がわからなかったらしい。ますます身を固くして「は!」と応じるだけだった。
バルバロッサは肩をすくめ、アンジェリーナに目を向ける。
アンジェリーナは『ここで振るのか……』と思いつつ、なにかしてみようとちょっと考えて、
「そうだな、決死隊ということで、まともな糧食も持ち合わせていなさそうだ。無事にクリスティアナ島にたどりつくことができれば、アンジェリーナ・クリスティアナ=オールドリッチの名において、諸君らには腹がはちきれるほどの食料を提供すると誓おう」
と、アンジェリーナが言うと、一瞬の沈黙のあと、あたりから大爆笑が起こった。
これはクリスティアナ島の食料がとにかくクソまずいという話に起因する笑いで、「苦境を抜けてさらなる苦境ですか!」「神話の英雄のようですな!」と兵たちにはたいそうウケた。
しかしアンジェリーナは特に冗談のつもりがなかったのできょとんとしてしまう。
まあ言われてみればたしかに地元のご飯はとてもまずい。工業製品のノリで作られたジャムめいた謎のペーストとか、生臭い魚を油臭さでコーティングした揚げ物とか、思い出すのもおぞましい海産物のゼリー寄せとか……
大将軍も緊張しきっていて冗談は通じていないようだったが、アンジェリーナのきょとんとした顔がお気に召したようで、いくらか緊張がほぐれた様子になった。
そのタイミングでバルバロッサが手を叩き、注目を集める。
「さて、作戦もなにもない本軍ではあるが、方針だけはある! 我らの『勝利条件』、それは、『生還』である!」
大爆笑の名残を顔にはりつけたまま、兵たちが傾注している。
バルバロッサは長い腕を広げて周囲を見回し、
「生き残るのはたった二人でも構わぬ。とにかくこの船をクリスティアナ島へ届けるのだ。……俺は『予言者』ではないが、諸君らの未来を一つ、当ててしんぜよう。もし生還適ったならば、諸君らのことをつづった英雄譚が、今後百年、語り継がれるであろう。そこな海軍大将軍と、アンジェリーナ嬢が語り部となる! 全力で守れよ!」
兵たちから「おう!」という声があがる。
「大将軍、発艦の号令は貴様がかけるのだぞ」
「へ、へぇ!」
「うむ、力強くて良し! ……ああ、しかし、なんだな。オーギュストにはずいぶん格好をつけてしまったので、少々気まずい。なんと言って再会すればよいのか」
「バルバロッサでも『気まずい』などという感想を抱くことがあるのか……というか、もう生還するつもりなのか……」
「うむ。依然として決死行には違いないのだがな。なぜだろう、貴様がここにいるだけで、無事に帰ることができるような気がしてならん。やはり貴様はこの俺に幸運をもたらす花よ。どうだ? 今一度、我が花嫁になることを考えてはみぬか? 国を失いはしたが、この俺であるからな。すぐに取り戻せるであろうよ。さすれば貴様を飾る宝石にも困らん」
バルバロッサは自信たっぷりに笑っている。
それは冗談のようにもとれたし、本気のようにもとれた。
ここで『そうする』と言えば、バルバロッサはおどろくこともなく、『そうする』のだろう。
まあ、なんにせよ。
アンジェリーナの答えは、決まっている。
「もらうばかりは、好かない」
「で、あれば、この船を捧げよう。貴様からあやつに贈るといい」
バルバロッサはアンジェリーナに背を向け、船員たちとともに出航準備に入った。