紅い巨月
この作品は、公式イベントの『夏のホラー2017』に投稿予定のホラー小説です。
作者である木漏れ日亭の書く、他のハートフルな作品とは一線を画すものですので、ご注意下さい。
また当作品は、同じイベントに投稿予定の「おれのをかえせ」の別伝となります。
この作品単体でもお楽しみいただけますが、先に前述の作品をお読みいただいてからですと、より味わい深くなるものと考えております。
~夏のミステリーツアー企画!! IN 裏野ドリームランド とびっきりの恐怖体験を、あなたも味わいませんか?~
そのチラシが近隣各戸に配布されたのはつい数日前のことだった。
今はもう廃園になって再開発が決まっているだけに、企画自体は今年一回限りの特別なものだということで抽選が行われたそうだ。大層な人数が参加する一大イベントになるようで、ニュースにもなるほどだった。過去にあったこの遊園地での事件だか事故だかが面白おかしく取り上げられてもいた。
まあ俺には関係ないけどな。俺はそのチラシをくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に放った。
第一俺は遊園地というものが大の苦手だ。なんでわざわざ怖い思いをしに人混みの中に行かなきゃいけないんだ? その気が知れない。まったく理解できないし、したくもない。ましてや、廃園後の遊園地になんて誰が好き好んで行くもんか。
◇◇◇
「酒見さん、ちょっといいかい?」
「はい? なにかありましたか?」
引き継ぎも終わって下番しようとしているところを、隊長から呼び止められてしまった。
嫌な予感がするのは、毎回この問いかけの後には必ず決まって言われることがあるからだ。
「ああ実はね、次長から臨警要員の供出依頼があってね。困ってるんだよ」
ほうら来た。毎度毎度思うことだが、ふざけるな、だ。
なにが供出依頼だ? 俺ら現場の警備員はモノか? 差し出せっていう意味だぞ、供出とは。それに困るのは隊長、あんたじゃない。あんたは俺らを臨警に行かせるだけで、自分では動こうとしないじゃないか。ああシフト調整が大変だ、時間外労働は均等になんて、あんたの言葉がどれだけ薄っぺらいか判ってるのか?
「……なんの警備ですか? 緊急工事なら明けなんで無理ですよ、誘導に支障出ますから」
たまにある緊急工事の現場に、交通誘導を派遣することがある。
見かけたことはないだろうか、国道や幹線道路などで消火栓やガス管、電柱が交通事故や老朽化による損傷、倒壊するなどして復旧工事がされているのを。
工事する業者も大変だが、誘導業務にあたる警備員も相当な負担を強いられるものだ。生半可な人員を送り込む訳にはいかず、俺みたいな資格持ちが真っ先に矢面に立たされる。
今は故あって、施設警備で常駐先の出入管理や鍵の貸出業務をメインにしている俺だが、これまで培ってきたキャリアをこういう時ほど、恨まない訳にはいかなかった。
「いやそうじゃないんだ。雑踏警備だよ、イベント会場のね。警備隊の隊長を酒見さんにやってもらうよう次長から厳命されていてね、こっちのシフトを調整しなきゃいけなくなってるんだよ。ああ大変だ、だから隊長職は辛いよ……」
おいおい、依頼じゃなくて既に決定事項じゃないか。しかもよりによって現場の隊長を厳命されているだって? 冗談じゃない。今更なんなんだ、こういう時だけいいように使えると思っているのか、奴は。
「勝手すぎますね。本隊業務が最優先じゃなかったんですか、社の方針は」
「そんなことは知らないよ。私は渋々、仕方なく君を行かせるんだからね。こっちこそいい迷惑だよ、どうしてこんな人が部下なんだか……」
後の言葉は聞かなかったことにしてやる。腹を立ててもなんの意味もない。特に現場では。
「分かりました。では警備計画書、警備要領を下さい」
「へ? そんなもの届いてないよ。警備隊長の君が作成するんだろう? 勝手に現地で確認してよ、私の知ったことじゃないからさ」
やっぱり、ふざけるな、だ。
◇◇◇
もう梅雨は明けたんだったろうか。日差しはギラギラと俺の身体を焼いて痛めつける。身体だけじゃない、精神も傷んでいる。
行きたくない本社に顔を出した途端、総務連中からは視線を外され、警備部の次長はふんぞり返りながら、
「おお、酒見君だったね、確か。現場の警備員をいちいちすべて把握しきれなくてねえ、許してくれたまえよ」
こう宣いやがった。
どの口でそんな世迷言を言いやがるんだ? お前のせいで俺は……いや、止めておこう。反抗するだけ相手の思うつぼだ。努めて冷静に、慇懃無礼なほどに。
「いえ、現在の隊数と人員の数から言えば致し方ないことかと。それで私は何処に誰宛てでお伺いすればよろしいのでしょうか? 現地視察の上、警備計画書を作成し要領に落とし込みしないといけませんから。なるべく早急に動きたいんですが」
「はあ? 君は何か勘違いしているんじゃないのかね、そんなこたあ既に済ませてるに決まってるじゃないか。君はただ現場で私の指示に従って警備員を配置して、私の言う通りに忠実に警備業務を遂行すれば良いんだよ。余計なことを考えず、私の顔に泥を塗るような真似は慎むんだな。現場の警備員風情がなにを増長して言ってるんだか、理解に苦しむね。まったく」
ふざけるな。
そこから俺は、なにも考えない、なにも余計なことをしないただの人形に徹することにした。
どんなに警備計画が杜撰で、現場の警備員が業務を遂行するための重要な指針である警備要領がいい加減なものであっても。配属される警備員たちが右も左も区別がつかない中途採用者や、助成金目当てで雇用されている後期高齢者であってもだ。
◇◇◇
警備実施当日になった。俺は後部座席でふんぞり返る次長を乗せた社用車を、裏野ドリームランドの駐車場に乗り入れた。
まるで別次元だよな、廃園した遊園地ってものは。ただでさえ非日常を味わうべき場所が、巨大なお化け屋敷かなにかに思える。俺は遊園地嫌いもあってか、なかなか車を降りる気になれなかった。
「おい、なにを悠長にしてるんだ。早く外に出てドアを開けないか。示しがつかんだろうが、隊員どもに」
「……はい、失礼しました」
俺は妻と子供の顔を思い浮かべ、眉間に集まる皺を散らす努力をした。成果はあったようだ。園の門前に着けた車から滑るように出て、後部ドアを開ける。ドア上部に手をかざし、警備対象者の頭部を守るようにしながら。
「ふん。それで良いんだよ、臨時の警備隊長殿」
睥睨するように俺を見下すこの男に、今日この場で天罰が下りますようにと願った。そのためだったら俺は、悪魔にだって心臓を差し出すだろう。
イベントの開演は午後七時からで、警備手順の説明や配置ををするために現場に二時間前に集合になっていた。次長を降ろした後に駐車場の一番奥の不便な場所に停めたせいで、集合場所になっている門前まで少し歩くことになる。
歩きながら、周辺に集まっている警備員の服装や態度、言動を確認していく。思った通り、全体的に質が悪い。これでは適切な警備業務を遂行出来ない恐れがある。頭が痛くなってきた。
「遅いぞ、なにをもたもたしとるんだね。早くあいつらに集合をかけないか。私は主催者を呼びに行ってくる。くれぐれも恥をかかせないでくれたまえよ、まったく」
「はっ。直ちに行動開始致します」
俺は次長に対し正対をして敬礼をするが、受けた側は返礼を返すこともなくその場を後にした。
ふざけるなよ、おい。
上長が返礼をしないだと? どれだけクソなんだ、お前は。
たぶん俺の顔はひどく怒りによって歪み、集合をかける声は怒声に近かったろう。どんなに抑えようとしても、なかなか自制できるまでには時間がかかってしまった。
◇◇◇
「お疲れ様です。本日は当園のイベントに際し、警備をお願いすることになりました。警備員の皆さん、暑い中お集まりいただきありがとうございます。私は主催者の娘で、主催者に代わって対応することになっています、新坂あけびです。どうぞよろしくお願いいたします」
そう挨拶したのは、まだ年の頃十五、六の中学生だった。
制服をきちんと着こなし、四列横隊に居並んだ大の大人六十名に対して臆する素振りも見せない。それだけではなく、その顔は年に似合わないほど、あえて言うのなら妖艶さを醸し出してさえいた。
すぐ横にいる次長の顔がなにかおかしく感じた。ついさっきまでの居丈高さが消え失せ、その顔は能面のように無表情で、まるで生気が感じられない。クソのことなんてどうだっていいが、様子がおかしい点は長い警備業務の経験から、警戒するに値するものだった。
「では警備の内容は、こちらの方にご説明していただきますね。お願いできるかしら?」
新坂あけびと名乗った娘が、俺の方を見ながらこう言った。その顔を直視した途端、俺は電流が走ったように自身を屹立させてしまった。なぜなら、真っ赤に艶めいているその唇が舌なめずりをして俺を誘っていたからだ。頭の芯の方で警告が鳴り響いた。これはまずい、とても危険な状況だ。明らかに何かが狂っている。
俺は全神経を総動員して、意識をその唇から引き剥がすことになんとか成功した。整列する隊員の方に向き直る直前、娘の顔が一瞬だけ歪んだ気がした。
「そ、それでは警備実施にあたり、配置場所、内容について説明する。まず警備対象施設はミラーハウスとドリームキャッスルの二つで、それぞれ三十名ずつに分かれて警備に当たるように。それぞれの隊は更に施設内での来場者誘導業務と、外周での雑踏整理をする者に二分すること。事前に決めた班長が詳細を把握しているので、その指示に従うこと。以上だ」
なんとか平静を保って言い終えた俺は、娘に目線を合わせないよう意識して下がる。
怖い。すぐ横にいるこの娘が、どうしようもなく怖く思える。俺の子供より少しばかり年上の娘にこんな感情を抱いてしまうなんて。しかもさっきはあんなに興奮してしまった。俺は一体どうなってしまったんだ? 娘を挟んで向こう側にいる次長が、ふらふらとしながらだらしなく口元から雫を垂らしているのが見えた。
まずい、まずいまずいまずいまずいまずい、いやうまそうだあのくちびる……
はっと頭を強く振って意識を取り戻す。
今俺はなにを考えていた? なにを見ていたんだ? このままこの警備業務を本当に実施しても良いんだろうか。おかしいのは俺の頭だけで、なんにも問題はないんだろうか。
こうして俺は自分の意識が静かに壊れていくのを感じながら、始まってしまったイベントを正そうとも思いながら現場を回った。
◇◇◇
隊員の配置が終わり、班長に現場を任せていよいよイベントに参加する来場者を迎え入れる段になり、俺は次長に警備業務実施の合図を出してもらうよう、本部に指定されているドリームキャッスルの技術室に向かった。
技術室は地下にあり、階段を降りていくと少しずつ気温が下がっていくように感じられた。自分の腕を見ると、異常なほどに鳥肌が立っていた。まあこんなもんなんだろう、新鮮な肉なんかを味が落ちないようにするには低温貯蔵が向いているって言うしな。
そんなことを靄がかかったような頭の中で思いながら地下道をすすんでいくと、連絡用に持っている携帯電話がけたたましい音を立てて鳴った。
心臓がその音に反応したのか、飛び跳ねるように動いた。俺は朦朧としていた頭を強く拳で叩いてから、鳴り立てる携帯を開いた。
「こちら警備隊長。なにか?」
「た、隊長、大変ですっ、中の連中が、中の連中が」
慌てふためいた班長の声が地下道に響く。
「班長、慌てるな。冷静に事態を報告しろ」
「お、おかしくなりやがったんです、みんな。中に入った後配置場所から離れて、今続々と表に出てきて俺たちを、仲間を襲ってます。ああ、どうなってんだ、一体。喰われてる、目の前で喰われてるよお、出てる、出てるよお、どろどろだあ。あいつらお客さんに突っ込んでいきやがった。す、すげえや、隊長。大混乱ですぜ、鏡が割れて綺麗だあ、あははは~、げっ……」
それっきり応答する言葉は聞こえず、聞こえてくるのはなにかをすすったり、ぐちゃぐちゃと噛みしだく音だけだった。
俺は携帯を呆然と見つめていたが、もう必要ないと考えてその場に落とした。
目の前に部屋が現れた。技術室と書かれたその部屋に用事があったはずだが、俺はどうにもこの部屋に入ってはいけないという、強い強迫観念めいたものが頭の中全体を覆い尽くしているのを感じた。
まずい、まずいまずいまずいまずいまずい、うまそうだったあのくちびる、あかくてつやめいてて、いろっぽくて、せんじょうてきでおれをたたせる、くってもらいたい、くいたい……
自然と手がドアノブにかかっていた。さっきまでの警告が頭の中で鳴り響いているが、俺の手は止まらずにノブを回して外に静かに開いた。
部屋の中は薄暗く、雑多な道具類がそこかしこに散乱している状態だった。部屋の隅の僅かな場所だけが開けていて、そこには椅子のようなものに鎖で縛り付けられた次長が、放心しているのか恍惚としているのか判断がつかない顔で座らされていた。目を凝らしてみると、次長は真っ裸だった。
「次長、次長っ。どうされたんですか、ここはなんなんですか、園全体が狂ってますよ。今すぐ警備を中断して撤退しましょう。今なら、今ならまだ間に合うかもしれません」
ようやくそれだけを意識を保ちながら伝えたが、次長は焦点の合わない目で俺を見ながら泡を飛ばすように喚いた。
「なにをいっとるかあ、わ、わらしのかおにいどりょをぬるひょうなまねぅおするにゃあてありぇひょどいたじゃにゃるり……」
まったくろれつの回らない口元が、白く汚い泡で塞がれるようになったのを見計らったように、あの娘が暗がりからにじみ出るように現れた。
「隊長さん、よくお越しくださいましたね。先程上の方たちに指示を出しましたから、もう少しでお仕事は終わりになりますよ。どうですか、こちらにいらして念願を果たされては?」
念願? 俺はなにか願っただろうか。もう正常に頭が回っていない俺は、いくら考えてもなんの答えも出てこないのに苛立ちを感じた。
「お、俺がなにを念願したって言うんだ? ただ俺はこの警備が上手くいくことだけ思って、それで……」
「うふふっ、もう。そんなおためごかしはいらないわよ? ここに来た時にお願いしてたじゃない、はっきりと。ちょうど私もしたいことあったから、おせっかい焼いちゃったけどね」
「俺はこんなことを願ったりなんかしていないぞ、誰がこんな、こんな事態を望むって言うんだよお」
知らないうちに俺は、涙と鼻水を垂れ流していたようだ。目の前がぼやけている。近くにあの娘がやって来る気配がする。それに合わせるかのように、むせ返るような淫靡な匂いが濃くなっていくのがわかった。
「だからあ、これは私がしたかっただけなんだからいいの。隊長さんが願ったのは、この次長さんに天罰を与えてくださいってことでしょ? あ、でもごめんね、私あっちの方じゃなくってこっちなんだ」
そう言って娘は、右手の人差指を上から下に向けた。
「でも良かったわ、隊長さんがいてくれて。だって次長さんの出す汁、美味しくないんだもん。苦労を知らない人はだめね、人間味が薄くって。その点隊長さんは大丈夫ね。とってもとっても好い味してそう。もう私、我慢できないわ。後は任せてね? ちゃんとまずくってもあれは片付けとくから。じゃあ、いただきます♪」
そう言うと、娘……あけびだったけか、は、俺の口に、その艶めかしい赤い唇を押し付けてきて、俺の中に、入り込んだ。
◇◇◇
「あなた、早くしてくださいな。もう行かないと月が翳ってしまうから」
「ああごめんごめん、瓶詰めに手間取っちゃってさ。復活してもらうのにはこれでもまだ足りないんだよなあ」
「大丈夫よ、次の場所もパパが作ったところだから。同じように最初は少しずつ、それから一気に。そうすれば気づかれないうちにパパを呼び戻せるわ。そう、今度こそね」
あけびは、そう連れの若い男に告げると空を見上げた。
見上げた先には、常より紅く、禍々しいまでに輝く巨月が二人を照らし出していた。