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1 どんとこい、ペット相談!

 それは、もう数分前から鳴っていた。ずっと鳴り続けていた。

 電話の呼び出し音である。


 事務机が五つ並べられた小さな部屋の中で、ピロピロと耳の奥を突く電子音が、まるで悪魔を地獄から召喚する儀式の音楽のように、執拗、且つ、かなりの存在感を持って響き渡っている。

 といって、この事務室に誰もいない訳ではない。れっきとして、人は居る。たった二人、ではあるが。


「うるっさいなあ。人が折角、気持ち良く寝ているというのに」


 ぼそぼそとそう呟いたのは、この事務室の奥、窓側の席に陣取った男だった。

 陣取ったといっても、普通に座っている訳ではない。

 黒い皮靴を脱ぎ捨て、薄汚れた靴下の裏をこちらに見せながら両足を机に投げ出したその男は、まさに夢見心地一杯の、うたた寝中だったのだ。

 そんなパラダイス世界の探訪を電話という機器に邪魔された男は、目を瞑ったまま、露骨に不機嫌そうな顔つきをした。


 男の名は、堂部どうぶつづきといった。歳は四十、少し前か。『みんなのペット』という主に犬、猫、ハムスターやカメなど、ペットライフをテーマにした月刊誌の編集長である。

 ちなみにこの雑誌は『愛LOVEペット通信社』というペット雑誌や書籍、その他ペット関連の出版を専門としている出版社の一部門である。編集室はその小さな自社ビルの三階にあった。


 ヨレヨレの汗染みたワイシャツに自分の首をカメのように引っ込ませた堂部が、両手で耳を塞ぎにかかったとき、やっとこの部屋のもう一人の人間、猫田ねこた博美ひろみが口を開いたのだ。


「編集長、電話とってくださいません? 私、今ものすごく忙しいんです」


 それは、社会人三年目の若い女性だった。二十五歳の編集員。

 細く赤い縁の眼鏡を今時のほっそり小顔に乗っけながら必死にパソコンのキーボードを叩き続けていた。彼女が動くたび、良く似合ったショートヘア―が、チラリと揺れる。

 眼鏡の奥に控えた長い睫毛の瞳が、窓際の男をがっちりと捉えた。


「猫田君、電話、頼むよ……」


 夢現ゆめうつつの中で、呟く堂部。しかし、猫田も負けていない。


「働かないつもりですか……。そんなことだから、いつまでたってもウチの出版社はこんなちっぽけなビルのままなんです!」



 ――猫田の云う通りだった。

 この出版社の、一応「自社ビル」と称する建物は、世の中の流れからもうだいぶ前から、取り残されていたのだ。

 

 まるで摩天楼――そんな雲を突くが如く背の高い二つのビルに挟まれるようにして建つ、小さなビル。それが、この『愛LOVEペット通信社』だ。

 傍から見れば、まるで大人に叱られた子どものように、しゅん、と縮こまっているかのように見える。

 このビルが建って、一体何年の月日が流れたのであろうか。

 元々は真っ白すべすべであったろう壁が、今は鉄粉をまぶした様に茶色に煤け、所々塗料が剥がれ落ちたその表面は、ごつごつとした地肌を曝け出していた。



「わかった、わかった。オレが電話に出る!」


 真面目でキュートな猫田の声のトーンが、だんだんと高くなっていくのが、色んな意味で黄信号であることを、堂部は知っていた。彼女の声の変化に気付いた彼は、ガバッと椅子から跳ね起きた。

 ベートーベン的「くしゃくしゃ髪」をガリガリと掻きむしった後、仕方なさそうに一度肩をすくめ、受話器を取る。


「ハイ、みんなのペット編集部。え、何だって? 犬のトムちゃんがごはんを食べない? そりゃあ、そうですよ。だって、トムって犬じゃなくて猫の名前ですからね……。あっ、いや、何でもないです。

 そうですねぇ……それなら、ごはんを細かく刻んで鼻からムリヤリ突っこむってのは、どうですか? え、そんなことできない? じゃあ、近所の動物病院に見せたらいいですよ。じゃ、そういうことで」


 ガチャン


 やれやれ、と顔を上げると、怒りのオーラに包まれた猫田が、堂部の右前で仁王立ちしていた。


「何ですか、今のは。全然、相談になってないです。それに、鼻からごはんを食べるなんて、できるわけないじゃないですか!」


 猫田が、ペンや辞書など、辺りにある物、片っ端からを堂部に向かって、投げつけ始める。


「スマン、スマン。次からちゃんとやるから。な、許して!」


 慣れた体の動きで、堂部が逃げ回る。

 編集部の入り口のドアに、彼が近づいたときだった。ドン、と音を立ててドアが開き、堂部は編集室の内側に跳ね返されたのだ。


 現れたのは、三十歳くらいの、恰幅の良い男。

 重そうに黒光りする一眼レフのカメラを首からぶら提げ、額から吹き出た玉のような汗を、必死にハンカチで拭っている。

 それは、取材係で雑誌編集員――犬山いぬやま三郎さぶろうだった。


「ん? 何やってんです、編集長。ホフク前進の練習っスか? それより、大スクープ! ついに見つけたっス、鼻からエサを食べる犬を!」


 動きの止まった、猫田。

 堂部が、仰向けに倒れながら、ニヤリと笑う。


「な、猫田君……。いるだろ? 鼻から食べる犬が」

「もう、そんなのどうでもいいです! 明日、締め切りなのよ。絶対に間に合わないわッ!」


 やたらめったらと物を投げる猫田から逃げるようにして、堂部と犬山が机の下に滑り込む。


「どうしたんスか、博美ちゃん。いつもに増して、機嫌悪いッスね」

「さあな。全然、わからんよ」



 猫田が暴れる横の机の上に置かれた、一冊の雑誌。それは、「みんなのペット」の先月号だった。


『お悩み解決! ペットのご相談、何でもどうぞ』


 雑誌の表紙には、大きな文字で、そう書かれていた。

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