オトナの週末
ガチャリ
静かに玄関の扉が開き、夫が帰ってきた。
外はそぼ降る雨。時刻は午前1時。
ここのところ、毎週金曜日はこの調子だ。
シャワーを浴びる音がして、続いてドライヤーで髪を乾かす音がする。
キイィイ…となるべく音を立てないように寝室の扉を開き、
隣のベッドに忍び入るように入っていった。
私は薄目を開けてその様子を見ていたが、
特に悪びれる様子も、不審な様子もない。
ただ、帰りが遅いのだ。
しばらくすると軽い寝息がたつ。
今度は私のほうがそっと起き出して、
夫である正哉の顔に自分の顔を近づけてみる。
酒臭くは…ない。
そりゃそうだ。
さっき、車が車庫に入る音が聞こえた。
ということは、同僚と飲んでいたわけではないということだ。
今すぐ布団を引っ剥がして、
首筋とかを確認したい衝動に駆られる。
キスマークなんかついていたら…!?
浮気、確定である。
でも、正哉に限ってそれはないと信じたい。
☆☆☆
私たちはお見合い結婚だった。
私が23、正哉が25で結婚。
翌年には長男正樹が、3年目には長女晶が生まれた。
今、私は45で、夫は47だ。
長男は家を出て、長女も大学1年生。
子育てがやっと一段落したところである。
都市部のIT企業に勤める夫は、物静かで真面目、
かといって気が利かないわけでもなく、
家庭では良い父親、良い夫であり続けた。
その夫の様子がここ最近おかしいのだ。
毎週金曜日、必ず帰りが遅くなるのである。
一度、なんとなく何をしているのか聞いてみたけれども、
はぐらかされてしまった。
そこからますます疑惑が強まった。
晶にどう思うかを聞いてみたが、
『え?お父さんに限って浮気とかないでしょ?』とサラっと言った。
私も、そう信じたいけれども…。
でも胸騒ぎが止まらないのだ。
ベッドの中、まんじりともせず過ごす。
そして、とうとう私は決意した。
『次の金曜日…後をつけよう』と。
☆☆☆
次の金曜日、パートを休み、私は正哉の会社の近くで待機していた。
夫が車で会社を出る時間は分かっている。
自分の車の中でじっと、会社の駐車場を眺めていると、
夫が時間通りに会社から出てきて、車に乗り込むのがみえる。
時刻は18時ちょうど。
ここから家まで普通に帰れば30分ほどだ。
午前1時になどなるわけがない。
夫の車が滑り出したのを見て、私の車のアクセルを踏む。
今日こそ、真相を突き止めるんだ。
☆☆☆
夫の車は、会社近くのスーパーに止まった。
そこで降りて何やら買い物をしている。
一応遠目で確認してみたが、缶詰だの氷だのを買っているようだった。
一体、何をするつもりだろう。
とても嫌な想像をしてしまった。
夫は結構料理が上手だ。
昔、私が子育てで忙しかったときなんかは朝早く起き出して、
朝ごはんと夕ご飯を作ってくれたものだった。
子どもたちも、お父さんの料理が大好きだった。
もちろん、私もだ。
でも、今この状況は…。
このまま浮気相手のマンションかなんかに行って、
そこでそいつのために料理をしたりして、
そしてその後は…
ぶるるっと私は頭を振った。
それは、すごく嫌な想像だ。
買い物袋を抱えて車に戻ると、後部のトランクに入っているクーラーボックスにそれらを入れ、また走り出した。
車は幹線道路を走り、街とは反対方向に向かう。
結構、長い距離を走る。
どこまで行くつもりだろう…
もしかして、郊外のラブホテルに行くのだろうか。
ギュッとハンドルを握る腕に力が入る。
夫の車は山道に差し掛かった。
そしてたどり着いたのは…。
☆☆☆
コンロに掛けたシェラカップの中で、クツクツとスープが煮えていた。
その横では先程までコンロに掛かっていたホットサンドメーカーが余熱でもって中のサンドイッチをこんがりと焼き上げている最中だ。
スープのでき具合を確認しつつ、
手早く調理に使った調味料やら用具やらを片付ける。
あとは待つだけだ。
車の後部にキャンプ用のサイドオーニングを設置してあり、
そこにLEDランタンが吊るされている。
足元にくゆる蚊取り線香の煙が漂っている。
少し顔を上げると、目の前には暗く静かな湖が広がっており、
その向こうには静かな森が佇んでいた。
先ほど濃いめに落としておいたコーヒーを、
氷をいっぱいにしたカップに注ぐ。
カラカラと静かに氷が溶ける音。
そして、それを追ってふわりとコーヒーの良い香りが漂ってくる。
ほう…と息をついた。
そろそろ、スープができたかな?
今日のメニューは…
サバ缶で作ったホットチリサンド
サバ缶ベースの具だくさんトマトスープ
そして、
アイスコーヒー
デザートにはマシュマロを焼いて食べる予定…
「なーにしてんのよ!」
「どわおあ!」
突然、声をかけられて、
俺は心臓が止まるほどびっくりした。
☆☆☆
「なーにしてんのよ!」
とうとう私は我慢できずに声をかけた。
そう、夫の行く先は浮気相手のマンションでもなければ、
郊外のラブホテルでもなかった。
山間の小さな湖のほとりだったのだ。
ちょっと離れたところから見ていると、
手際よくテントを組み立てて、
缶詰料理を作っていた。
いい匂いが私の佇んでいる木陰にまで漂ってくる。
静かなソロキャンプ
夫が毎週していたのはこれだったのだ。
「み…路子…っ!」
ものすごくびっくりしたようだ。
正哉が目を丸くして私の方を見ていた。
「路子、じゃないわよ!
何ひとりで美味しそうなもの食べてるのよ」
言ってやった。
こちとら心配すぎて、今日なんかろくにご飯を食べていない。
そこにこの匂いだ。
さっきからお腹が鳴りそうで仕方がない。
「あ、いや…これはその…」
どう言い訳をしたものか悩んでいる様子だ。
まったく!
私は彼が座っている椅子の隣の地べたに黙って腰を下ろそうとした。
ここ、私の席、なんだからね!
そんな私を夫が慌てて止める。
「ちょっと待て!
い、椅子、もう一個あるから」
ガチャガチャと組み立てられたキャンプ用チェアにちょんと座って、
『で?』と彼を横目で睨みつけた。
「…あ、いや…すまん」
私の言いたいことがわかったのか、正哉がポツリと謝る。
実は、この時点で私はとうの昔に許してはいるのだが、
なんとなく引っ込みがつかなくなっていた。
わざとプッと頬を膨らませてみせたりして…。
ああ、こんな顔、娘には到底見せることなんてできない。
笑われてしまうだろう、きっと。
それにしても…
私はぐるりとテントを見回した。
まあ、たしかにこれがあればできんことはないけど…。
「呆れた…先週、雨の日もここに?」
「あ、ああ…」
今日はそらジローによると夜まで快晴とのことだ。
でも雨だった先週は、テントを張るだけでも大変だろうに…。
それから、夫は聞いてもいないのに、こうしてソロキャンプをしている理由を話してくれた。
立場が上がり、慣れない顧客対応や上司の相手で疲れることが多くなったそうだ。
家では子どもたちもすっかり親離れをして、早く帰る必要もない。
新しい趣味を見つけよう、そう考えた…らしい。
「コーヒー、路子も飲むか?」
「もちろん。…それに、そのお料理、私の分もあるんでしょうね?」
ちらっと夫は横目でコンロを見た。
美味しそうに湯気が立つスープは、どう見ても一人前だ。
「あ…ああ…は、半分でいいか?」
「ま、いいわ」
それから私たちは、仲良くお料理を半分こした。
料理は、正哉の味だった。
「それならそうと言ってくれればいいのに…」
お腹が満ち、コーヒーを飲んで、やっと私は落ち着いた。
メチャメチャ心配したんだ…。
だから言ってやった。
「浮気してんのかと思ったよ」
そうしたら夫は目を細めて笑う。
「俺はそんなにモテないよ」
そう言った横顔は、
LEDランプの柔らかな光に照らされて、
なかなかの男前に見えてしまった。
でも!
それでいいの。
あなたの魅力を知ってるのは、世界中で私だけでいいんだから。
あなたはずーーーーーっと自分のことは
モテない男って思ってなさい!
その代わり…
「毎週、ちゃんとプレゼントするわ。
…あなた、頑張ってくれたし、頑張ってくれてるから。
この時間とこの景色、あなたにプレゼントする。」
ぱっと夫の表情が明るくなった。
「ただし!…たまには、私も連れてきて!」
「ああ」
夫が嬉しそうに返事をした。
その視線の先は湖の上、
そらジローが言った通りの快晴の夜空。
星が、きれいに瞬いている。
ああ、たしかに贅沢な時間だ。
週末の夜。
私たち二人は、この景色を静かに眺め続けた。
【オトナの週末⋯終わり】




