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第二夜「焔」(Aパート)③

 ほんの短い時間だけ、〈活性〉の魔法の恩恵に預かり、見えないものを見た。聞こえない音を聞いた。

 動かないはずの体を、常人以上に動かした。

 時間切れで死にかけた。

 規格外の存在と遭遇し、その手に触れられた。

 清浄な空気を呼吸して、命を取り留めた。


 だがそれは、あくまで仮初のもの。

 ――祇代マサトは、健康ではない。

 ――祇代マサトはもう、そう永く生きることができない。

 彼自身とその周囲の意思に関係なく、彼の肉体そのものが、生きることを指向していない。

 その大前提は、全く変わっていない。


 〈活性〉の魔法は、身体に備わっている力を引き出し、一時的に身体機能を、自然治癒力を増強し、感覚を鋭敏にするもの。

 ……もともと存在しないものを持ってくる魔法ではないし、強くかければそれだけ疲労と消耗を伴う。


 だが、それだけならばまだよかった。

 ほんの数分間、ウィッチを視認できるようにするだけならば、その影響はこれほど深刻なものではなかった。


 ……祇代マサトは、例えどのような已むに已まれぬ理由があろうと「他人と戦う」などと言う選択をするべきではなかった。

 彼は生来、そういった資質を持っていなかった。

 彼の肉体には、戦うという彼の意思を叶えることができる力が備わっていなかった。

 それでも、脳はアドレナリンを分泌し、心臓は鼓動を速め、肺は全力で酸素を取り込み続けた。

 時間にして数十秒の、けれど耐久性の上限を超えた肉体の酷使は、マサトの臓腑を、血管をスタズタに痛めつけていた。

 ……と言う事を、マサト自身、今はまだ知り得ていない。


 ――この時点で彼の残りの寿命は、10分間弱。

 ある現象が引き金となって。

 そのカウントダウンが、始まった。


「わたしは、チ號・参拾っていうの!」

 朗らかにそう名乗り、柔和な笑顔を向ける女の子に、当惑しながらも、愛想笑いで返し、――自分のことは、あまりそう気にかけなくても良いからね。とでも返そうとした。

 

 そんな時だった。


 ――どこかで、何かが起こったらしい。


 平衡感覚が、一瞬で失われた。

 膝から力が抜けて、倒れ込んだ。

 視界がくすみ、霞み、薄れてゆく。

 まともに最後に見えたのは、名前をきいたばかりの、自分の世話係だという女の子が、血相を変えて駆け寄ってくる姿。


 何度も咳き込んだ。

 食道の奥から、血の混じった胃液が溢れ出た。

 よくよく、口の周りが赤く染まる日だ。

 身体が重い。頭が痛い。

 ……次第に、呼吸が短く、浅くなってゆく。


 これまで何度も、それこそ数時間前にも味わったばかりの感覚。

 けれどこれは――まずい。

 症状が、いつもより重い。

 痺れるような痛みも、腸をかき回されるような嘔吐も、常にも増して激しい。


 震えが止まらない。凍えるように冷たい手足が、さらに引き攣る。

 チ號参拾が何か叫んでいるのが聞こえるが、何を言っているのかは聞き取れない。

 その声すら、やがて遠ざかるように聞こえなくなってくる。


 苦しい、苦しい、苦しい!

 ああ、――けれど、そんな風に感じるだけの意識すら、薄れてゆく。

 症状が治まったわけではない。むしろその逆だ。

 夜の闇に呑まれるように、眠りに落ちるように穏やかではあるものの、

 脳が、これ以上の苦痛から自己を守るために、感覚をカットして、苦しみのた打ち回るという「余計な」消耗を抑えようとしている。

 そういうこと、らしい。

 

 ……これでは今度こそ、本当に、死んでしまいそう、だ。


 咳き込み、えづきながら、

 ――――。

 最後に、「弟」の名をこころの中で呼んで。

 そしてそのまま、マサトは意識を手放した。


 切れかけて不規則に明滅を繰り返す蛍光灯。

 乾いた、生ぬるい空気。

 鼻を突くのは、血と膿の臭い。

 

 ぼんやりと周囲を見まわした。

 

 小さな男の子が、突っ伏し、床に横たわっているのを見た。

 目の下に深く刻まれた隈。

 土気色の肌、こけた頬、乾いてひび割れた唇。

 身にまとう、着古した入院着は、胸元が赤黒く染まっている。


 幾度も咳き込み、その度に喉の奥から、血反吐を吐き散らす。

 光の宿らない双眸は虚空を睨み、やせ細った手足は、苦し紛れに自分の手で掻き毟った傷に塗れていた。


 ああ――

 この子のことを、知っている。

 誰よりもよく、知っている。

 これは、自分だ。

 子供のころの――そして少し前までの、自分自身だ。


 だから、ここは、数時間前までの人生のほとんどを過ごしたあの部屋、あの病室だ。

 実際には、あの部屋はここまで酷い場所じゃなかった。

 あそこの職員たちも、同じ施設の子供たちも、別段冷酷な人間たちではなかった。

 マサトが苦しみの声を上げていればきちんと介抱してくれたし、血と膿と嘔吐で汚れた患者衣も包帯も、まめに取り換えてくれていた。

 けれど、それでも。

 それでも、幼い祇代マサトの目には、世界はまぎれもなくこのように映っていた。


 この子は呪っている。

 心の底から憎悪している。

 自分の人生を、他人の幸福を、

 世界と、宇宙の全てを。


 だから、目の前の少年、幼い祇代マサトは、涸れたのどで呪詛に満ちた繰り言ばかりを吐き続ける。


 ……いらない、いらない、こんなものなどぼくはいらない!

 ああ――どうして、どうして、こんなモノ(人生)を、ぼくに押し付ける。


 よこせ。

 よこせよこせ。

 ――おまえらの命を。おまえらの未来を。

 ――あたりまえの、平凡な人生というヤツを。

 ――ぼくによこせ。


 やめろ。

 と思った。

 他人にそんな目を向けるな。

 と思った。 

 そんなことをどれだけしたって、無駄だ。

 と思った。

 ――不幸に、なってしまうぞ。

 とも、思った。


 ……その呪いさえ、憎しみさえ、いずれ喪われる。

 その顛末に至るまで、良く知っていた。

 何しろ、自分が実際に味わってきた想いであるから。


 これは、そう――仕方がないこと。やむを得ないこと、だ。

 ああ、誰かが言っていた。

 ――誰も、おまえが苦しむように、おまえの苦しみを苦しんでやることはできない。

 その通りだ。

 突き詰めてしまえば、ありとあらゆるオブラートを矧いでしまえば。

 おまえの苦しみは、おまえ以外の全ての人間にとって、所詮、他人事だ。


 それはそうだ。

 どんなに悲しくても。

 どんなに憎んでいても。

 どんなに怒りに身を焦がしていても。

 それはどこにも届かない。

 おまえの憎しみは何も変えることはできない。

 おまえは、こんなにも弱弱しくて。 

 おまえは、こんなにもちっぽけで。

 おまえは、この狭苦しい部屋の片隅に籠って生きてきただけじゃないか。

 

 ……喜んだり、笑ったり、夢を持ったり、誰かを愛したり、成長したりすることができる、今現実を生きる人間に、おまえは何一つ敵わない。

 おまえが傷つけ得るものなんて、何一つありはしない。

 安心しろ、おまえの吐いた呪詛は、世界を滅ぼさない。


 百億の怨嗟と、それを掻き消し塗りつぶす、千億の否定。

 無量大数の、リフレイン。


 ……今日、おまえが死んだって、何の支障もなく、世界は回る。

 ……誰もおまえの為に悲しんで、歩みを停めてはくれない。

 元よりそう長くないと判っていたどこかの誰かが死んだからと言っていちいち立ち止まっていたら、社会は成り立たなくなってしまう。

 ――きっと、どうにもなりはしない。

 ならば、いっそ、いっそ、そのまま――


 少年の祇代マサトが、呻き、のたうちながら、手を伸ばす。

 伸ばした指の先には、病室のドアがあった。

「……けて。……けて」

 呪詛ではない、ただひたすらに苦痛からの解放を、救いをと求めるそんな声にも、誰も応えることはない。

「たすけて」

 実際には、10分もしない内に、苦悶の声を聞きつけて、あのドアが開いて職員か子供たちの誰かがかけつける。

 精一杯介抱され、症状が重いようなら、車で救急病院まで送り届けてもらえる。

 だがこれは、少年の祇代マサトの見ていた世界だ。

 吐血と嘔吐に塗れてもがき苦しんでいた時間は、永遠よりもなお長かったし、あのドアは、――決して開かない。


 ――と。



「……たすけて、ほしい、の?」

 昏い部屋に、光が一筋。

 光の射す方から、そんな声が、聞こえてきた。

「……うん、いいよ」

 開かないはずのドアが、僅かに開いていた。光はそこから射しこんでいた。

「……わたしが、助けてあげる!」


 ……ふしぎなことに、再度、瞼が開いた。  

 身体の上に何か、柔らかい物が乗っている重みを感じる。

 唇に押し当てられている、温かい感触。 

 目が覚めて、最初に視界に飛び込んできたのは、――少女の顔。

 どうやら自分は、まだ生きていて……女の子に、唇を重ねられているらしい。ということに、マサトは気づいた。

「……んっ」

 ぴたりと隙間なく押しつけられていた唇が離れてゆき、女の子は息を継ぐ。

「……マサト、くん?」

 そう、呼びかけられる。

 自分は相変わらず、仰向けに横たわっていて。

 女の子は、自分の顔の両脇に手をついて、覆いかぶさるようにしていて。


 ……まったく知らない子。ではなかった。

 雑に短く刈られた銀色の髪、赤い瞳。

 小さな体躯、ソレに比して女の子らしい膨らみ。

 飾り気のないクリーム色の、ガウン型の患者衣。


 ――チ號・参拾。

 ついさっき知ったばかりの、彼女の名。

 自分のお世話係だ、という少女。

 彼女が、自分を助けてくれた。ということのようだ。


 ここは、あの病室ではない。

 殺風景ではあるものの、清掃の行き届いた一室。

 ここに案内され宛がわれた個室である。


「――良かった! 目を覚ましたんだね! マサトくん!」

 と、チ號参拾が声を上げた。

 口の周りが血で赤黒く染まっている。

 どうやら、吐血したマサトの唇に、自分のそれを押し付けたことによるらしい。

 経口の人工呼吸でも施してくれたのか。

 ……しかしアレは、ついさっきまで自分の身を苛んでいた不調は、そんなものでどうにかなる症状ではなかった。

 それこそ、このまま死んでしまうのではないかと、今日二度目に思ってしまうほどで……

「う、うう……良かったぁ……! 良かった……よぉ……!」

 マサトが目を覚ましたことに安堵したらしく。

 チ號参拾は、マサトの体を抱きしめると、緊張の糸が切れたように、きれいな赤い瞳から涙をぽろぽろ流して泣いていた。

 ……ああ、こんな小さな女の子を、泣かせてしまった。

「……君が」

 あまりそれまでの人生で味わったことの無い種類の罪悪感を覚えてしまう。

「……君が助けて、くれたのか?」

「うーん、と……そういうことに、なるのかなあ」

 ついさっき、あまり自分に構わなくてもいい、と言おうとしていたというのが、今になっては恥ずかしい。

 お世話どころか、命を救われてしまった。

「そうか、――ありがとう」

「えへへ……どういたしまして」

 精一杯の謝辞を述べて、照れ笑いでそう返されて。

「……そう言えば、その」

 ちらと、彼女の顔に目をやって、その中の一点、瑞々しい紅色の唇に、視線を捉えられた。

 けして望んでのことではないが、――唇を、重ねてしまった。

 見たところ、背丈や顔つきは、およそ10歳から12歳。

 学齢で言えば、中学生にはなっていまい。

 そのくらいでも、女の子と言うのは、そういうのを気にするのではないだろうか。

「その……唇を」

 ……謝って済むことでもなさそうだが、と、申し訳なさそうにマサトが一応そこまでを口にすると。

「……え? …あー、あー……あー……」

 それで何となく、意図するところを察したか、チ號参拾は、困ったように母音だけで声を上げて、

「やー……あ、あははは」

 乾いた笑いをこぼしてから押し黙ると、――感触を思い出すように、指先で自分の唇に触れていた。

 幼い唇が、ぷにぷにと白く細い指先を押し返していた。

「…………っ」

 ……気まずい。

 気まずすぎる。

 いっそ、そこに関してはお互い触れないようにしておいたほうがまだましだったのではないかとさえ思えた。

 マサトも、チ號参拾も、互いに目を合わせないように、斜に顔を背けた。

 

 ……まったく、申し訳がない。

 ついさっき出会って、話相手になっただけの男に懸命に救命措置を施してくれたこの小さな女の子には、本当に頭が下がるばかりだ。

 この子はけして、自分を責めはしないだろう。と言う感覚があった。

 今だって、一生懸命、マサトが罪悪感を覚えずいられるような返しを考えているというのが背中から伝わってくる。

 ……出会ってから、ものの数十分ほどでしかないが、彼女には何となくそう言うところがあった。

 そう思いつつも、

「……その、何だ」

「ええと、あのね」

 祇代マサトとチ號参拾のふたりは、互いに、同時に、そんな風に声を出した。

「……お先に、どうぞ」

「いや、君からさきに」

「マサトくんこそ」

「……君がさきに」

 ……およそこの世に、こんなにも酸素の無為なる浪費たる会話があるだろうか。と言いたくなるやりとりの後、そのまま、さらに十数秒の沈黙の後。

 

「……マサトくん、お口の周り、拭いた方がいいと思う」

 ようやく、チ號参拾がそう呟いた。

 ――本当だ。

 改めて、2人とも口の周りが赤く染まったままだったことに気付いた。

 荷物の中から、ウェットティッシュを取り出して、数枚をチ號参拾に手渡して、ふたり並んで口元を拭った。

「ええとその、一応、うつるような病気は持ってないから」

「うん」

「……悪かったね」

 やはりこれは、一応言っておかなくてはいけないだろう、と、阻止される前に、そこまでは言葉にしておいた。

 チ號参拾は、それを聞くと困ったような顔をしてから、 

「ううん――いいよ」

 と答えた。


「――わたしは、みんなのことが大好きなんだ」


 そして、ふふふっ、と笑って。

「だから、マサトくんのことも、大好きだよ」

 ――だから、いい。

 と、言うのだった。


 ……本人がいいと言っているのであれば、と言うわけではないが、これ以上は言うだけ彼女を困らせるだけのようだった。

 おいおい埋め合わせになるよう心がけておこう、とマサトは思った。

 ……とりあえず、彼女に聞きたかったことは、もうひとつ。

「――どうやって、自分を蘇生させたのか」

 である。

 この教皇院が「魔法つかい」の組織であるということは承知しているが、ということは彼女も何かそれに類するもので、死に瀕した自分を助けることができる魔法でも使ってくれたのか、と思いもした。

 お伽話のお姫さまではあるまいし、彼女の口づけで息を吹き返したというわけでもないだろう。

「……ところで、どうやって」

 と、それを訊くために、声をかける。

「……ちょっと、ごめんなさい」

 チ號参拾が、顔を伏せてそう言ったのは、そんな時だった。

「……ん?」

 あれほど元気で、よく喋る子だったのに、どこか、苦しげだ。

「…そっちに座っても、いい?」

 かまわない、と答えて、ベッドの端に移動し、スペースを作ると、彼女はそこに腰をおろした。

「……はー……はー……」

 と、呼吸もどこか弱弱しい

「大丈夫か?……顔色がわるいぞ」

 もともとどちらかと言えば色素の薄い顔立ちではあったが、肌は子供らしく瑞々しくて、健康そうではあったはず。

 だが、今はそうではなくて、不健康に青白く、ほとんど土気色に近い。

 まるで――まるで、祇代マサトのように。

 あまりに具合が悪そうで、だんだん心配になってくる。

「……ごめん、ね。……ん、少し、このままで」

 単に甘えているだけ――などではなさそうだったが、隣に座るマサトにもたれかかり、腕に掴まって身を寄せる。

「……あの、ね、マサト、くん」

 チ號参拾は、途切れ途切れにそう言って。

「……今から、少しびっくりするかも、しれないけど、少しの間、このまま、待っててね」

 そして、どさりと、マサトの胸の中へと突っ伏した。


 腕の中に倒れ込んできた彼女の体を抱きかかえ、すぐに違和感を覚える。

 くたりと、力の抜けた、小さな体、か細い手足。

 伝わってくるはずの――呼吸を、していなかった。

 心臓が、脈を打っていなかった。


 ――彼女は、死んでいた。


「お……おい、君! ――チ號参拾!」

 ついさっきまで、息の根が止まるのを待つだけだった自分が息を吹き返し、入れ替わるように、彼女がその鼓動を停めた。

 ――やめろ。

 やめてくれ。

 混乱しきった脳が、必死に叫びをあげる。

 これでは本当に、本当にこの子が自分に命を捧げてしまったようだ。

 否、自分が、この子から命を奪ったようにしか思えなかった。

「おい!……おい……何……でっ……!」

 ここが、マサトがよく担ぎ込まれていた救急病院であれば、容体の急変、急な発作、そう言う際に助けを求めるためのナースコールと言うものがあった。

 ――残念ながら、ここは、病者を救うための施設ではなかったが。

 マサトは改めて、これまでの自分がいかに恵まれ、周囲の善意に守られてきたか思い知った。


「頼む、頼むよ、目を開けてくれ!」

 呼べども、叫べども、彼女は目を覚まさない。

 つい先刻まであれほど表情豊かだった顔は能面のように微動だにせず、徐々に、その体から温もりが失われてゆく。

 指先で瞼を開かせれば、きらきらと輝いていた赤い瞳が、見る影もなく虚ろになっていて、瞳孔が開きつつあった。

 であってから数十分の、それでも、自分に笑いかけてくれた、自分の命を救ってくれた少女が、目の前で息を引き取った。 

 ――身体の半分をもぎ取られたような喪失感があった。


 直感的に思う。

 ――自分おまえのせいだ。

 ――祇代マサト(おまえ)が殺した。

 自分おまえと出会ったから、彼女は死んだのだと。

 今更ながら、己の愚かさに吐き気がする。

 どこだ、一体どこで間違えた。

 自分が、こんなところまで来たからか。

 きょうだいに、僅かなりとも暮らしの援けを残せるかもしれないなんて、そんなことを、望んで、誘いに乗ってしまったからか。

 そんな事の為に、彼女はこうして……冷たくならなければならなかったのか。


 魔法つかいでも何でもいいから、彼女を助けてくれ。

 なんなら、代価が自分の命でも構わない。

 そんな塵芥でいいのなら、いくらでも持って行け。


 ――この子を助けてくれ。

 童女の屍を抱きしめながら、マサトはただ、咽び泣いた。


 ――待て。

 彼女は、何を言っていた?

 思い出す。倒れる寸前の彼女の言葉を、

(……今から、少しびっくりするかも、しれないけど、少しの間、このまま、待っててね)

 その言葉の意味を考える。

 びっくりするかもしれない、とは、恐らく、このことなのだろう。

 では、「少し待て」とは、何だ。

 彼女は死んだ。

 それは絶対のもの、不可逆のもの。

 だがそれではまるで、待てば、何かの変化が起こると言おうとしていたかのようだ。

「――チ號、参拾」

 何かに縋るかのように、マサトは彼女の体を抱きしめ、その名を呟いた。


 ――とくん。


 一瞬、耳を疑った。

 自分の脳が、現実から逃走するために、実際には存在しない音を、脳内で奏でているだけではないかと思いすらした。

 ――とくん。

 ――とくん、とくん。

 まだそれは小さく微かだったが、それは、鼓動だった。

 再び、小さな体の奥の心臓が、脈を打ち始めていた。

 次いで、唇から、すうすうと、息が漏れ始める。

 間違いなく、幻聴などではなかった。


「……チ號?」

 そしてさらには、髪が、――みすぼらしく、不揃いに刈られていた頭髪が――急激に伸び始めた。

 透き通るような綺麗な白銀色はそのままに、若草が芽吹く様に、蝶の幼虫が繭を作るために糸を噴き出すように、

「――な」

 それこそ、一度死に、そして再び命を受けたかのように。

 身体に、次第に温もりが戻ってゆく。頬に赤みさえさしてゆく。

 彼女が言っていたのは、これのことか。

 しかしこれで「驚くな」と言われても――!

 心臓が鼓動を再開し、血液が循環を始める。

 微かだった呼吸も、次第にはっきりとしてきた。

「…ん、んんっ…」

 

 そして――

「――わぁ……ッ!」

 大声を張り上げるのと共に、彼女は、ひと息で、跳ねるように身を起こした。

「……ああ、良かった、よかったぁ! ちゃんと生き返れて(・・・・・)……」

 そんな風に声を上げるのを、呆然と見ていたマサトの姿を認めると、 

「あ……マサトくん……だ。 おはよう……かな?」

 そう言って、最初に言葉を交わした時のように、笑いかけた。

「あ、あれっ? 何か、髪が、凄いよっ? ええっと……どうしようか、これぇ……」

 ――何だよ、それ。



 ……本来、人間は一度心肺が停止するなんてことがあれば、例えその後の救命措置によって助かったとしても、その時間によっては深刻な後遺症が生じる。

 そんな状況であれば、すぐに動くことなど到底できはしないし、直ちに精密検査が必要……な、はずである。

 しかし、目の前のチ號参拾は、むくりと身を起こし、ただ眠りから覚めただけであるかのように、うーんと伸びをして、

「えへへ、よかったねマサトくん!」

 と言うのだった。

「……君、今、その、死んで……」

 間違いなく、数分間の間、心臓も呼吸も停まっていた。

 間違いようもなく、死亡していた。

 いまだあっけに取られ、呆然としたまま呟くマサトに、

「あはは……そっか、わたし、やっぱり死んじゃってたんだ、危なかったぁ……」

 照れくさそうに笑って、――完全復活、と言う感じである。 

「でも、もう大丈夫だよ、マサトくんが、待っててくれたおかげだね」

「……どういうことだ」

「あ、そうか、少ししたら、わたしを呼んでね、って、言っておけば良かったかな」

 びっくりしたよね、ごめんね。と、チ號参拾は言葉足らずを謝った。

「あ、そうだ!」

 ちょっとごめんねー、と一つ前置きしてから、彼女はマサトの胸に手を触れる。

「……うん、うん、わたしのいのちが、あなたの中で生きてる」

 確かめるように、何度も頷いて、

 ――そして、

「……さっき、わたしのいのちをひとつ、あなたにあげたから。なるべく、だいじにつかってね?」

 まるで何でもない事のように、にっこり微笑んで、そう言った。

「つくるのに一年くらいかかっちゃったから、それ一個しかないんだ。だから、次はもう、これしかないから」

 自分の幼い膨らみの谷間を指さし、続けて告げる。

「――ま」

 待て、と、そう叫ぼうとして、声を失う。

 誇張でも、修辞表現でもなく、自分は、この子に命をもらったということか。

 ――死からの復活。

 ――生命、それ自体の授受。

 ありえない、そんなことはありえない。

 それに――。

 長いこと黙りこくった挙句、ようやく絞り出すようにして、

「……そういう、ものは、他人にあげたりしちゃ、駄目だよ」

 とだけ、マサトはようやく口にした。

「……でも、あなたは苦しかったんでしょ?」

「それは、そうだけど」

「……苦しそうで、見ていられなかったよ? 何とかしてあげたいって、わたしが助けなきゃって、思ったよ? 困ってるひと、苦しんでるひとは、誰かが助けてあげなきゃ、だめなんだよ?」

 そう言われて、また言葉に窮する。

「それとも、マサトくんは、別に死にたくないなんて、おもわなかった? わたしの命、いらなかった?」

「……ああ、いや」

 彼女の問いかけは、マサトにとって、神の言葉に等しかった。

 これ以上苦しみたくない、そのくらいなら、いなくなってしまいたい。

 そう思い続けてきたはずだったのに。

「……ぼくは、誰かに助けてほしかった」

「そう――なら、たまたま今あなたを助けられたがわたしだったんだね」

 と、どこか、安堵したように、チ號参拾は言った。 

「わたしの大好きなことは、みんなのお手伝い。 わたしの大好きなものは、マサトくんも含めたみんな」

 マサトには、彼女の言っていることが、半分も判らなかった。

 遥か彼方で輝いているものを見るような気分だった。

 何なのだ、この子は、と思った。

 どうしてこの子は、こんなにも――。

「あなたにはあの時助けが必要だったし、わたしはあなたを助けたかったの。だから、あなたを、マサトくんを助けられてよかった。って、嬉しい。って思ってる。それで、わたしも、マサトくんも、こうやって生きてる。 だから、誰も何も失くしてない」

 わけの判らない感情がこみ上げてきて言葉を出せず、ただ彼女の顔を見つめるマサトに、

「それで、いいんじゃないかなー」

 と、彼女は笑いかけた。


「ねえ、マサトくん」

 沈黙するマサトを見つめ、ぽつりと彼女は呟いた。

「……わたしもさっき一度死んじゃったけど、やっぱり、こわいし、くるしいし、かなしいね」

「……それは、そうだね」  

「本当に死んじゃってたら、きっと、もっとこわいし、もっとくるしいし、もっとかなしいんだよね」

「……そうだね」

「わたしは、マサトくんにも、他のだれにも、あんな思いしてほしく、ないなあ……」

 少しの間マサトが考えてから、

「……でも、人間はいつか死ぬんだよ」

 と、答えると、チ號参拾は、

「……そうだったね」

 そう、困ったように言うのだった。


 チ號参拾を椅子に腰かけさせ、後ろに回って、髪に櫛を通してゆく。

 ここで起こったことを、ひとまず誰かに伝えないといけないのではないのかとも思ったのだが、その相手と言うのが思いつかない。

 この部屋には緊急時の呼び出しボタンのような者がないし

 犬飼かなめ、嵯峨かのん、戦部ユウスケ。

 いずれも、それぞれ問題がある。

 本来、こんなことをしている場合ではないだろうと、余程思ったのだが、今のところ、当のチ號参拾が

「別にいい」

 というし、

「何かしてほしいことはないか」

 と聞いてみれば、

「髪を整えたい」

 とだけ望まれたので、それをやってあげるしかなかった。

 確かに、ついさっきまでは乱雑に刈られた、ベリーショート、と言うにもみすぼらしい坊主刈りだったのが、一気に膝のあたりまで伸びていた。

 一度梳いてあげなくては、不便ではあるだろう。

 幸いマサト自身も髪は長い方だったので、私物の中に櫛くらいは持ってきていた。

 部屋の壁にかけられた姿見の前で、生え際から毛先まで、丁寧に梳き上げてゆく。

「……どんな感じがいいのかな」

「……真っ直ぐに整えてくれればいいよ」

 時折くすぐったがって笑い声を漏らす彼女の髪に、櫛を通し続ける。

 こうして手で触れているのが気が引けるような、プラチナの糸のような銀髪だった。

 きれいだ、と思った。

 他人の髪の毛を、そんな風に思うのは初めてだった。

 ……「みことさん」の黄金の髪も美麗ではあったが、彼女には恐怖しか感じなかったし、どちらが好きか、と言われたら、チ號参拾の銀髪だ。


 そうしている内、彼女が退屈しないように、と思いながら、

「……コサージュ(造花)っていうのは、魔法つかいとは違うのか?」

 と、尋ねてみた。

「……うん、魔法つかいのお父さんとお母さんがいて、お母さんのおなかから生まれるのが魔法つかい。そうじゃなくて、魔法つかいのさいぼうを混ぜ合わせて作るのがコサージュ(人工魔法つかい)だよ」

 判ったような、判らないような。

「わたしたちチ號は、選ばれた魔法つかいの細胞で作られた、とっても高性能な最新型なんだよー」

 君が優秀なのは知っているけれど。と心の中で呟いた。

 と言うか、それでは本で読んだ、クローン人間だの、ホムンクルスだのという代物、のようだ。

 確かにここは魔法つかいなるものの組織の拠点ではあるのだけど、それがこの中でどの程度に特別なのか、というのが良く判らなかった。

 「みことさん」だって規格外の存在ではあったし、犬飼かなめだって、別の意味で区別化されていた。


「……チ號参拾」

「なあに?」

「ほかに何か、してほしいことはないかな?」

 もっとも替えの無いものを、命をもらってしまった。

 できる限りのことをして返さねば、祇代マサトは己を恥じて消え入ってしまいそうだった。

「それなら――えっと、お話が、したい」

 ――もっとマサトくんと、お話しがしたい。と、チ號参拾は返す。

「マサトくんのこと、もっと知りたい」

 と言うのである。

「あ、でもマサトくん、あんまりお喋り得意じゃないんだよね? じゃあ、わたしが聞いてみるから、それに答えて? それならできるでしょ?」

 それが何がしかの彼女への返礼となるとも思えなかったが、

「まあ、そんなことくらいだったら」

 と、応える。

「……じゃあねえ……そう、だ」

 話題を探すように小首を傾げてから、ひとつ頷いて。

「マサトくんは、お日様、太陽って見たことある?」

 チ號参拾はそう問いかけた。

「……それは、空に出てる、アレ、のこと?」

 あるよ。と答える。

「じゃあ、お月様は? 毎日形が変わるって本当? ツクヨミさまみたいにきれい?」

 それもある。と答えた。

 ツクヨミ、というのが良く判らなかったが……

「青い空は? 白い雲は? たくさんの星は?」

 それも、ある。と、これもマサトは返す。

 ふざけているのかとも思ったが、彼女の口ぶりから、そうではないらしい。

「すごい、すごい! ねえ、空が青いって、どんな感じなの? 」

「ちょっと、待ってくれ」

 ――そんな事で賞賛されるなど想像の埒外で、当惑しながら聞いてみる。

「君は、……ないのか?」

「うん、無いよ?」

 冗談では、ないらしい。

 この子は、本当に、空をみたことがない。

「……海は?」

「……それは、ないかな」

 何分、遠出と言うものができないので。

 マサトも海と言うものを見たことはなかった。

「そっか、じゃあ、そこはおんなじだね! いっしょだね!」

 その答えに親近感を抱いたか、嬉しそうに彼女は言う。

 けれど、マサトは寒気を感じていた。

 こんな子が、まともに空を見たことがないって、そんなことがあり得るのだろうか?

 この子はこれまで、どんな風に育ってきたのだ?

「じゃあ、地球って、見たことある? ――こういうのだよ?」

 チ號参拾は患者衣のポケットから、小さなノートを取り出すと、その1ページを開き、折り畳んで挟み込んであった一枚の紙きれ――雑誌の切り抜きを大切そうに広げて、マサトに見せた。

 そこには、白い部分と、緑色や茶色に見える部分以外の大半を青い色で印刷された球体が写っていた。

「……こういうのは、ないかな」

 と答えた。

「ないの? 外から来たのに?」

「……ああ、ふつう、こういう風には見えないんだよ」

 と説明すると、わかったようなわからないような顔をして、

「でも、知ってた? 地球はね、こんな風に青くて、とってもきれいなんだよ?」

 と、得意げに言って見せた。

「わたしは、地球がいちばん好きだな。マサトくんは?」

 ――地球が好きだ。

 単体で言われると、なかなか力のある言葉だった。


 地球の環境は祇代マサトが生存するには過酷だが、地球以外の天体、例えば月とか太陽とかは、もっと過酷だろう。

 何となく、「みことさん」は太陽が好きそうな感じがする。

 彼女なら太陽表面でも平然としているだろう。

「……なら、ぼくも地球だ」

 少し考えてから、そう答えると、

「そっかぁ、ならいつか、マサトくんにも見せてあげるね!」

 チ號参拾は、えへへー、と笑い返すのだった。

 何となく、いつまでもチ號とか参拾と呼び続けるのも失礼な気がしてくる。

 一応それが彼女の名前と言う事になっているのだけど。

 仮にも命の恩人だ。


 チ號・参拾。

 彼女を表す言葉。

 まさか、チ號が名字で、参拾が名前と言うわけではないだろう。

 というか、まるで型式番号だ。

 「チ號ちゃん」「参拾番ちゃん」

 ……どっちも、どこか失礼な感じがする

 或いはもっと親しくなって、気のおけない間柄にでもなれば、そう言う呼び名でも、情をこめられるものかもしれないが。

「……君に」

 と一度、呼びかけてみる。

 もしもこれで、

「もう、わたしの名前はチ號参拾だよ」

 とでも返されたら、彼女なりにこの名に矜持を持っているであろうと思われるので、ココから先を口にするのは憚られる。


「ん、なあに、マサトくん」

 と、予想に反してニュートラルにそう返されたので、そのまま続ける。

「その、チ號参拾っていうのが、君の名前だよな」

「うん、わたしの番号だよ? ……変かな?」

 どうも彼女にとっても、それは番号であるらしい。

「……もしかしたら余計なことかもしれないし、それならそう言ってくれていいんだけど」

 我ながらおかしなことを言ってるな、と思いながら、

「……これから一緒に暮らすなら、君に名前を送りたい」

 と、告げた。

「名前? わたしに?」

 チ號参拾は、

「マサトくんのマサトとか、戦部さんのユウスケとかいう、名前のこと? マサトくんが、つけてくれるの?」

 ああ、と頷いて、

「チ號参拾って名の方に愛着があるって言うなら、そう言ってくれれば、二度とこんなことはぼくは口にしない」

「……わたしは、コサージュなのに?」

「…ぼくには、そういうのは良く判らない」

 彼女はコサージュ。――人工の魔法つかいである、ということだったが。

 コサージュに名前があるのはおかしいのか、型式番号でなければいけない理由が何かあるのか、その辺は知ったことではなかった。

 ふつうと違う。という一点では、自分だって十分に普通ではないだろう。

 戦部ユウスケはともかく、先刻のイワクラ氏辺りはとやかく言ってくるのかもしれないが、自分が呼ぶだけであれば、余所からとやかく言われる筋合いもないだろう。

 ここのしきたりや習わしなんぞ知らないのでそうしました、と言い張るだけだ。

「……じゃあ、お願い!」

 思いのほか好印象。

 嬉しそうに、彼女はそう答えた。

「欲しいなって思ったこともあったけど、誰も呼んでくれなかったから、諦めてたの。マサトくんが付けてくれたら、わたし、嬉しいと思う」

 そう言って、さあどうぞ、と言うように、彼女は居住まいを正す。

 さて、勢いでここまで話を進めてしまったが、どう名づけるか。

 誰かに呼び名をつけてみるというのは初めての経験だったし、何分親しい友達と言うのもいなかったので、自分にあだ名がつくようなことも、ついぞなかった。

 強いて言うなら「マサトにいさん」というのがそれなのだろうが。


 ……多少なりとも、元の呼び名とつながりのある方がいいだろうか?

 そんな風に思い、少し考えてから

 ――「チ號」

 ――「参拾」

 ――「チ・三十」

 ――「チ三十」


 声に出して、呼んでみる。


「――ちさと」


「ちさと、はどうかな?」

「……それが、わたしの名前?」

「ああ、いま、いろいろ考えたんだけど」

 マサトは彼女の手から小さなノートを受け取り、新しいページを開いて。

「たぶん、こう書く」

 漢数字の「千」に続けて「紗」「人」

 と、書きつけて、彼女に見せて、

「千紗人――こう書いて、ちさと、だ」

 ――あ、いや、気に食わなかったら、忘れてくれて構わないけど。どうかな。

 と、付け足し、感想を尋ねると、

 彼女は大きく横に首を振り、

「……ううん! …名前をもらったの、はじめて! うれしい!……とってもうれしいっ!」

 と声を上げた。

 飛んで、跳ねて、くるんとその場で一回転。

 全身で喜びを表現する。

 年相応に小柄な中で、やけに立派なサイズの双球が弾んだり、丈の短い患者衣の裾がひらひらと揺れたりするので、何となく、目を反らす。 

 心肺停止の後遺症などまるで見受けられなかった。


「……じゃあ、ねえ、マサトくん。わたしの名前、呼んでみて!」

 マサトの前に向き直り、彼女は神妙な面持ちで、そう言った。

 わかった、と一度頷いて、

「……ちさと」

 と、呼ぶ。

「………っ」

 彼女の頬が緩み、ほんのり赤く染まるのがわかった。

 少なくとも、響きは気に入ってもらえたようである。

「はいっ!何でしょう!」

 彼女らしい、柔和な声でそう言うので、

「呼んでみただけだよ」

 と返す。

「もう一回、呼んでみて」

 と望まれたので、

「ちさと」

 と、もう一度呼んでみた。

「……えへへっ」

 表情がとろけるのが恥ずかしいのか、今度は両手で顔を覆いながら、

「はい、何ですか?」

 と言う。

「だから、呼んでみただけだよ」

「……もう一回、おねがいします」

「ちさと」

 三度目に呼んだ後に、

「気に入ってもらえたかな?」

 と感想を聞いてみた。

「………はいっ」

 と答える彼女の顔を見るだけで、聞くまでもない事のようだった。

 

 彼女は改めて、マサトの前に立ち、患者衣の襟を正して、背筋を伸ばす。

「……えっと、チ號参拾あらため、ちさと」

 そして、かるく患者衣の裾を指で抓んで、ぺこりと一礼。


「――今日から、マサトくんのお世話係になります。これからよろしくね、マサトくん」


「ああ、――よろしく、ちさと」

 しばらくの間、興奮冷めやらぬ、と言う感じに浮かれていたちさとだったが、ようやく落ち着きを取り戻して、ふたり並んでベッドに腰掛けながら二三の会話を交わす中、 

「……ねえねえ、どうして、マサトくんはそんなに優しいの?」

 と尋ねてきた。

「優しくは……ないよ、うん」

 優しい、なんて、祇代マサトともっとも縁遠いことばだ。

 ほんの一年ほど前の自分ときたら、まるで怨みと憎しみの塊だ。

「だって、凄いと思う、わたしをこんなにうれしい気持ちにしちゃうなんて」

 ――喜んでもらえてうれしくはある。

 けれど、これほどまでに感動してもらえるとは思っていなかった。

 そして、次の彼女の言葉は、

「……わたし自身のものって、今まで何もなかったんだなあって、今思ってるんだ」

 ――マサトの背筋に、冷水を流し込んだ。

「この服も、このノートも、わたしのものじゃなくて、教皇院のものだから」

 彼女と会話をする中で、時折違和感を覚えることがなくはなかったが、――彼女はいったい、どういう風に育てられてきたのだ。

「――でも、わたしの命だけは、わたしだけのものだから」

 コサージュ、人工魔法つかい。

 その実情をマサトはまだ詳しくは知らない。

 だが、戦部ユウスケや嵯峨かのんはともかく、先刻のイワクラ氏のような連中が、作られた命、ヒトでないヒト。――そう言う存在をどう扱うか、想像しただけで、吐き気がこみ上げてくる。

「わたしからの贈り物をするのも、受け取ってもらったのも、初めてだ。――ああ、わたしがいのちをあげたのが、マサトくんで良かった」

 ――だからって、自分の命そのものを、はいそうですかと他人にくれてやる奴があるものか。

 こみ上げてきたその言葉を、マサトはかろうじて喉の奥に押し留めた。

 どんな顔をしていればいいのかわかなくて、困ったように眉をひそめるマサトの前で、ちさとは微笑んで、 

「名前をくれたお返しに、マサトくんの願いを、ひとつ叶えてあげたいな」

 と、言った。

「……ぼくに、願いはないんだ、少なくとも、いまは」

 それに、既に返しようがないほどの、彼女の恩寵に自分は預かってしまった。

 これ以上を望んだりしたら、天罰が自分を砕くだろう。

「……じゃあ、いつか、マサトくんの願いが見つかったらでいいよ。叶えたい願いができたら、わたしに教えてほしいな」

 そう言ったちさとは、――次の瞬間、身を翻し、はっと耳をそばだてた。

「どうかしたのか、ちさと」

 何事か起こったのか、音も、何か起こったような衝撃や振動も、マサトには何も感じられない。

「……何か、変だ」

 と、左右に視線を巡らせて 

「……ここ、離れた方がいいのかも」

 ちさとは、そう言ってマサトの手を取り、立つように、と促した。


 ――刹那。

 けたたましい非常ベルのサイレン音が、耳をつんざいた。



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― 新着の感想 ―
[一言] 尊い。登場人物2名のみの密室会話劇ですが、出会って間もない二人の関係性が一気に強くなっていく様子が丁寧に描写されていて密度が高いですね。 ちさとさんの天使ぶりがとどまるところを知らない。 …
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