夏ですので、海に参りましょう
私の住んでいる街は、海のそばにあります。産まれた時から、潮の香りに包まれて生きてきました。
潮の香りというのは、どこか生臭く、ねっとりとした感触をあたえるものだそうですが、それがいつもそこに有ることが、自然であったので、特に感想はありません。ただ、この臭いが無い所へ行くと、妙に落ち着かなくなりました。それは、母親からはぐれた小さな子供の気持ちに似ています。
海の見える高台の一軒家に、私と姉が二人で住んでいます。私は学生ですので、平日は毎日、徒歩20分ほどの高校へ通っています。そろそろ、進路決定の時期が近づいてきているころです。
姉は、基本的に家事を切り盛りしている存在です。料理洗濯お掃除など、私の悪友に言わせると、ほとんど”お嫁さん”とか”専業主婦”のような立ち位置だそうです。美人で優しい姉ですので、そこはかとなく、”お嫁さん”とか言われて、私は嬉しい気持ちになってしまいました。ただ、早く私も独り立ちをして、姉を楽にさせたいな……とは、いつも思っていますが、まれに、魅力的な姉に溺れたいので、わざと生活能力を不全にさせて、いつまでも面倒をみてもらっていもいいかな?とか、夢想することもあります。
夏休み前の今日、そろそろ授業も少なくなってきて、長期休み前のまとめテストみたいなものがあったりしています。うちの高校は前期、後期の2期制で、定期考査は9月末にあります、がそれだと長い休みで、緊張感が少なくなるので、個々の問題点を浮き彫りにするために、休み前にテストを行うのです。
学業そのものは、可も無く不可も無く、淡々と流れていく川のように、知識を蓄えていっています。別段部活動もしていないので、時間にも余裕があります、なので焦ることもなく、学園生活を謳歌しているわけです。
今日の朝食はお味噌汁、野菜の煮付け、だし巻き卵、焼き魚です。街には少し寂れつつありますが、漁港もありますので、海産物の鮮度がよろしいのです。姉は料理上手でもありますので、今朝も美味しく頂いていきます。
ああ、味噌汁の味……『海』を感じさせる豊かな味わいです。
登校前に、少し長く鏡の前で身だしなみを整えます、なぜならば、あせも?でしょうか?急激にあつくなってきた季節に、肌が少々悲鳴をあげて、発疹のような物、が出来ているからです。姉に用意してもらったた、白い軟膏を軽く刷り込み、該当箇所、……手足の発疹が目立つ場所に丁寧に、包帯を巻いていきます。最近は首筋にも出来ているので、薬を日焼け止めと共に塗っていきます。
高校への道すがら、悪友たち……悪ぶった言い方をしていますが、高校で出会った友人や、近所にもともと住んでいた幼なじみとかの、全く普通の方々です……と、バカ話をしながら、登校します。角の薬局の女の子が、細い手を大きく振り回しながら、大げさに今朝の父親がしでかした、デリカシーに欠ける行動を、説明しつつ、憤慨した気持ちの同意を得ようとしています……。もう少し父親に優しくしてあげた方がいいんじゃないかな?とか思ったりしますが、そこまで、父親のセクハラ発言を、あけすけに言う彼女にちょっとどぎまぎしたりもしています。彼女の首筋には白い包帯が巻かれていました。風通しを良くするために長めの髪をあげていた彼女が、私の視線に気がついたのか、ちょっと恥ずかしそうにいいます。なんだか、目立ってきちゃって……とのことでした。
流行っているのかよ?という、高校入学時に友人になった悪ぶっている友人が、笑いながらいいます。また、別の背の高い女の子の同級生が、そうかもね、きっと、『ふーどびょう』という奴なのかも知れない、などと言っています。賢そうな眼鏡をかけた同級生……その実体は、学力などが色々が残念な少女さんです。……その風土病の発音変だよね?
校門をくぐり、数年前に新築された校舎へと向かいます。整備された中庭の中心には、これもまた新しい石碑が立っています。もう7年になるんだな……と思いつつ、それに刻まれた年号をちらりと見ます。
7年前の今ごろ、この街は大きな災害に見舞われました。地震とそれによる津波です。幸い過去の教訓からか、人的被害は少なかったようなのですが、多くの建物がダメになったようです。もっとも、その後の修繕、建築ラッシュで、このクラスの地方都市としては、それらの復興事業で、かえって好景気になった……と聞いています。
中庭の碑は、その災害を忘れないようにするシンボルのひとつです。どうも在校生が数名、海に還って、いったようで、その名前も刻まれています。あとは、長々と、訓示めいたものが刻まれています。遠目にはなにやら、文様のように見えるのが不気味ですね、とは、とある文学青年の友人の弁です。
夏休みに入って、7月の終わりに街は海祭りを開きます。もともとは、こじんまりとしてはいるものの、設備の整った、海水浴場の海開きに合わせていたのですが、7年前の災厄を機に、後ろへずらし、慰霊祭もかねるようになりました。
地元の民話に伝わる、土着の神様……海の龍神様を、奉るお祭りとも統合して、その龍神さまの『ゆるきゃら』も作成して、少々元気のない、この街の町おこしのシンボルにしよう、と画策しているのだよ、と、教えてくれたのは、兄が町役場に勤める社会科の先生でしたか?
魚肉団子好きの『ダンちゃん』は、竜をデフォルメしている、丸まったからだの、ユーモラスな外見をしています。が、あの死んだ魚のような目は、マイナス要素だと、いつも思います。
夏祭りの当日です。私は、姉と共に、祭りに参加しに来ています。裏方の手伝いを少々と、あとは、純粋に楽しむために。姉はデートみたい、とふんわりと、笑っていました。私は、その笑顔にあてられて、赤い顔をしています。
昼間は海辺にくみ上げられたステージで、唄と踊りの出し物です。地元有志の音楽家が、ノリのいいJポップスを中心に演奏します。また、近所の幼稚園の生徒が、可愛らしい子供のお魚の姿で、古い、海神様を奉りあげる踊りを披露します。
露出している肌の所どころに巻かれている包帯が、なんだか少し気になりましたが。その可愛らしく一生懸命な姿にすぐその違和感は忘れてしまいました。
この踊りは、古くから伝わるものを、苦労して、町役場で再現したそうです。数年前に、ちょっと悪ぶっていた自転車屋の友人が幼稚園の先生であるその友人の叔母と一緒に、踊りを再現するために公民館で試行錯誤していたことを、微笑みと共に思い出して、少し、ほっこりとします。
笛や太鼓と、現代らしくアレンジされたシンセサイザーの音が、幻想的な踊りを効果的にサポートしてくれます。地元のケーブルテレビが取材にきているようですが、彼らも、一様にうっとりとして、可愛らしい踊りに見とれています。
夏祭りの夜の部です。海岸に、控えめなかがり火が灯されます。組み立て式の灯籠が等間隔に並べられ、海への道を、あちらこちらへ、形作ります。日はすでに落ちていますが、この日ばかりは、子供達もおとがめなく、海辺にいることができます。海岸の一部の岩だなに、祭壇がくみ上げられており、ここが一番明るいかがり火でライトアップされています。そこには、街で選ばれた海祭りの乙女、私の友人である、角の薬局の娘さんです、が、古式ゆかしい衣装に身をつつんで、やや時代がかった複数の鈴を組み合わせた祭器を掲げています。しゃんしゃんと、虹色に光を反射する、水晶のような光沢の鈴が、静かな波の音に合わさって、夜に響きます。
すると、海への道から、誰かが歩いてこちらにきます。いえ、海への道ではないですね、海からの道ですね。多少海水で濡れてはいますが、彼らは意外にととのった服装で、私の方へぺたりぺたりと歩いてきます。姉さんと私は、ゆっくりとその2人へ近づいてききます。
「お帰りなさい、父さま、母さま」姉は、微笑みながら、言います、海から訪れた両親は幸せそうな笑みを浮かべながら、私達を抱きしめます。
海岸線のあちこちでは、同じような光景が、繰り広げられていました。みな、海へ仕事へ行っていた肉親との久方ぶりの再開に、静かに盛り上がっています。抱擁して、笑みを交わしています、海に濡れるのはみな気にしていません、むしろ、心地よい臭いに身も心もつつまれて、幸せそうです。
人々が、海からあらわれること少し、こんどは、ぐん、と海が盛り上がります。そこには、暗い海水を押しのけて、小山のような存在がありました。それは、巫女の祈る岩棚の祭場へと、ほとんど波しぶきを上げずに近寄ります。薬屋の同級生の少女は、うっとりとした目で、それを見て、その存在に寄り添います。その存在、海の龍神様は、無機質な瞳を巫女に向けると、その暗い海の底を彷彿させる、大きな咥内へと巫女を丸ごと誘います。柔らかな舌が、存外に優しく巫女を包み、岩のような顎門が閉じられます。最後まで薬局の娘さんの顔は幸せそうでした。そして、山の様な巨大な龍神さまは、どこからか聞こえる神楽と共に、また、ゆっくりと、海へと戻っていかれます。
同時に、海より訪れた人々もまた、ぺたりぺたり、と生来の足ひれを動かして、海へと戻っていきます。その数が来た時より増えているのは、家族に誘われて海へと還る陸の住人がいるからです。老若男女関係なく、彼らは海に強く惹かれた順に、そこへ還っていくのです。
彼らは、身にまとっていた包帯をするすると脱ぎ捨て、その下からあらわれた、『銀色の鱗』をひらめかせ、首筋の『エラ』をぱくぱくと試しに動かしながら、歩いていきます。既に裸足であるかれらの足には、水かきが見えていました。
小さな男の子が、母親であろう女性に飛びついて、水かきのある手で、頭へ、よじ上っていきます。母親は、優しく笑っています。父親の方は、それをうらやましそうに見て、海岸に立っています。町役場に勤める広報課の父親は、まだ還れないようです。海に還る人々の抜けた穴をふさぐために、陸の住人をどんどん増やさないといけないですからね……がんばってください。私は冗談めかして、合掌するのでした。
私たち姉弟はそんなドラマを見つつ、両親と別れました。まだ、私たちも還れないようです。姉と弟2人きりの生活に未練があるのかな?と自分の心を分析して、くすり、と笑うのでした。そして、姉もそう思っているから、還らないのかな?と想像して、なんだか、胸が高鳴る私でした。
夏が終わり、9月。新学期です。一緒に登校する友人の中にはもう、薬屋の小柄な娘さんはいません。少しだけ寂しさを感じます。中庭の、石碑に刻まれた、海に還った住人の、名前がひっそりと、増えているようです。例年通り、在校生の1割ほどでしょうか?
人が減って、少し、閑散とした教室に入ります。夏休みの登校期間中に、還っていったクラスメイトの机は整理し終わっています。
ざわざわとした会話のなかで、転校生が来ることを知りました。早くこの町になじんで欲しいなと、思います。さっそく、次の夏祭りの準備に誘ってみよう、と、悪ぶっている友人が話しています。そうですね、早くこの町の臭いに慣れて欲しいな、と、私もぼんやりと思うのでした。
私はたまに思います。実はこの町は7年前の災厄の時に、大きく何かが変化してしまったのではないか……と。しかし、優しい姉の腕の中に抱かれていると、そのような些細な違和感はどうでも良くなってきてしまうのです。
そう、……私に、本当に、姉がいたのかどうかどという、僅かな疑問は、彼女がここにいてくれるという事実に比べれば、まことに小さな、問題にすらならない、ものであったのです。
私は今日も、潮の香りに包まれて、最愛の”姉”と、この街で暮らしているのです。
これからもずっと、ずっと……。
姉の腕のなかで、まどろみながら、私は幸せな笑みを浮かべたのでした。