信じられない存在 ――別れ――
少し先に飛びます。めまぐるしくて申し訳ない。
伯父さんと二人での生活。
謎の伝染病が発生したと、避難勧告の放送があった後。家に残りたがった僕を『一人にはしておけない』と、伯父さんは一緒にいてくれた。
伯父さんと仲良くなって安心した母が、父さんの出張先にいった数日後。
外で争っている音で、目が覚めた。
(誰かが何かと戦っている?)僕はおそるおそる、窓から外を確認すると、伯父さんが掴みかかってくる血だらけの誰かとともみ合っていた。血だらけのその人は、お腹に穴があいて、何か赤黒い物が少し飛び出している。一瞬時間が止まり自分の目を疑った。こんなに血だらけの人を見るのは初めてだった。これはまだ夢の中じゃないかと疑う。しかし今が現実なんだとリアルな音と芳香剤の匂いが告げている。足が小刻みに震える。止めようとしても、僕の膝は笑い続けた。
腹から内臓が飛び出るような怪我をしても平然と動いている。これではまるで映画の中のゾンビじゃないか……。
『ゾンビ』それは動く死人。生きた人間を見ると襲いかかり、噛まれると感染する。腕がもがれようと、足を失おうと、這いずってでも執拗に追いかけてきて生者に襲いかかるバケモノ。そんな存在が――――。
伯父さんが地面に叩きつけられる、
「まずい! なんとかしないと!」
僕は出来る限り急いで玄関へ向かい、引っかけるように靴を履き、ドアを叩きつけるように開けて飛び出す。
そこには血だらけの人に組み敷かれつつも、懸命にもがく伯父さんがいた。伯父さんは二の腕から血を流していた。
「伯父さんその人――」
「――近寄るな! 例の病気かもしれん!」
伯父さんが狼狽して叫ぶ。
(病気? 警告されている伝染病? 人が凶暴になり人を襲う? 頻発する通り魔事件? 尋常じゃない出血の暴漢……ゾンビ? でもそんな事が――)
伯父さんの言葉にボーっと意識を失うように逡巡してしまう。思考停止している僕に警告するように、伯父さんが声を張り上げた。
「ヒカル! 家に入ってろ!」
「伯父さん!」
まだ何もしていないのに心臓がバクバクと脈打つ。伯父さんを助けるために、震える足で駆け出そうと――。
「――来るな! 逃げろ!」
「で、でも!」
(どうにかして助けないと! でも僕なんかが素手で止められるのか?)
ここにきて僕はなんの武器も持ってない事に気づく。周囲に首を巡らせ、なんとか武器になりそうな物を探す。立てかけてあったシャベルが目に入り、急いで取りに走った。シャベルを手に取ったその時――。
「――ぐああぁっ」
伯父さんの尋常じゃない悲鳴が背後で聞こえた。
僕はギョッとして振り返ると、伯父さんが首筋を噛まれていた。噛まれた場所から大量の血が流れ落ちる。現実感の無い光景。こんなのフィクションの中でしか見たことが無い。腸を体の外に引きずり出されてもなお動き続ける歩く死人なんて。それが目の前に……いる。人が人に噛みつく光景と、伯父さんの首元から流れる信じられないほどの大量出血に僕は放心してしまう――。
「逃げろ……早く……」
伯父さんは全力を振り絞ってなんとか拘束しようとゾンビにしがみ付く。そして弱々しく言った。
魂が抜けかけていた僕はハッと我に返る、
「くっ!」
僕はシャベルを取り、柄を潰すほど握りしめて伯父さんの元に走った。そしてゾンビの頭めがけて、シャベルを叩きつける。
「くそ! くそっ! この!」
二度、三度とシャベルで殴りつける。鈍い音、肉の潰れるイヤな感触。殴った頭から返り血が僕の顔にかかる。僕は顔をしかめながらも、勢いをつけ渾身の力でシャベルを叩きこんだ。伯父さんの両腕が力尽きたようにだらりと下がり、拘束からゾンビが離れ地面を転がる。
「ハァハァッ……ハァハァ……」
激しい運動と恐怖に興奮した僕の息が上がる。苦しい。喉がカラカラに乾く。舞い上がる土煙が体中の水分を持って行ったように感じる。
そして頭のへこんだゾンビがまたゆっくりと立ち上がる。何事もなかったかのように。伯父さんの返り血を大量に浴びたゾンビは、まるで赤い服をきているように見えた。
「し、死なない……?」
僕は心底ゾッとする。カタカタと歯が震える。なんとかそれを止めようと強く噛みしめる。
どうするどうするどうする。
「うああぁ」
僕は悲鳴を上げ恐怖を振りきるように突進する。シャベルを両手で握り、飛びつくように先端を首に突き刺す、首が少し千切れながらゾンビは地面に倒れこんだ。が、まだ生きている。
僕は倒れたゾンビに近づき、頭を狙って上から突き刺すようにシャベルを振り下ろす。シャベルの尖った先端が刺さり頭蓋骨が割れる感触。続けてもう一撃、シャベルが頭の中まで突き刺さり、やっと化け物は動きを止めた。
「ハァ……ハァッ……ハァ……」
今まで人を殴ったことなんか一度も無かった。それも武器をつかって……なんて……。手にはまだ肉を潰した感触が残っている。骨を砕いた感覚も……。とても不快な『感覚』はみるみる僕の心を蝕んでいく。
恐怖と緊張そして興奮で極限まで心臓が酷使された僕は、今まで経験した事がないほどに息を荒げる。
僕はなんとか息を整える。落ち着け。冷静になろうと自分の胸を抑える。喉が酷く渇く。何でもいいから何か飲みたい。
終わった――――。
ゆらりと何かが背後で立ち上がった。
「――伯父さん!」
振り返った僕の目に映ったのは、今戦ったのと同じ、生気の無い瞳で僕を見つめるゾンビだった。とても低い苦しむような唸りをあげている。
うそだろ……? なんでこんなこと……。
「伯父さん、伯父さん?」 何度も呼びかける。
「僕だよ伯父さん!」 声が枯れるほど叫ぶ。
(もう僕の喉はとっくに枯れ果て、声が出ていないのか?)
僕の必死の叫びが聞こえていないかのように伯父さんは近づいてくる。
「いつものように励ましてよ。」涙腺が熱を帯びる。まだ枯れてはいない。「がんばれがんばれってはげましてよ。」
想いを伝える。普段は言えない。照れくさくて言えない気持ちを。
しかし、虚ろな目は何も言ってくれない、低い唸り声を上げのろのろと近づいてくる。
(もう僕の事もわからないのか? 自分が誰なのかも?)
怒りがこみ上げる。心の底から憤る。
(なんでこんなことしなくちゃいけないんだ?)
僕はもう一人のゾンビにシャベルを振りかぶった。そして殴りつける。見知った顔を持つゾンビを殴る。それはボコボコに殴られるより痛かった。殴るほうが遥かに痛かった。謝りながら殴る。歪んでいく伯父さんの顔を殴る。僕の心が悲鳴を上げる。それでも動かなくなるまで殴り続けた。
スコップを放り捨て、地面に膝をつく。両手を見ると真っ赤な血に濡れている。初めて人を思い切り殴ってしまった。何度も何度も殴り、そして殺してしまった。それも見知った伯父さんを……。僕を助けてくれた恩人を……。掛け替えのない家族を……。もう……二度と帰ってこない。もう二度と…………会えない。何も食べていないのに急激に耐えられない程の吐き気がこみ上げる。そして勢いよくその場に胃液を吐きだす。喉が焼けるようにヒリつき、罪悪感が這いあがるように押し寄せる。目玉が熱を帯びたように熱い。視界が歪み、何かが頬を伝い落ちる。僕は何時の間にか涙を流していた。
これ以降ひきこもった家の中で、一人ぼっちの籠城が始まる。