激昂×憤怒
顔から倒れたのに、強かに鼻を打ったのに痛みは感じない。そんな事より動けない。
(何をされた? 何故? なんで? どうして?)
視界が狭く、暗くなる。瞼が鉄のように重たい。
(僕は死んだのか? これから死んでいくのか?)
「っ! ……っ! っ!」
出ない。声が出ない。
意識が――――――――消えそうになる。
「ッ! 佐々木さん! なんで!」
ナオミの驚きに満ちた声が聞こえる。力を振り絞り首をナオミの方に向けると、僕の名前を叫びながら駆け寄ろうとするナオミが見えた。それを邪魔するように、ナイフを取り出した佐々木が立ちふさがる。立ちすくむナオミにナイフを見せびらかしながら、
「こいつの目、俺を疑うような……気にいらねぇ。俺がこれからナニかするって、疑ってやがったのかよ? あ?」続けて氷のように冷たく言い放つ、「決意かたまったぜ、今ヤる」
僕を見て吐き捨てるように言う。そしてナオミに向き直ると、やさしげな表情に戻り、
「ね~田中さん、こんな世紀末だしさ~一回ヤらせてよ」そして僕に視線をむけ、「ヤらせてくれたら影山君は殺さないでおいてあげるからさ」
隆起した股間を手に持ったナイフで指し示し見せつけながら佐々木が言った。そしてナイフをヒラヒラ見せつけながら、ナオミに近づいて行く。
ナオミは豹変した佐々木を目を見開いて恐れる。そして震える足でゆっくり後ずさる。
佐々木は楽しむように教室の隅へナオミを追い立てていく。
(ナオミっ!)
僕は全身に力を込めなんとか動こうとする、でも動けない。
(頭を殴られた? マヒしている?)
考えを巡らすうちに、目の前に血だまりが広がるのが飛び込んできた。
(っ! これは……っ! もしかして――僕の血なのか! 首を落とされた? まさか……これは、首を落とされて死んでいく僕が、最後にみている光景なのか? 何も手出しできない僕に、ナオミが乱暴される様を散々みせつけたあと、僕をあの世に連れていく? そうなのか?! だとしたら神は本当に残酷だ。いや、なんとか首は動くんだ。切断はされていない。はず……だ)
「ね~助けが来るまで二人で楽しもうよ~。田中さん処女でしょ? 未経験で死んじゃったらさ――」ニヤニヤしながらナオミに近づいていく佐々木、そして、「――もったいなくない?」
「ぃゃぁ……」
恐怖に顔を歪め、どんどん隅に追い込まれるナオミ。
(完全に失敗した……。先制攻撃で倒しておくべきだった。たとえ…………佐々木を殺す事になろうとも……っ! ナオミを守るためにっ……やるべきだった!!)
自分の馬鹿さに呆れ、激しく、この上なく後悔する。これじゃあの時よりひどいじゃないか……。
こんな時に僕はあの時の事、中学一年生の時に起きた事件を思い出していた。ナオミの買い物に付き合ってデパートからの帰り道に、三人組の高校生にからまれた時の事。物すごく怖かった。
僕は震える足で高校生の前に割って入り、ナオミを守ろうと立ちふさがった。でも高校生の一人に顔をぶん殴られて、僕は一発で伸びてしまった。そして倒れこんだ僕に追い打ちをかけるように、容赦なく靴で顔を踏みつけられた思い出。大声を上げて泣き出したナオミに、逆に助けられた思い出。
あれ以来ナオミと一緒に登校することが出来なくなった。忘れられない苦い思い出、やっぱり僕にはナオミを守る事は出来ない。『今』も思い出と同じだ。盾になることすらも出来ないのだ。こんな状況『今』になっても、結局僕は役立たずの情けない負け犬だ。
最悪だそんなの。今更いくら悔やんでも、過去はもう戻らない。そうだ、過去に戻ってあの時の自分は助けられない。そんな事はわかってる。けど今だけは、ここでナオミだけは助ける。僕は死んでもいいんだ、ナオミを助ける事さえ出来れば――――――僕は――――――。
そもそもここに来たのだって、それが目的だ。このままじゃ本末転倒じゃないか。
ここで大事な幼馴染を助けて死ねるなら、今日まで生きてきた意味が一つは手に入る。そうだ、ここでナオミさえ助けられれば死んでもいいんだ僕は――――――。
「やめ、て…」
ナオミが心底怯えたように呟く。
(くそ! くそ! くそ! この! この! この! 動け! 動け! 動け!)
唇をかみしめて全力を振り絞る。口の中に血の味が広がる。
「脱げよ」さっきまで打って変って無表情の佐々木、「それとも無理やり剥かれたいの?」
佐々木は、自分を拒絶するかのように前に出したナオミの両腕に、ナイフを一閃させる。
ナオミの腕が横に裂け血が飛び散る。
「痛っ!」
(こいつ! こいつ! こいつ! こいつ! こいつ! こいつ! こいつ!)
頭の中が沸騰しぐつぐつと煮えたぎる。だが体は言うことを聞かない。今まで生きてきた中で一番の屈辱感と、無力感に襲われる。
(動けっ! 動けよ! 動けよっ!)
佐々木がナオミに掴みかかり押し倒す。恐怖を楽しむかのようにナイフの切っ先をナオミの顔に押し当てる。ナオミの頬に丸い血がぷくっと浮かび上がる。馬乗りになりナオミのブレザーのボタンをナイフで吹き飛ばす。続けてブラウスを引きちぎろうと掴みかかる。
「嫌ぁあっ!」なんとか佐々木の手を防ごうとあがく、「やめてっっ!」
涙を浮かべ苦悶の表情で懇願するナオミが目に入る。
(佐々木……っ! 殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す必ず殺す!!)
悪霊に呪詛が届いたのか、足の感覚が戻ってくる。動ける、もう少し、立てる。
のろのろと立ち上がり、亡霊のようにゆらりと佐々木の背後に迫る。夢中になっている佐々木は僕にまるで気づかない。
僕は佐々木の頭に狙いを定め、膂力を込めた右腕を、肩が軋み悲鳴を上げる程引く。筋肉が限界まで隆起し痛みを通り越した筋繊維がズタズタに引き裂かれる。爪が手のひらに食い込み血が滴るまで拳を握りこむ。そして佐々木の後頭部に拳を全身全霊の一撃を叩きこむ!!
『ゴツッ!!』という音とともに、乾坤一擲の一撃が佐々木の後頭部ど真ん中を捉えた。迷いの一切ない凶悪な一撃に「ぇぐっ!」と悲鳴を上げ佐々木が床を転がる。
舌を噛んだのか、口から血を流す佐々木に、馬乗りになってさらに拳を叩きこむ。一撃、二撃、三撃、四撃、五撃。
殴る。限界を超えた怒りに、もう何も考えられない。ただ殴る。殴りつける。拳の皮が裂け、骨が飛び出る。それでも構わずに僕は殴り続ける。佐々木の哀願も聞こえない。僕は殴る。ひたすら殴り続ける。佐々木の鼻がひしゃげ、歯が根元から折れる。目玉にもかまわず撃ちこむ。頬骨にも、こめかみにも。殴る。十発、狂ったように殴りつける。二十発。佐々木の顔を破壊しつくす。そして僕の指がついに折れる。それでも僕は――――――。
「もうやめて!」
ナオミが駆け寄って僕に抱きつき、「これ以上やったら死んじゃうよ!」悲痛な叫びを上げ、僕の腕を掴み、止めようとする。ナオミの頬には血と涙が混じっていた。
(こんな奴! こんな奴に!)
全身を駆け巡る怒りの感情に、興奮しすぎた僕は声が出せない。『フーッ! フーッ!』と荒い息をたて、僕はナオミに、
(ナオミはいいのか? こんなやつでも助けていいのか?)
問いかけるような視線を向ける。
「もういいから……」
もうだいじょうぶだから、そう言って、ナオミは僕の拳を両手で祈るように包む。
少しずつ冷静になっていく、心を焼き尽くす怒りの炎が小さくなっていく。僕の真っ赤な拳の先には佐々木の歯が突き刺さっていた。小指の爪も剥がれかけている。でも不思議と痛みは全く無かった。
それどころかナオミに包みこまれた右拳は心地よい暖かさに満たされていた。




