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あなたに触れると、世界に波が立つ

掲載日:2026/09/13

◆ 世界観設定

この異世界では、感情が「波紋」として体の外に現れる。喜べば体の周囲にわずかな光の波紋が生まれ、悲しめば水のような振動が広がる。これを「感情波紋」と呼ぶ。

「波紋士(ナミビト)」は、この感情波紋を読み取り、他者の体に波を送り込む特殊な術者集団だ。病を癒したり、感情の凍りついた人間を解放したりすることができる。しかし深く波を送り込むほど、波紋士自身の命が削れる。これは波紋士の「業」と呼ばれており、術者たちは自分の寿命を少しずつ使いながら仕事をしている。

「IP₃共鳴」とは、波紋士が使う最上位の術だ。相手の感情の核心に、自分の波を完全に同調させる技法。これを使うと相手の感情が完全に解放されるが、術者の命が大幅に削れる。禁断術として、通常は使用が禁じられている。

◆ 登場人物

セレナ・ウェーヴ 19歳 / ヒロイン

辺境の波紋師の娘。「共鳴体質」という稀少な素質を持ち、相手の感情波紋に自分の波を完全に同調させられる。IP₃共鳴を本能的に使えるが、使うたびに自分の命が削れることを、最初は知らない。感情豊かで直感的に動く性格。王都の波紋医術院に召喚される。

ルーク・フォン・アシュレイ 25歳 / ヒーロー

王家の第三皇子。「感情凍結の呪い」を十五歳のとき、謀反に巻き込まれてかけられた。以来、喜び・悲しみ・恐れ・怒り――あらゆる感情を感じることができない。知性と判断力は完全に保たれており、国政の補佐役として機能しているが、感情波紋が完全に消えている。「波紋なき皇子」として宮廷で恐れられている。

エイラ・ドーン 40代 / サブキャラクター

王都の主席波紋医術師。セレナを王都に呼んだ張本人。IP₃共鳴の理論的権威だが、自分では使えない。ルークの呪いを十年かけて研究してきた。セレナとルークの関係を傍観し、時に介入する。

カイン 28歳 / サブキャラクター

ルークの側近騎士。十年間ルークを守り続けてきた友人。感情のないルークをありのままに受け入れている唯一の人間。セレナの登場に複雑な感情を持つ。


◆ 詳細あらすじ

波紋が感情として可視化されるこの世界で、王家の第三皇子・ルークは十年間、ただ一人「感情波紋のない人間」として生きてきた。十五歳の夜、叔父の派閥による謀反に巻き込まれ、暗殺者が使った呪術によって感情ごと凍りついた。以来、喜びも悲しみも怒りも恐れも感じない。感じないだけでなく、その波紋が完全に消えている。「波紋なき皇子」は宮廷で恐れられ、近寄る者もいなかった。

王都の主席波紋医術師・エイラは、辺境にいる十九歳の少女・セレナに召喚状を送った。彼女が持つ「共鳴体質」——相手の感情波紋に完全に同調する能力——こそが、ルークの呪いを解く唯一の可能性だと考えたからだ。

王都に来たセレナは、初めてルークと対面する。その瞬間、波紋士として初めて「波紋がゼロの人間」に触れた。虚無ではなく、感情波紋がゼロの静寂。感情の場所があるはずなのに、そこに何もない。その感覚は、セレナが今まで経験したことのない恐ろしいものだった。

施術が始まった。波紋術は反応しない。ルークの呪いは「感情を受け取る受容体」が閉じられた状態であり、外から波を送り込んでも届かない。セレナはやがて気づく。ゼロの波紋に共鳴するとはどういうことか——感情がない、その「静寂そのもの」に周波数を合わせることだ。誰も試みたことのない発想だった。

数週間の施術の中で、ルークはセレナを観察し始めた。感情はないが、知性は完全に働いている。「なぜお前は諦めないのか」という問いは、感情ではなく、純粋な疑問だった。セレナは「まだ諦める理由がないから」と答えた。その答えが、ルークの中で何かを動かした。

ルークの過去を聞いたとき、セレナは初めて「怒り」を感じた。十五歳の少年を呪いで凍らせた者への怒り。十年間誰も助けられなかったことへの怒り。その怒りの波紋が——初めて、ルークに届いた。受容体が開いた。

突破口は開いたが、エイラがセレナに真実を告げた。IP₃共鳴を使い続けることで、セレナ自身の命の波紋が削れていた。施術開始から二ヶ月弱で、命の波紋が二十パーセント減少していた。それを知ってもセレナは止まらなかった。「命が削れるなら、意味のあることに使いたい」と言った。

ルークがそれを知ったとき、初めて「命令」ではなく「懇願」に近い言葉を使った。感情はないが、論理として「お前が消えることは損失だ」と言った。ただ、その声の質が、少し変わっていた。セレナはその変化を、波紋士として感じ取った。

最終施術の夜。セレナは残りの波紋を全て使い、IP₃共鳴を完成させた。ルークの感情の核心——十五歳の夜に凍りついた恐怖と孤独——に触れた瞬間、呪いが割れた。ルークが、十年ぶりに泣いた。その涙を見た瞬間、セレナの意識が遠のいた。

ルークが、セレナの手を握り返した。自分から、初めて、触れた。

三ヶ月後、セレナは回復したが、命の波紋の一部は戻らなかった。ルークには感情の波紋が戻り始めていた。ふたりが再会した朝、ルークがセレナの手に触れた。ルークの体に、波紋が広がった。

セレナが泣いた。

それが、答えだった。


第一章

波紋なき皇子

波紋が、消えていた。

セレナは部屋の入り口で立ち止まった。扉の向こうに、人がいる。それはわかる。呼吸の音がするし、足音も聞こえた。でも、波紋がない。感情の波紋が、ゼロだ。

波紋士として生きてきて、こんな経験は初めてだった。

人がいれば、波紋がある。眠っていても、無意識に感情の揺らぎがあり、それが波紋として広がる。感情を抑えている人でも、抑えているという感情そのものが波紋になる。でも今、扉の向こうからは——何も来ない。感情波紋がゼロの静寂。

波紋の空白が、ある。

セレナは深呼吸した。「入りなさい」とエイラが扉の向こうから言った。セレナは扉を押した。

*  *  *

王都に来たのは三日前だった。

オーシャン村——辺境の漁村——で、セレナは父から引き継いだ波紋師の仕事をしていた。感情の波紋を読んで、心の傷を和らげたり、体の不調を整えたりする仕事。村の人たちに感謝されながら、静かに暮らしていた。

そこに召喚状が来た。

王都の主席波紋医術師、エイラ・ドーン。差出人の名前を見て、セレナは動きを止めた。エイラ・ドーンといえば、波紋医術の世界では知らない者のいない名前だ。IP₃共鳴理論の権威。その人が、辺境の十九歳を呼んだ。

理由は召喚状に書かれていた。「あなたの共鳴体質が、ルーク殿下の解呪に必要です」

王都に着いて、エイラに会った。エイラは五十代に近い女性で、目が鋭く、声が低く、でも話し方は丁寧だった。開口一番に言った言葉は「来てくれてありがとう」ではなく「あなたのIP₃共鳴を確認させてください」だった。

試験を受けた。波紋を出し、他者の波紋に同調させ、どのくらいの深さまで共鳴できるか。セレナが波紋を出し、他者の波紋へ同調させると、エイラが「これほどとは」と言って黙った。それが評価なのかどうか、最初はわからなかった。

翌日、エイラが「患者を紹介します」と言った。「王家の第三皇子、ルーク・フォン・アシュレイ。十五歳のとき、呪術によって感情を凍結された。それから十年、多くの波紋士が試みてきた。普通の波紋士は自分の波を送るだけです。自分の波そのものを相手の周波数へ変えられる術者は、これまで試せなかった。あなたの共鳴体質なら、その方法を試せます」

十年間試せなかった方法、という言葉が胸に残った。でも、セレナには断る理由がなかった。

*  *  *

扉を押すと、部屋があった。

広い部屋だった。窓から光が入り、本棚が壁を埋めていた。中央に椅子が二つ向かい合って置かれ、一方に人が座っていた。

年齢は二十五歳だと聞いている。でも最初に感じたのは年齢ではなかった。

波紋が、ない。

部屋の外から感じていた空白が、今は確信になった。目の前に人がいる。呼吸をして、瞬きをして、こちらを見ている。でも、波紋の空白がある。感情の場所が、完全に消えている。

セレナは足がすくんだ。

ルークが口を開いた。

「セレナ・ウェーヴか」

声は低く、落ち着いていた。感情的ではないが、冷たくもない。ただ、中立だった。感情の色がない声。

「……はい」

「座れ」

命令だったが、威圧感はなかった。ただ、そう言った。セレナは向かいの椅子に座った。


「記録には残っていない」とルークが答えた。「でも、聞こえました」。ルークが間を置いた。「……そうか」。その「そうか」が、いつもより低かった。


意識が戻ったとき、セレナはルークに聞いた。「昨夜、私の名前を呼びましたか」


ルークの声だった。それまでずっと「お前」「術師」だったのが、「セレナ」になった。


意識が遠のく直前、セレナに声が届いた。「セレナ」


ルークはセレナを見ていた。観察するような目だった。値踏みではなく、データを集めているような。

「お前が私の呪いを解けると、エイラは言った」

「……解こうと思っています」

「思っている、という言い方は確信ではない」

「確信はありません。でも、諦める理由もまだない」

ルークは間を置いた。

「……波紋士が私に接触すると、どう感じる」

「空白を感じます。感情の波紋があるべき場所に、何もない。怖い、という感覚が最初にありました」

「正直だな」

「嘘をつく理由がないので」

ルークが、もう一度セレナを見た。今度は少し違う見方だった気がした。セレナには、波紋がなければ細かい感情の変化は読めない。でも、目の動き方が変わった気がした。

「いつ始める」とルークが言った。

「……明日から、でよければ」

「わかった」

それだけだった。ルークは席を立ち、部屋を出た。カインが後からついていった。セレナは空になった椅子を見ていた。

波紋がない人間というのが、こういう存在なのだ。

知識として知っていたことが、実感になった瞬間だった。

*  *  *

夜、エイラが部屋に来た。

「初対面の感触を聞かせてください」

「……波紋の空白が、想像以上でした。感情の受容体が完全に閉じている。外から波を送り込んでも、届かないと思います」

「そうです。十年間、多くの波紋士が試みてきた。誰も届かなかった」

「どうすれば届くか、まだわかりません。でも、ゼロに共鳴するという方向性が、もしかしたらあるかもしれない」

「ゼロに共鳴する?」

「感情波紋がない、その『静寂』そのものまで自分の波を落として重ねる。そこで同期してから、体の反応を起点に波を広げる。普通の波紋士にはできなくても、共鳴体質を持つ私なら試せます」

エイラがセレナを見た。

「……一つだけ、確認しておかなければならないことがあります」

「何ですか」

「IP₃共鳴は、術者の命の波紋を消耗させます。深く使えば使うほど、あなた自身の寿命が削れる。それを知った上で、続けますか」

セレナは間を置いた。

「……続けます」

「理由を聞いてもいいですか」

「あの方が、十年間、感情なしで生きてきた。それが、どういうことか。私には想像もできない。でも、続けてきたということは、何かを求め続けていたということだと思う。その何かを、届けたい」

エイラは何も言わなかった。

「……わかりました。明日から施術を開始してください」


第二章

最初の接触

施術室は白い部屋だった。

窓が一つ。長椅子が一つ。それだけの部屋。余分なものを取り除いて、波紋の干渉を最小限にするためだとエイラが言った。セレナは椅子を持ち込んで、ルークの向かいに置いた。

ルークが長椅子に横になった。当然のように、迷いなく。十年間、この種の施術に慣れているからだ、とセレナは思った。十年間、多くの波紋士が試み、誰も届かなかった。そのことを、ルークは知っている。でも今日もまた横になった。

それを意志と呼ぶかどうか、わからない。でも、諦めていない、ということだとセレナは受け取った。

「始めます」

「ああ」

セレナはまず、自分の波紋を整えた。心拍を落ち着け、呼吸を深くし、体の中心から波を起こす。波紋士の基本。それから、ルークの方に向けた。

届かない。

予想していたことだったが、実感すると重かった。波が向かっていくのに、吸収されず、反射もされず、ただ……空振りになる。受け取る場所がない。

セレナは方向を変えた。角度を変えた。最後に、強さまで調整する。三十分、方向、角度、強さを変えて試した。

何も変わらなかった。

「今日はここまでにします」とセレナは言った。

「何も起きなかった」

「はい。想定通りです。でも、諦めていません」

ルークが起き上がった。

「……何か、わかったことはあったか」

セレナは考えた。

「受容体が閉じているのではなく、受容体そのものが凍っているような感触がありました。閉じているなら開く方法を探せばいい。でも凍っているなら、溶かす必要がある。溶かす方法は、温かい波ではない気がします。同じ温度の波でないと、溶けない」

ルークはセレナを見た。

「……そういう発想で来た波紋士は、いなかった」

「他の方がどうアプローチしたか、知りません。ただ、私には、そう感じました」

「明日も来るか」

「来ます」

ルークは何も言わずに部屋を出た。カインがドアを閉めた。セレナは一人になって、椅子に座ったまま考えた。

凍えているものに温かい波を押し込むのではない。自分の波を、相手の静止した状態まで落として重ねる。そこから動きが戻るかを確かめる。それが「ゼロに共鳴する」ということだろうか。

*  *  *

五日目の施術で、初めて変化があった。

セレナが試みていたのは「感情のない状態を模倣すること」だった。自分の波紋を、できる限り静かにする。感情の揺らぎをなくす。ゼロに近づける。その状態でルークの方向に波を向ける。

完全にゼロにはなれない。人間である限り、感情はある。でも、できる限り静かに。

その日、施術の途中で、ルークが少し動いた。寝返りを打ったとか、そういう大きな動きではない。ほんの微かに、体の緊張が変わった。

セレナはそれを感じた。波紋ではなく、物理的な体の変化。でも、意味がある変化だとわかった。

「今、何か感じましたか」

「……何も感じない。感じないのが前提だ」

「でも、体が少し動きました」

ルークが間を置いた。

「……体の内側で、何かが揺れた気はした。感情ではなく、物理的な何かが」

「それです。感情波紋ではなく、体の振動から始まる。IP₃共鳴の最初の段階は、感情ではなく体に届く波だと思います」

エイラが施術室の外で記録を取っていた。セレナが出てきたとき、エイラは「初めての反応が出た」と言った。声が、少し変わっていた。

「十年間で、初めてです」とエイラは言った。「ルーク皇子の体に、波が届いたのは。感情が戻ったわけではありません。先に戻ったのは身体の反応です。呪いは感情そのものを消したのではなく、本人の自覚と、波紋として外へ出る通路を凍らせている可能性があります」

*  *  *

十日目の施術後、ルークが珍しく席を立たなかった。

「今日は少し時間があります」とルークが言った。「お前に聞きたいことがある」

「どうぞ」

「なぜ諦めない」

セレナは考えた。

「……進んでいるから、だと思います。最初の日と今では、変わっている。少しずつでも変わっているなら、諦める理由がない」

「他の波紋士は、諦めた」

「他の方のことは知りません。でも、私は届いたと感じている」

ルークはセレナを見た。何かを計算するような、でも今日は少し違う目で。

「……お前は波紋士として、俺の中に何を感じる」

「凍っているものがあります。感情ではなく、その場所が。でも、凍っているということは、溶けてもいない。形がある。形があるなら、届く可能性がある」

「形がある、とはどういう意味だ」

「消えていない、ということです。感情を失ったのではなく、封じられている。封じられているなら、解ける」

沈黙があった。

ルークは窓を見た。外の光が入っていた。セレナも同じ方向を見た。光の中に塵が舞っていた。

「……十年間」とルークが言った。「誰もそういう言い方をしなかった」

「消えていない、ということですか」

「感情が残っている、という言い方を、する者はいた。でも、形がある、とは言わなかった」

セレナは何も言わなかった。ルークの横顔を、少し見た。


施術が終わった夜、部屋が冷えていた。ルークが何も言わずに窓を閉めた。「ありがとうございます」とセレナが言うと「換気の管理は術師の体調管理に含まれる」とルークが答えた。でもセレナは、ルークが窓のそばに立っていたことに気づいた。外を見るわけでもなく、ただ立っていた。


感情波紋がなくても、この人は何かを持っている。波紋ではない何かが、まだそこにある。


第三章

ゼロの周波数

三週間が経った。

セレナは毎日、施術室に来た。午前中に一時間、午後に三十分。それを繰り返した。三週間で、振動が届く範囲は、指先から手のひら全体、腕、肩へ広がった。

でも、感情波紋はまだ、ゼロのままだった。

ある夜、セレナは施術室で一人で練習していた。ルークがいない状態で、自分の波紋をゼロに近づける練習。どこまで静かにできるか。感情を消すのではなく、感情を「抱えたまま静止させる」という、難しい技法。

扉が開いた。ルークが入ってきた。

「……練習しているのか」

「はい。あなたが来ない時間を使って」

「何のために」

「ゼロに近い波紋を安定させるために。施術中に乱れると、共鳴が崩れる」

ルークは部屋に入り、窓際に立った。外は夜だった。

「……お前の波紋は、今どんな状態だ」

「練習前なので、いつもの状態です。感情が乗っています。言うなら——」セレナは考えた。「少し緊張しています。あなたが急に来たので」

「緊張の波紋は、どんな形をしている」

珍しい質問だった。ルークが波紋の形を聞いたのは、初めてだった。

「……細かく震える波です。水面に小石を投げたときみたいに、波が何重にも広がる。でも広がるのが早い」

「俺には、それが見えない」

「わかっています」

「……見えないことは、何も感じないこととは違う、のか」

セレナは少し驚いた。ルークがこういう哲学的な問いを出すとは思っていなかった。

「……違う、と思います。見えないということは、情報が届かないということです。感じないということは、感じる機能が止まっているということです。見えないのに感じることはあります」

「……俺は今、何かを感じているか?」

「私には波紋が読めないので、わかりません。でも、こうして質問している。それは、何かを知りたいという動機がある、ということだと思います」

ルークは窓から外を見た。夜の空に月があった。

「……動機は、感情か」

「感情から生まれることが多いですが、感情でない場合もある。あなたの場合は、感情ではなく、知性から来ている動機だと思います。それも、動機です」

沈黙があった。月が雲に隠れた。

「……十年間」とルークが言った。「知性だけで動いてきた。感情なしで、決断して、判断して、人と話して。それは、あなたが言う動機で、動いてきたということになるか」

「そう思います」

「感情がなくても、生きられる」

「生きられます。でも」

「でも?」

セレナは間を置いた。言うべきか、言わないでいるべきか。でも、言わない理由がなかった。

「……あなたは今夜、施術がない時間に、ここに来た。練習しているのかと聞いた。波紋の形を聞いた。最後には、感情がなくても生きられるのかと問いかけた。これだけのことを、知性だけで聞いたとは、私には少し思えません」

ルークが窓から振り返った。セレナを見た。波紋のない目で。でも、その目の中に何かある気がした。

「……お前は、面倒な波紋士だな」

「よく言われます」

ルークが部屋を出た。セレナは練習を再開した。でも、ゼロに近づけようとするたびに、さっきの言葉が揺れた。

お前は、面倒な波紋士だな。

感情のない人間が、「面倒」という評価をした。それは、何かを感じているということではないか。

*  *  *

カインがセレナを呼んだのは、四週間目のことだった。

「少し話せるか」と彼は言った。施術室の外の廊下で、人がいない時間に。

「はい」


ルークは何も答えなかった。書類に視線を戻した。しかし書類には、何も書き足されなかった。


「殿下、それを昨日も、一昨日も、同じ言葉でおっしゃっていました。それと、書類を書いているときに窓を見る回数が最近増えています。施術室の方角を」


「統計的に意味のある変化が起きている」とルークが答えた。


「最近、施術の話をよくされますね」とカインが言った。


ルークの執務室に、カインが書類を届けに来た日のことだった。


「ルーク様に変化が出てきた」とカインは言った。「施術前後で、表情が少し違う。私しか気づいていないかもしれないが」

「どう違いますか」

「……施術の後、少しだけ、ぼんやりする。以前は常に明晰だった。でも最近、施術後に一分か二分、焦点が合わない時間がある」

セレナは考えた。

「凍りついた部分が、溶け始めている最初の段階かもしれません。溶けた水が感情の経路を流れ始めると、慣れていない感覚に一時的に混乱する。体がついていけない状態です」

「ルーク様に伝えてもいいか」

「伝えてもらえると、施術中の協力がしやすくなります。自分の体の変化を、知っていてほしい」

カインが間を置いた。

「……あなたは、ルーク様をどう見ていますか」

「患者として?」

「それだけではなく」

セレナは考えた。

「……十年間、感情なしで生きてきた人として見ています。それがどれだけ孤独なことか、私には本当にはわからない。でも、わかろうとしています」

カインは何も言わなかった。「続けてください」と言って去った。


第四章

凍えた十年

一ヶ月が経った夜、ルークが過去を話した。

施術室で、施術が終わった後。ルークが起き上がらずに、天井を見たまま言った。

「十五歳の夜のことを、話す。聞くか」

「……聞かせてください」

ルークは天井を見たまま、話した。声の調子は変わらなかった。感情のない声で、事実を並べた。

十五歳の夜。父王の弟、叔父のコーネルが謀反を起こした。王位継承の順位を変えるためだった。父王と第一、第二皇子が標的だった。ルークは第三だったので、直接の標的ではなかった。でも、証人を生かしておく必要はない、という判断をされた。

暗殺者が部屋に来た。ルークは剣を持っていなかった。一人だった。カインが間に合ったのは、呪術が使われた後だった。

使われたのは、「感情封印」という呪術だ。人の感情を凍らせ、動けなくする。一時的な効果だが、術者が強い意図を込めると、永続する。その暗殺者は、死ぬ前に最後の力を込めた。封印を永続させるために。

カインが部屋に入ったとき、ルークは立っていた。立って、生きていた。ただ、感情波紋だけが消えている。

「その後、どうなったんですか」とセレナは聞いた。

「父王と兄たちは無事だった。叔父は追放された。表向き、俺は『呪術の影響から回復中』ということになった。十年間、ずっとそのままだ」

「宮廷では」

「波紋がない。感情がない。それだけで、人は遠ざかる。感情の読めない人間を、人は恐れる。合理的な判断だ。俺も同じことをする立場なら、遠ざける」

淡々とした言い方だった。批判も、悲しみも、怒りもなかった。事実として言った。

だからこそ、セレナの中に何かが積もった。

十五歳の少年が、一人の部屋で暗殺者と向き合った。誰も来なかった。間に合わなかった。十年間、感情を奪われたまま「回復中」という名目で孤立してきた。

セレナの中で、何かが動いた。

怒りだった。

波紋士として生きてきて、こんなに強い怒りを感じたのは初めてだった。ルークのためではなく、ルークに対してではなく、その状況に対して。十五歳の少年にそんなことをした者たちへの怒り。十年間誰も助けられなかったことへの怒り。

波紋が、広がった。

セレナ自身も気づかなかった。でも、部屋の空気が変わった。怒りの波紋は、細かく鋭い振動だ。それが施術室全体に広がった。

ルークが、体を動かした。

今まで施術中に動いたのとは違う動き方だった。反射的に、でも。体が、波紋に反応した。

「……今、何かが来た」とルークが言った。

セレナは気づいた。

「すみません、私の波紋が乱れました。制御できていなかった」

「何の感情だ」

「怒りです」

「俺に?」

「違います。あなたに起きたことへの、怒りです」

沈黙があった。

「……俺のために、怒っているのか」

「そうです」

「必要ない」

「必要かどうかとは関係なく、感じてしまいました。感情は制御できるものではないので」

ルークはまた天井を見た。

「……俺は、十年間、俺自身のために怒ったことがない」

「知っています」

「感情がないから」

「そうです。だから私が、代わりに怒ります」

また沈黙。今度は短かった。

「……それは、波紋士の仕事か」

「仕事ではありません。個人として、怒っています」

ルークが施術台から体を起こした。セレナを見た。

波紋のない目が、セレナを見ていた。でも今日は、その目に何かがあった気がした。何があるのか、波紋が読めないのでわからない。でも、何か。

「……明日も来るか」とルークが言った。

「来ます」

「そうか」

それだけ言って、ルークは出ていった。セレナは施術室に一人残った。

怒りの波紋が届いた。初めて、感情の波紋が届いた。それがどういう意味を持つのか、今夜考えなければならなかった。

*  *  *

エイラが記録を見て「突破口が開いた」と言った。

「感情波紋への反応は、施術の波ではなく、あなた自身の感情から生まれた。怒りの波紋が、受容体の一部を一時的に開いた。これは重要な発見です」

「でも、計画的にできることではありません。感情は意図して出せるものではない」

「そうです。だから難しい。でも、方向性はわかった。感情波紋が届いたなら、それを入口にすることができる。感情が動いたときに、IP₃共鳴を合わせる。その瞬間に、深いところへ届かせる」

「……つまり、施術中に私が感情を動かせばいい?」

「あなたが自然に感情を動かしたとき、という条件があります。意図して感情を出すのは、純度が低い。あの夜のような、本当に動いたときの波紋でないと、受容体が開かない可能性がある」

セレナは考えた。

「……では、ルーク殿下の話をもっと聞く必要があります。話を聞いて、私が自然に感情を動かす。それが一番確実な方法かもしれない」

「同意します。ただし、注意してください」とエイラが言った。「感情が動くたびに、IP₃共鳴が起動する。それはあなたの命の波紋を消耗させる。意図せず、ということは、制御もできない、ということです」

セレナは頷いた。わかっている、と思った。でも、そのとき、「どのくらいの消耗か」という問いは、心の中にしまっておいた。


第五章

波は届く

六週間目に入った頃、施術の方法が変わった。

ルークが話し、セレナが聞く時間を、施術の前に設けた。ルークの過去ではなく、日常の話。宮廷での出来事。政務のこと。子供の頃の記憶。感情なしで語られる日常が、セレナの中で波紋を動かすことがあった。

「子供の頃、馬が好きだった」とルークが言ったとき、セレナの中に温かいものが動いた。その波が届いた。

「政務の会議では、誰も俺に話しかけない」とルークが言ったとき、セレナの中に悲しみが動いた。その波が届いた。

感情の種類そのものより、セレナの感情が自然に動いた瞬間ほど、深い層が反応した。馬の記憶で動いた温かさは表層、会議の孤独に触れた悲しみは中層、十五歳の夜への怒りは深層まで届いた。どの反応がどこへ届くか、地図ができ始めた。

ただ、エイラの言った通り、セレナの消耗が進んでいた。

施術後に疲れが出るのは最初からだったが、最近は施術前から疲れていることが増えた。朝、起き上がると頭が重い。食欲が落ちた。波紋士としての感知が、少し鈍くなった気がする日があった。

でも、止めようとは思わなかった。

*  *  *


施術が終わった夜、部屋が冷えていた。ルークが何も言わずに窓を閉めた。「ありがとうございます」とセレナが言うと「換気の管理は術師の体調管理に含まれる」とルークが答えた。でもセレナは、ルークが窓のそばに立っていたことに気づいた。外を見るわけでもなく、ただ立っていた。


施術の七週間目に、ルークがセレナの手を見た。

施術中ではなく、話をしている時間に。セレナが手を机の上に置いていて、ルークの目がそこに向いた。

「……手が、震えているか」

セレナは自分の手を見た。震えていた。

「……疲れているだけです」

「最近、顔色が悪い」

「施術の消耗です。想定の範囲内です」

ルークがセレナを見た。波紋のない目で、でも今日は違う見方で。

「エイラを呼べ」

「必要ありません」

「命令だ」

「施術に関しては、術師の判断が優先されます」

ルークは何も言わなかった。でも、セレナの手から目を離さなかった。

その夜、エイラがルークに呼ばれた。セレナには伝えなかったが、翌朝エイラがセレナに言った。「昨夜、ルーク様から連絡がありました。セレナの状態を確認してほしいと」

診察の結果、エイラがセレナに告げた。

「命の波紋が、二十パーセント減少しています。施術を始めてからの二ヶ月弱で。このままの速度で消耗すると、半年以内に危険域に達します」

セレナは間を置いた。

「続けます」

「セレナ」

「続けます。あとどのくらいで解呪できますか」

「わかりません。ただ、あなたの速度で進むなら、あと一ヶ月か二ヶ月で核心に届くかもしれない」

「その前に危険域には達しませんか」

「……届くかもしれない、ぎりぎりの線です」

「ならば続けます」

エイラは長い間、セレナを見た。

「……ルーク様には、伝えますか」

「伝えないでください。あの方が心配すると、施術の焦点がぶれる」

エイラは答えなかった。でも、その日の施術には来た。観察を続けた。

*  *  *

二日後、ルークが施術の前に言った。

「お前の命の波紋が削れていることを、エイラから聞いた」

セレナは間を置いた。

「……伝えないよう頼みましたが」

「俺が問い詰めた。エイラは答えた。俺の方が立場が上だ」

「……そうですか」

「施術を止めろ」

「止めません」

ルークが立ち上がった。今まで施術前にそうしたことはなかった。

「これは命令だ」

「施術に関しては、術師の判断が――」

「お前が消えることは、損失だ」

声が変わった。

命令の声ではなかった。感情のない声のはずなのに、今日は何かが含まれていた。何かが、少し違った。

セレナは動きを止めた。

「……損失、と言いましたか」

「合理的な判断だ。お前の能力は希少だ。お前が消えることで、他の多くの患者が救われる機会が失われる」

「それは正しいです。でも」

「でも?」

セレナはルークを見た。

「今の言い方は、合理的な判断だけではない気がしました」

ルークは何も言わなかった。

「……あなたの声が、少し変わっていた。今日は」

また沈黙。今度は長かった。

「……感情がないのに、声が変わるのか」とルークが言った。自分に向けているような言い方だった。

「変わっていました」

「俺には、わからない」

「でも、私には聞こえました」

ルークが窓を見た。外の光が斜めに入っていた。

「……施術を続けるなら、条件がある」

「何ですか」

「毎日、エイラに状態を確認させろ。悪化が一定以上になったら、即座に止める。それを守るなら、止めない」

セレナは考えた。

「……わかりました」

ルークは何も言わなかった。窓から離れ、施術台に横になった。

セレナは椅子を引いた。施術の準備をした。今日の波紋は、少し違う質を持っていた。

感情ではない何かが、この人の中で動いている。それが何かは、まだわからない。でも、動いている。


第六章

命の値段

八週間目。セレナはルークに直接触れることを提案した。

「手を握らせてください」と言った。「今まで距離を置いての施術でしたが、接触があると、波の精度が上がります。呪いの核心まで届く可能性が高い」

ルークは間を置いた。

「……接触は、お前に危険があるのか」

「逆です。接触することで、私の消耗が減る可能性があります。距離があると、波を送る分のエネルギーが必要ですが、直接触れれば少ないエネルギーで深く届く」

「……つまり、接触した方がお前への負担が少ない」

「そう考えています」

ルークが手を出した。施術台の上で、横になったまま、右手を差し出した。

セレナは少し驚いた。こんなにすぐ、こんなに迷いなく。

セレナはルークの手を、両手で包んだ。

体温が伝わってきた。当たり前のことだが、初めて感じた。人間の温かさ。感情波紋がなくても、体は温かい。

波を送った。指先から、手のひらから、ルークの体に。距離があったときとは違う。直接届く。精度が全然違う。

ルークが、息を吸った。

「……今、何か来た」

「届いています。今まで届いていた場所より、深いところに」

「……どんな感覚だ」

「私が感じることと、あなたが感じることは違うと思います。ただ、私には——温かいものが核心に近づいている感触があります」

ルークは何も言わなかった。でも、手を引かなかった。

*  *  *

接触施術が三日続いた頃、エイラが診察で「命の波紋の消耗速度が落ちた」と言った。「接触による効率化が出ている。このペースなら、危険域に達するまでの時間が延びた」

ルークにそれを伝えると、彼は何も言わなかった。でも、翌日の施術で手を差し出す速度が、少し早くなった気がした。

セレナはその変化を、何も言わずに受け取った。

*  *  *

ある夜、施術が終わった後、ルークが言った。

「お前が最初に来たとき、俺は解呪は不可能だと思っていた」

「今は?」

「……まだわからない。でも、不可能という判断は、保留している」

「保留、というのはどういう意味ですか」

「不可能の根拠が、弱くなった。反証が増えた」

セレナは少し笑った。

「……ルーク様は、感情がなくても、優しいですね」

「優しさではない」

「でも、保留しているという言葉は、可能性を認めているということです。それは、私への配慮でもある」

「合理的な判断だ」

「そう言っていれば、楽ですか」

ルークが止まった。

「……楽、という概念を俺は持っていない。感情がないから」

「でも今、一瞬止まりました」

また沈黙。

「……お前の施術以来、こういうことが増えた。言葉に詰まる、という現象が」

「感情の通路が、少し開き始めているからだと思います。感情はまだ出てきていない。でも、感情が通るはずの場所が、少しずつ解けている。それで、知性と感情の境界が揺らいでいる」

「揺らいでいる、という感覚は、俺にはわからない」

「でも、止まるという現象がある」

「……そうだな」

ルークが手を見た。さっきまでセレナが握っていた手。自分の手を、見た。

「……お前が帰った後、この手を見ることが増えた」

セレナは何も言わなかった。

「感情的な意味はない。ただ、施術の感触が残っている気がして」

「それも、通路が開いている証拠です」

「……なら、いいことだ」

声が、また少し変わっていた気がした。セレナは気づかないふりをした。気づいていない、という顔で。でも心の中では感じた。


第七章

解呪の波紋

十週間目の最後の施術は、夜に行った。

エイラの診察で「命の波紋の残量が、限界に近い」と言われた日の翌日だった。セレナは自分でそれを感じていた。波を起こそうとすると、すぐに疲れる。感知の精度が落ちている。体が、重い。

でも、あと一度だと思った。核に触れるところまで来ている。呪いの中心まで、あと一層。今日の施術で、届く。

ルークが施術室に来た。セレナの顔を見て、止まった。

「顔色が悪い」

「今日で終わらせます」

「……本当に、今日か」

「今日です。最後の一層に届きます。その代わり、安全域を越える量の波紋を使います」

ルークは何も言わなかった。

「……安全域を越えたら、お前は」

「危険です。でも、エイラと必要量を計算しました。今日は接触しているので、距離による損失は抑えられる。残る負荷は、核心までの深さです」

「計算通りにいくのか」

「……誤差はあります。だからエイラが傍にいます」

ルークは施術台に横になった。手を、差し出した。

セレナは椅子を引いた。その手を、両手で包んだ。深呼吸した。今日が最後の施術だ。全力で。

波を起こした。今まで使ったことのない深さから。体の底から。命そのものから。

届いた。

今まで届いていた場所より、ずっと深く。呪いの層を一枚、また一枚、越えて。核心に近づく。

核心に、触れた。

そこにあったものは——十五歳の夜の、恐怖だった。

一人で、暗い部屋で、暗殺者と向き合った少年の恐怖。助けが来ないかもしれないという恐怖。呪いをかけられる瞬間の恐怖。感情が消えていく感覚の恐怖。それが十年間、核心に凍りついていた。

セレナはその恐怖に、自分の波を合わせた。怖いという波を。同じ周波数で。

IP₃共鳴が完成した。

核が、割れた。

音はなかった。でも、施術室の空気が変わった。何かが一瞬、広がった。

ルークが、泣いた。

声を上げたのではない。ただ、目から涙が落ちた。表情も変わっていない。ただ、涙が流れた。十年間凍りついていた感情が、最初に選んだ形が、涙だった。

セレナはそれを見た。

見た瞬間、視界が揺れた。

核心は、計算していたより深かった。命の波紋の残量が急速に下がった。限界を越えた。それでも、セレナは見た。届いた。終わった。

意識が、遠のいていった。

遠のく直前に、手に温かいものを感じた。

ルークが、セレナの手を握り返していた。

自分から。初めて、自分から触れた。

それを最後に、セレナは気を失った。


エピローグ

波紋の行方

三ヶ月後、セレナは目を覚ました。

命の波紋が限界を越えたとき、体が自己保護のために眠りについた。意識がない間、エイラがセレナの残りの波紋を安定させる処置を続けた。

命の波紋の一部は戻らなかった。エイラは、深層IP₃共鳴に必要な出力までは戻らないだろうと告げた。寿命への影響は計算できなかった。

目を覚ましたとき、最初に見えたのは白い天井だった。二番目に見えたのは、椅子に座っているルークだった。

ルークがセレナに気づいた。立ち上がった。

「……目が覚めたか」

声が、変わっていた。感情の色がなかった声に、今は何かある。まだ薄いが、感情の波紋はある。戻り始めた波を、セレナにも感じ取れた。

「……ルーク様」

「呼ぶな。まだ声を出すな」

「でも、あなたの波紋が」

「見えているのか」

「感じます。波紋士なので。あります」

ルークは何も言わなかった。椅子に戻った。

何日かかけて、セレナは起き上がれるようになり、食事ができるようになり、部屋を歩けるようになった。

ルークは毎日来た。特に何かするわけではなく、椅子に座って書類を読んでいることが多かった。でも、毎日来た。

カインが「三ヶ月間、一度も休まず来ていた」と後でセレナに教えてくれた。「意識がないあなたのそばに、毎日」

*  *  *

回復して最初の朝、セレナは庭に出た。

秋の庭だった。木の葉が色づき、落ち始めていた。光が斜めに入っていた。セレナは石段に座って、光を受けた。

足音がした。ルークだった。向かいの石段に、座った。

ふたりとも何も言わなかった。庭の音だけがあった。葉が落ちる音。風の音。

「どんな気分だ」とルークが言った。

「……秋の光が、温かいです」

「施術の感触で、そういうことを言うようになったか」

「もともとこういう言い方をします」

ルークが顔を変えた。

笑い、ではなかった。でも、笑いに一番近い顔だった。セレナは今まで見たことのない顔だった。

「……あなたが笑いそうな顔をしました」とセレナは言った。

「感情がないのに?」

「感情が戻っています。あなたの波紋が、今は感じられます」

ルークは庭を見た。落ち葉が一枚、舞った。

「……感情が戻ることを、俺はずっと望んでいたのか、わからない。十年間、感情なしで生きてきて、それが当たり前になっていた」

「今は、どう感じますか」

「……感じる、という動詞が使えることが、まだ慣れない。でも」

「でも?」

「お前が回復したことへの——何かがある。喜びと呼んでいいのかわからないが、何かが、ある」

セレナは庭を見た。光の中に塵が舞っていた。

「それを喜びと呼んでいいです。小さくても、喜びは喜びです」

ルークが、立ち上がった。セレナの方に来た。

立ったまま、セレナを見た。右手を差し出す。

「今日は施術ではない」

「知っています」

「それでも、触れていいか」

セレナは差し出された手を見た。

「……なぜですか」

ルークは少しだけ息を吸った。

「触れたいからだ」

セレナは自分から、その手に指を重ねた。

ルークの体に、波紋が広がった。

小さかった。でも、確かにあった。感情の波紋が、ルークから広がった。温かいものが、波になって、二人の間の空気を揺らした。

セレナの目から、涙が落ちた。

泣こうとしたわけではなかった。でも、落ちた。

「……波が立った」とセレナは言った。

ルークは何も言わなかった。でも、手を離さなかった。

庭の光の中で、葉が一枚また一枚と落ちた。

波紋が、広がり続けた。

触れるたびに、世界に波が立った。


了

(本作品は第9回アイリス異世界ファンタジー大賞への応募作品です)


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