10年前ハーレムエンドを迎えた、元男爵令嬢の末路
今日もお越しいただき、ありがとうございます。ゆっくり過ごしていってくださいね。
鏡の中の女を、フェリシア・カスティール(旧姓ロゼ)は長いあいだ見つめていた。
脂肪のついた二の腕。
六度の妊娠でたるんだ腹部。
かつては小麦色の艶やかさで男たちを惑わせた肌は、今や産後の疲れと睡眠不足で、くすんだ黄みを帯びている。
二十八歳。
その数字だけが、頭の中でじくじくと反響した。
たった二十八歳なのに、この鏡の中の女はどこか年老いて見えた。三十代後半と言っても誰も疑わないだろう。もしかしたら四十代と言われるかもしれない。
扉が勢いよく開いたのは、そんなことを考えていたときだった。
「フェリシア、ちょっといいか?」
夫——グスタフ・カスティール公爵——の声は、十年前と変わらず低く、よく響いた。ただし、かつてその声に宿っていたものは、もうどこにもなかった。熱も、甘さも、切迫した欲も。あるのはただ、うっすらとした嫌悪だけだった。
フェリシアは鏡から目を離し、夫を振り返った。
グスタフは部屋に入ってこようとしなかった。扉の枠に手をかけたまま、まるでこの部屋の空気を吸いたくないとでも言うように、廊下に立っていた。
「話があるんだ」
短い言葉。
でも、フェリシアにはわかった。
十年もの長い間、この男と夫婦だったのだから。
今日のそれは——終わりの言葉だろう、と予測することは容易だった。
* * *
封書は、グスタフの手から無造作に差し出された。
フェリシアはそれを受け取り、封を開いた。中に書かれていることを読んで、もう一度読んで、三度目に読んだとき、ようやく手が震えていることに気づいた。
「……離縁状、ですか?」
「そうだ。近いうちに、出ていってもらいたい」
「まだ六人目の子を産んだばかりです。まだ二週間も経っておりません」
「知っている。そんなこと、些細なことだろう?」
グスタフの声は揺れなかった。まるで天気の話でもするように、あっさりと言い放つ。
「おまえとの婚姻は当初の目的を果たした。正妻のイザベラが子を望まなかった。おまえは代わりにカスティール公爵家の子どもを産んだ。王太子はじめ5人の男と関係を持っていた、汚れた元貧乏な男爵令嬢にとっては、名誉なことだろう?」
『名誉なことだろう?』
その言葉が、フェリシアの胸の真ん中に、錐のように刺さった。
十年間。六人の子供を授かった。何度も何度も、彼に抱かれた夜。
フェリシアにとっては、屈辱でしかなかった。
「子供たちは、どうするおつもりですか?母親がいないと、寂しい思いをさせてしまうのではないでしょうか」
「イザベラが育てる。子供たちはおまえよりも、イザベラに懐いている」
「私の子供ですよ。私が産んだんです」
そう言った瞬間、グスタフが初めて、わずかに眉を動かした。それは苛立ちだった。哀れみでも同情でもなく、ただ純粋な、面倒くさいものを見る目だった。
「おまえが産んだのは事実だ。だが、あの子たちはカスティール公爵家の子だ。おまえの子ではない」
「——っ」
「荷物は最低限にしろ。馬車は明朝用意する。行き先はどこでも構わない。ただし、この屋敷には二度と戻るな」
それだけ言って、グスタフは扉を閉めた。
廊下を遠ざかる足音を聞きながら、フェリシアはゆっくりと床に座り込んだ。膝が、うまく力を入れられなかった。
離縁状を、まだ手に持っていた。
泣こうとしたが、涙が出なかった。出てくるのは、ただ、息だけだった。荒い、震えた、みっともない息。
窓の外では、春の陽射しが庭を照らしていた。ひどく場違いな、明るい光だった。
* * *
子供たちに会いに行ったのは、その夜のことだった。
六人の子供たちは、イザベラの翼の下にすでに集まっていた。長男のエルヴィン(九歳)、長女のクラリス(八歳)、次男のルーカス(六歳)、次女のマリア(五歳)、三男のフィリップ(三歳)、そして生まれたばかりの末娘——名前はまだない——いや、あるのかもしれないが、フェリシアには知らされていなかった。
末娘だけは、乳母の腕の中にいた。
フェリシアが部屋に入ると、子供たちは一斉に振り返った。そしてほぼ全員が、すぐに視線を逸らした。
「……みんな、久しぶりね。元気にしてた?」
我ながら間の抜けた言葉だと思った。でも、他に何を言えばよかったのか、分からなかった。
長女のクラリスが、少し尖った声で言った。
「お母様は今日、私たちの部屋に来るのに、なぜ香水をつけていないの?」
香水。
イザベラはいつも、上品なラベンダーの香りをまとっていた。フェリシアは産後から香水をつけていなかった。産後で匂いに敏感になってしまい、香水の香りをしんどいと感じていたから。
「……少し香水をつけることががしんどくて。ごめんなさい」
「イザベラお母様は具合が悪くても香水をつけてくださるわ。子供たちのそばに来るときは、身だしなみを整えるのが礼儀だからって」
八歳の娘の言葉は、刃のように鋭かった。
長男のエルヴィンが、クラリスの肩に手を置いて制した。長男らしい仕草だったが、その目はフェリシアに向かなかった。
「クラリス、やめなさい」
「でもお兄様——」
「……フェリシア様、今日は何かご用ですか?」クラリスを制しながら、エルヴィンが言った。
エルヴィンはフェリシアのことを「母上」と呼ばなかった。
もう何年も前から、そうだった。子供たちはいつの間にか、フェリシアを「フェリシア様」と呼ぶようになっていた。イザベラを「お母様」と呼ぶのとは、まるで違う温度で。
「……明日、私はこの屋敷を出ます」
誰も何も言わなかった。
「しばらく……会えなくなると思って、最後に会いにきたのです」
三歳のフィリップが、小さな手でイザベラの裾を握った。末娘は、乳母の腕の中で静かに眠っていた。
五歳のマリアが、ぽつりと言った。
「フェリシア様、どこに行くの?」
「まだ決めていないのよ」
「ふうん。そうなんだ」
マリアが言ったのは、それだけだった。
フェリシアが部屋を出る前に、長女のクラリスが背中に向かって言った。
「ねえ、フェリシア様」
「……なあに?」
「イザベラお母様が言ってたわ。太ってみっともなくなったのは、怠けていたからだって。産後にちゃんと節制すれば戻るのに、甘いものばかり食べていたからだって」
フェリシアは振り返らなかった。
「……そう」
「だから反省してね。どこに行っても。そんなんだから、お父様に嫌われたのよ」
乳母がパタンっと扉を閉めた。
扉の向こうからは、イザベラと子供たちが楽しそうに笑う声が聞こえてきた。
廊下に出たフェリシアは、壁に手をついて、しばらくそのまま動けなかった。
* * *
怠けていた、か。
心の中で、その言葉を転がした。
六回の妊娠。つわりで動けない日々。臨月で歩くことすら難しくなった夜。そして産後、授乳しながら眠れない日が続いた時間。
その間も、グスタフに求められれば断れなかった。妊娠中でも。産後一週間でも。嫌だと思っても、逆らえなかった。逆らえる立場ではなかった。
怠けていたのか、自分は。
フェリシアは笑おうとしたが、うまくできなかった。
ただ、目が少しだけ熱くなった。
* * *
翌朝、フェリシアは最小限の荷物を持って屋敷を出た。
馬車には御者がいるだけで、見送りに来た者は誰もいなかった。
グスタフも来なかった。イザベラも来なかった。子供たちも来なかった。
馬車が動き出した瞬間、フェリシアは窓から屋敷を振り返った。十年間、自分が住んでいた場所。六人の子供を産んだ場所。
でも——そこに、自分の場所はなかったのだと、今更ながらに気づいた。
最初から、なかったのだ。
馬車は王都の石畳を抜け、街道へと出た。向かう先は決めていなかった。フェリシアが御者に告げた行き先は、ただひとつ——「東へ」だった。
東に何があるかは知らない。ただ、王都から遠ざかりたかった。かつて自分が「魔性の女」として名を馳せた場所から、できるだけ遠くへ。
* * *
馬車の中で、フェリシアはじっと窓の外を見ていた。
春の街道は緑が鮮やかで、野の花が咲き乱れていた。こんなに美しい景色なのに、何も感じなかった。感情の器が、空っぽになってしまったみたいだった。
ふと、十年前のことを思い出した。
十八歳の春。学園の卒業式が近い頃。
あの頃の自分は——今とは別の生き物だったと思う。
いや、違う。あの頃の自分も、今の自分も、きっと同じ生き物だった。ただ、あの頃の自分は、今よりもっと深いところに閉じ込められていた。
* * *
フェリシア・ロゼは、男爵家の娘だった。
男爵家といっても、実態は借金まみれの没落貴族だった。父のヴィクトルは賭け事と酒を愛し、母のアニエスはドレスと宝石に目がなかった。気づいたときには家の財産はほとんど消え、残ったのは爵位の名前だけだった。
フェリシアが十五歳のとき、父に呼ばれた。
「おまえは美しいな、フェリシア」
父は上機嫌だった。そういうときは大抵、何か悪いことを企んでいるときだった。
「ありがとうございます、お父様」
「おまえの美しさで、この家を救ってくれないか?なっ、いいだろ?」
それが悪夢の始まりだった。
翌日から、母がフェリシアに「指導」を始めた。
どう歩けば男が振り返るか。どう笑えば相手が魅了されるか。どんな言葉を言えば、男は自分のものになると思い込むか。どう触れれば、手放せなくなるか。
フェリシアは覚えた。覚えるしかなかった。逆らえば父に殴られた。泣けば母に叱られた。「おまえは道具なのだから、道具として優秀でなければ価値がない」と、繰り返し言われた。
一年間の『訓練』を経て、十六歳で学園に入学したとき、フェリシアはすでに魔性の女へと変貌していた。
春の陽だまりを溶かしたようなピンクのふわふわした髪に、森の深淵を思わせる透き通ったグリーンの瞳。小麦色に焼けた健康的な肌は、見る者に無垢な野生美を連想させる。
だが、その愛らしい造形のすべてに、計算し尽くされた『毒』が回っていた。
笑い方。歩き方。視線の使い方。触れるタイミング。距離の詰め方。無邪気で愛らしく、従順な女。
すべてが、長い時間をかけて叩き込まれた技術だった。
* * *
学園に入った最初の週、フェリシアは標的を定めた。
——正確には、両親が標的を指定してきた。
王太子アルフォンス殿下。その側近の公爵家嫡男グスタフ・カスティール、騎士団長の息子セバスティアン・ライナー、魔法省長官の息子ドミニク・フォール、大商会を持つ伯爵家の次男ヴィンセント・エルム。
この五人さえ籠絡できれば、ロゼ男爵家の借金は消えると、父は試算していた。貴族社会とはそういうものだ。有力者の「お気に入り」になれば、後援が得られる。支援が得られれば、借金は返せる。
フェリシアはわかっていた。自分が何をするよう期待されているかを。
そして——それを実行した。
最初に仕掛けたのは、王太子アルフォンスだった。
廊下で「偶然」すれ違い、持っていた本を落とした。拾おうとして前傾みになった姿勢で、ちょうど彼の視線と目が合うように計算した。そこで少し困ったように微笑んで、「ありがとうございます」と言う。それだけでよかった。
三日後、アルフォンスは自分から話しかけてきた。
次はグスタフ。図書室で隣に座り、難しそうな顔で本を眺める。彼が「何を読んでいるんですか」と声をかけたくなるように——実際にかけてきた。
セバスティアン、ドミニク、ヴィンセントも、それぞれ違う手を使って落とした。
一人一人、慎重に。時間をかけて。
一ヶ月後には、五人全員がフェリシアの周囲に集まっていた。
学園中の噂になった。「男爵令嬢フェリシアは五人の有力者を手玉に取っている」「あの女は魔女だ」「絶対に近づくな」。
女生徒たちからは憎まれた。男生徒たちからは欲された。そして教師たちからは、見て見ぬふりをされた。
フェリシアは笑っていた。いつでも、どこでも、美しく笑っていた。
その裏で、寮の自室では毎晩泣いていたとしても、誰も知らなかった。
* * *
嫌がらせが始まったのは、入学から一ヶ月が経った頃だった。
最初は小さなことだった。
ドレスに赤いインクをかけられた。食堂のスープに塩を大量に入れられた。寮の廊下で誰かに足を引っかけられ、転んだ。
犯人は誰も名乗り出なかったし、フェリシアも訴えなかった。訴えても意味がないことは、最初からわかっていた。
黒幕はおそらく——マリアンヌ・ヴェルデだ、とフェリシアは見当をつけていた。
王太子アルフォンスの婚約者。公爵家の令嬢。黒髪に緑の瞳の、誰もが認める美しい女性。礼儀正しく、教養があり、将来の王妃にふさわしいと誰もが口を揃える令嬢だった。
ただし——フェリシアに対してだけは、その礼儀正しさが仮面であることを、フェリシアは知っていた。
「フェリシアさん」
ある日の昼食後、フェリシアはマリアンヌに呼び止められた。
周囲には、マリアンヌの取り巻きが六人ほど並んでいた。全員、有力貴族の娘たちだった。
「少しよろしいかしら」
「もちろんです、ヴェルデ様」
フェリシアは笑った。技術的に完璧な、穏やかな笑みを。
「殿下はお前のような女に構う趣味はないはずよ」とマリアンヌは言った。穏やかな声で、しかし目は笑っていなかった。「男爵家の令嬢が、分不相応な真似をしていると、みんな思っているわ。わかる?」
「ご忠告、ありがとうございます」
「忠告じゃありませんのよ」
マリアンヌは少し前に出た。
「あなたに対する警告ですの」
フェリシアは微笑みを崩さなかった。
その夜、寮に帰ると、部屋の窓から石が投げ込まれていた。割れたガラスの上に、紙切れが一枚あった。紙には『出て行け』とだけ書かれていた。
* * *
マリアンヌの嫌がらせはエスカレートした。
食堂では、フェリシアが座ると周囲の席が次々と立ち去った。授業では隣に誰も座らなかった。廊下ですれ違うたびに、聞こえるように「あの女」「厚かましい」「図々しい」と囁かれた。
寮の部屋の前に生ゴミが置かれていたことがあった。
授業で発表しようとしたら、クラス中の女生徒が一斉に笑い声を立てたことがあった。
学園の中庭で、マリアンヌの取り巻きに囲まれ、四方から水をかけられたことがあった。
そのとき——王太子アルフォンスが通りかかった。
彼は一瞬で状況を把握し、取り巻きたちを一瞥した。それだけで、全員が後退した。マリアンヌの名前を出す者は誰もいなかった。
「大丈夫ですか?フェリシア」
アルフォンスはフェリシアに金のボタンの付いた紺色の上着を差し出した。
「ありがとうございます、殿下」
「お可哀想に。犯人を懲らしめてやります」
「なんでもないんです。転んでしまっただけなんです」
アルフォンスは眉を寄せた。でも、追及はしなかった。
「寮まで送ります。大変でしたね」
王太子がこれ見よがしにフェリシアの腰を抱き寄せ、密着して歩く。
その親密さを誇示するような光景を、窓の隙間から何人の女生徒が呪わしく見つめていたか。
フェリシアにわかったのは、翌朝の嫌がらせがさらに苛烈になるだろうという予感だけだった。
案の定、翌日の嫌がらせはさらにひどくなった。
これが「庇われる」ということの実態だった。五人の男たちはフェリシアを守ると言った。実際に、直接的な暴力は何度か止めてくれた。でも——嫌がらせは止まらなかった。むしろ、男たちが介入するたびに、見えないところでの仕返しが増えた。
男たちにはわからなかった。女の世界の、女のやり方が。
フェリシアにはわかっていた。でも、言えなかった。
言えば、男たちが動く。動けば、また仕返しが来る。そのループだ。
だから黙っていた。笑って、やり過ごして、夜に一人で泣いた。
* * *
王太子アルフォンスが最初に「そういうこと」を求めてきたのは、入学から半年が経った頃だった。
放課後、人目のない渡り廊下で、彼はフェリシアの腕を引いた。
「フェリシア」
「殿下っ」
「……あなたのことが、頭から離れないんだ。いいだろう?」
フェリシアは知っていた。こうなることを。両親も、こうなることを見越していた。
だから——笑った。母に教えられた、男心をくすぐる無邪気な笑顔で。
「はい。私もです、殿下」
それだけ言って、少し近づいた。
その間、フェリシアは内側の意識をどこか遠い場所に逃がしていた。体は動かせた。言葉は出せた。表情も作れた。でも、心だけは——そこにいなかった。それが唯一の、自衛の方法だった。
* * *
五人の男たちは、それぞれ違っていた。
アルフォンスは優しかった。紳士的だった。でも、彼の「優しさ」は、フェリシアが笑っている間だけ有効だった。
グスタフは冷静だった。感情を見せなかった。ただ求めるものだけを求めて、終われば何事もなかったかのように振る舞った。
セバスティアンは粗暴だった。フェリシアが痛がっても、気づかないふりをした。
ドミニクは独占欲が強かった。他の男とフェリシアが話しているのを見ると、後で必ず「誰と話していたんだ」と問い詰めた。
ヴィンセントは一番不慣れで、それゆえに一番扱いやすかった。フェリシアが主導権を握れば、何も言わなかった。
五人に共通していたのは——フェリシアを「所有物」として扱っていたことだ。
でも、彼らはそれに気づいていなかった。自分たちはフェリシアを「大切にしている」と思っていた。彼女が笑えば嬉しそうにした。彼女が困っていれば助けた。マリアンヌの嫌がらせを知れば怒った。
だから余計に、質が悪かった。
「大切にされている」と思いながら消費されることの——どこにも怒りをぶつけられない感覚。
フェリシアはそれを、ひとつひとつ、胸の奥の壺に詰め込んでいった。
* * *
しかし彼らは、婚約者との関係も、当然のように維持していた。
アルフォンスはマリアンヌと、毎週日曜の午後に一緒に散歩をした。グスタフには別の婚約者がいた。セバスティアン、ドミニク、ヴィンセントにも、それぞれ家同士で決まった相手がいた。
フェリシアはそれを知っていた。知っていて、何も言わなかった。
言える立場ではなかった。自分はそういう役割のために、ここに置かれているのだから。
不思議だったのは——マリアンヌがフェリシアを憎み続けながら、アルフォンスとの関係をきちんと続けていたことだ。
あの女も、わかっていたのだろう。フェリシアは「使い捨て」の道具で、自分の立場を脅かすものではないと。だから憎んだ。脅威ではないからこそ、余裕を持って憎めたのだ。
フェリシアはそれを理解したとき、自分の心が、ただの空っぽな器へと成り果てていくのを、他人事のように眺めていた。
* * *
長かった学園生活の三年間が終わろうとしていた。
マリアンヌの嫌がらせは、最後まで続いた。形を変えながら、止まなかった。フェリシアのドレスが何度汚されたか、数えるのをやめた頃には、もう卒業が近かった。
五人との関係は、三年間続いた。五人と会わない週は、ほとんどなかった。
それでもフェリシアは、毎週日曜の午後だけは図書館に行った。
テオと話すために。
テオ・ランベール——図書館の司書見習い。身分は平民。学園に通っているのは奨学金のおかげで、将来は王都の図書館に就職することを夢見ていた。
フェリシアが彼と出会ったのは、入学から一年後の日曜日、五人の男たちの誰とも顔を合わせたくない日に、図書館の奥の棚の陰に隠れていたときだった。
「あの、大丈夫ですか?どうしたんですか?」
声をかけてきたのは、司書の制服を着た爽やかな黒髪の青年だった。
身長は高くなかった。貴族の男たちのような華やかさもなかった。ただ、本のインクのような、落ち着いた匂いがした。
「大丈夫です。気にしないでください」
「泣いていませんでしたか?本当に大丈夫ですか?」
「……泣いていません。大丈夫です」
「そうですか。わかりました」
テオは深追いしなかった。ただ棚を整えながら、隣で静かにしていた。
その沈黙が、フェリシアには不思議なほど心地よかった。
「あなたは、私に何か望みませんか?」
気づけばそう聞いていた。
「え?望み、ですか?」
「そうです。みんな望むんです。私に対して。だから……あなたも、きっと」
テオは少し考えてから言った。
「強いて言えば、静かに本を読んでいただければありがたいです。ここは図書館ですから」
フェリシアは声が出そうになるのを我慢して、笑った。
母に教え込まれたあざとい笑いではなかった。
多分、入学してから初めて、本物の笑みを浮かべた瞬間だった。
それからも、フェリシアは毎週日曜に図書館に来た。テオと話したかったから。
テオとは、読んだ本の感想を言い合った。彼が勧めてくれた詩集を読んで、その意味について話し合った。
テオはフェリシアに何も求めなかった。笑いかけなくても怒らなかった。黙っていても気まずそうにしなかった。ただそこにいて、本を整えて、たまに話しかけてきた。
愛していた、と今なら言える。
身分違いで、両親が絶対に許さないとわかっていたが、それでも——あの司書見習いの青年のことが、好きだった。
でも、フェリシアはその気持ちを封じた。
両親のために、五人の男たちを繋ぎとめ続けなければならなかったから。家の借金を返すためには、有力者の後ろ盾が必要だったから。そして——テオを巻き込みたくなかったから。
テオを五人の男たちの視野に入れれば、何が起きるかわからなかった。
だから——誰にも気づかれないよう、黙っていた。
* * *
卒業の季節に、五人は順番に「別れ」を告げた。
最初はアルフォンスだった。
「シア、あなたのことは大切に思っていた。でも、もうすぐ卒業し、私は王になるために、結婚する必要がある」
彼は誠実な顔で言った。本当にそう思っているのだろう、とフェリシアは判断した。
「はい。殿下も、お幸せに」
「マリアンヌとは——うまくやっていくつもりだ。でも、シアを忘れることはない。素敵な思い出を、ありがとう」
「ありがとうございます」
アルフォンスは少し気まずそうな顔をして、それでも去っていった。翌月、王太子とマリアンヌ・ヴェルデの結婚が公式発表された。学園中が祝福した。
セバスティアン、ドミニク、ヴィンセントも、それぞれ家の決めた相手と婚約し、フェリシアのことは過去のこととして処理した。
グスタフだけが、最後まで残った。
卒業式の前日、グスタフはフェリシアに言った。
「ファリシア、どうか私と結婚してくれないか?」
「ただし、第二夫人、としてだ。どうだい、いい話だろ?」
グスタフは淡々と言った。
「私の婚約者——イザベラ・コーランは、子を産みたくないと言っている。しかし、公爵家には跡継ぎが必要だ。あなたに、その役割を担ってもらいたい」
フェリシアは、しばらく何も言えなかった。
「……第二夫人は、正妻と同等の権利はありませんよね?」
「そうだな」
「子を産むために、私が必要ということでしょうか?」
「そうだ。それに、私はフェリシアを愛している。愛しているから子を産んで欲しいと思うのだ」
グスタフは表情を変えなかった。まるで業務上の取り決めを伝えるように、ただ事実を並べた。
「ロゼ男爵家の借金は、婚姻の対価として公爵家が肩代わりする。フェリシアの両親には十分な年金を支給する。フェリシア自身には、相応の生活を保証しよう」
フェリシアの頭に、両親の顔が浮かんだ。
父の、あの上機嫌な顔。母の、宝石を見るときの目。
この話は、もう両親の耳に入っているのだろう、とフェリシアには直感でわかった。
答えは、最初から決まっていた。
「……わかりました。よろしくお願いします」
「ああ」
グスタフは頷いた。それだけだった。
* * *
卒業式の日、フェリシアはテオに「さようなら」と言った。
「もう会えないのでしょうか?」
「そうですね。あなたには関係のない世界に行くから」
「……寂しいです」
「ありがとう」
「……幸せになってください。絶対に」
テオは、拳を握りしめながら言った。
フェリシアは「ありがとう」とも言えなかった。振り返ることもできなかった。
卒業式の後、男爵家に帰ると、両親は大喜びだった。
「さすがフェリシア! 公爵家に入れるなんて! 第二夫人でも十分じゃないか、むしろ良い話だ!」
父は酒を開けて祝った。母は新しいドレスを注文した。
フェリシアはその夜、自分の部屋で、三年ぶりにほんとうの意味で泣いた。
声を殺して。誰にも聞こえないように。
翌日から、フェリシアは公爵家の第二夫人への道を歩んだ。
そこで幸せになることは、できなかったけど。
* * *
馬車が止まったのは、街道沿いの宿場町だった。
御者が「それでは、ここで」と言ったとき、フェリシアは初めて外の景色を意識した。日が傾いていた。いつの間にか夕方になっていた。
宿は質素だったが、清潔だった。夕食に出てきたのはシチューとパンだけだったが、フェリシアはそれを——久しぶりに、味を感じながら食べた。
公爵家の食事はいつも豪華だった。でも、フェリシアはほとんど味わったことがなかった。食事中もグスタフの機嫌を窺い、イザベラの顔色を見て、子供たちの様子を確認して、気づけば食事が終わっていた。
シチューは、塩気が少し強かった。でも、温かかった。
それだけで、少し、涙が出た。
変な話だと思った。離縁状を突きつけられても泣かなかったのに、シチューの温かさで泣けるなんて。
でも、多分——ずっと「温かい」と思える瞬間を、探していたのだと思う。
* * *
夜、やはり眠ることができなかった。
天井を見ながら、フェリシアは考えた。
自分は何をしてきたのだろう、と。
五人の男を手玉に取った。それは事実だ。彼らを惑わせた。彼らの心を操った。女生徒たちが傷ついた。嫉妬した彼らの婚約者たちが泣いているのを見ても、見て見ぬふりをした。
学園時代、グスタフの婚約者だったイザベラから直接的な嫌がらせを受けたことは一度もなかった。彼女は常に高潔で、私のような存在を視界に入れることすら拒んでいた。けれど、彼女もまた私の存在に、言葉にできないほど深く傷ついていたはずだ。
十年後の今、私に子供を産ませるだけ産ませて、用済みとして屋敷から叩き出す。……それはもしかしたら、あの日々を耐え忍んだイザベラが、長い年月をかけて完成させた、私への最も残酷で静かな仕返しだったのかもしれない
私の人生は、間違いだったのか。
わからない。
ただ——自分の意志でやっていたわけではなかった、という言い訳を、フェリシアはずっと自分の中だけに抱えてきた。
でもそれは、単なる言い訳だ。
誰かに言えばよかったのか。でも言えなかった。両親の言うことを聞かなければ、もっと怖いことになると知っていたから。逃げ場がなかったから。
それは——どう呼べばいいのだろう。
自業自得なのか。被害者なのか。
どちらでもあって、どちらでもないような気がした。
五人の男たちやその婚約者たちを傷つけたのは事実だ。でも、自分もまた、傷つけられていたのも事実だ。
どこかで「可哀想」と言ってほしかったのかもしれない。
でも——誰がそれを言えた? 誰もフェリシアの内側なんて見ようとしなかった。見えていたのは、「魔性の女」という仮面だけだった。
* * *
翌朝、宿場町を歩いていたとき、フェリシアは奇妙な匂いに足を止めた。
知らない匂いだった。刺激的で、でも温かくて、複雑で——なぜか胸の奥が、ふわりと軽くなるような気がした。
匂いをたどると、市場の端にある小さな露店に行き着いた。
壺に入った、赤や黄や茶色の粉。葉や実や根を乾燥させたもの。露店の奥で小鍋をかき混ぜていたのは、三十代半ばくらいの女性だった。くりくりとした黒い目と、日焼けした健康そうな肌。にっかりと笑うと、八重歯が見えた。
「いらっしゃい、奥さん。スパイスに興味あるの?」
南方訛りのある、よく通る声だった。
「これは……なんですか?いい匂いですね」
「クミン、カルダモン、コリアンダー、ターメリック——まあいろいろあるけど、今一番いいのはこれよ」
女性はてきぱきと壺の蓋を開けながら、フェリシアの前に差し出した。
「さあ、嗅いでみて」
フェリシアは一つ一つ、香りを嗅いだ。
知らない匂いがした。でも、どれも——体の奥で何かが反応するような気がした。懐かしいわけでも馴染みがあるわけでもないのに、心地よい、妙な感覚。
「これらは料理に使うんですか?」
「そう! カレーって知ってる?南の国の料理。体が温まるし、気持ちも元気になるんですよ。私ね、これがなきゃ一日が始まらないくらい好きなんだよね〜」
「食べたことないです。美味しそうですね」
「え、本当に!?カレー食べたことないの?」
女性は目を丸くして、それからにやりと笑った。
「じゃあ食べてみる? ちょうど昼用に作ってたとこだから、少し分けてあげるよ。味見してみて〜」
押しつけがましくなく、ただ気前よく女性は言った。
小さな鍋で作られたカレーを、フェリシアは木の椀に盛ってもらい、立ったまま食べた。
口に入れた瞬間——美味しさが、弾けた。
辛い。でも温かい。複雑な香りが鼻から抜ける。スパイスが舌の上で広がって、熱さが喉を通り、胃の中へ落ちていく。体の奥、ずっと冷えていた場所が、じわじわと温かくなっていく。
今まで食べたどんな豪華な料理よりも——このカレーという食べ物が、おいしかった。
公爵家の晩餐に並んでいた、銀の皿の料理たちのことを思った。何が乗っていたか、もう思い出せない。でも、このカレーは——今この瞬間、全身の感覚で美味しさを感じている。
「……おいしい!初めての味だわ」
声が、少し震えた。
「でしょう!カレーは美味しいのよ〜。種類もたくさんあるし、毎日食べても飽きないのよ」
女性は誇らしそうに笑った。
「不思議なもんでね、悲しいときに食べると特においしいんですよ。魂が欲してるのかな、って私は思ってるんだけど」
フェリシアは返事をしなかった。
椀の底に残った最後の一口を、大切に、ゆっくりと食べた。
* * *
「あの」
食べ終わった椀を返しながら、フェリシアは言った。
「……カレーの作り方を、教えていただけませんか?」
女性がぱちりと瞬きをした。
「え?」
「このカレーの、作り方を。お代は払います。いくらでも」
我ながら必死だと思った。でも、抑えられなかった。
この味をまた食べたかった。自分の手で作れるようになりたかった。理由はそれだけだったが、フェリシアの人生でこれほど強く「何かを学んでみたい」と思ったことは、ほとんどなかった。
女性はしばらくフェリシアの顔を見てから、くすりと笑った。
「お代はいらないよ。でも、私の話し相手になってくれる?」
「……話し相手、ですか?それだけでいいんですか?」
「一人で店やってるとね、さみしいのよ。旦那は南に帰っちゃったし、子供もいないし。あんた、行き先決まってるの?」
フェリシアは少し考えた。
「……もう少し、東に行こうと思っていました」
「東? この先の村?」
「そのあたりで、家を借りようかと思ってたんです」
「じゃあ近いじゃない!わ〜、素敵だわ」
女性は両手を叩いた。
「私、名前はリサ。リサ・ナンバラ。あんたは?」
「……フェリシア、です」
「フェリシアね。よし、決まり。毎週来なさい。カレーの作り方、全部教えてあげるから」
リサはそう言って、また八重歯を見せて笑った。
* * *
宿場町から東へ馬車で1時間ほどの場所にある小さな村に、フェリシアは家を借りた。
かつては薬師が使っていたらしい、入り口に棚のついた石造りの家だった。台所は狭かったが、かまどがあった。家賃はわずかで、公爵家から持ち出してきた蓄えで十分に払えた。
そして週に一度、リサの露店へ通うことが、フェリシアの習慣になった。
リサは教えるのが上手かった。
「まず粒のスパイスを油で炒めるの。ここが大事。香りが出るまで、弱火でじっくり焦がさないようにね。鼻で確認するのよ」
「どんな香りになったらいいんですか?」
「ぷわーって、花が咲くみたいな感じ。嗅いだらわかるから。鼻を信じてみて!」
鼻を信じる、とはどういうことか。最初はよくわからなかった。でも三回目に、鍋の前に顔を近づけたとき——確かに、何かが変わった瞬間がわかった気がした。
「……今でしょうか?」
「そう! 今よ!みじん切りした 玉ねぎ入れて!早く早く〜」
リサが嬉しそうに声を上げた。
フェリシアはそのとき、自分が笑っていることに気づいた。
あんなに悲しいことがあったのに、笑っていることを不思議に思った。
* * *
月日が経つのは、思ったより早かった。
週に一度のカレーの稽古は、いつの間にか週に二度になり、リサが「うちで一緒に食べない?一緒に食べる方が美味しいからさ」と言い始めてからは、昼食を共にすることも増えた。
リサは南の国の出身で、行商人の夫についてこの国に来たが、夫が故郷に戻ることになったときに「私はここに残るから、よろしく!」と言い張って、一人でスパイス商を続けているのだという。
「なんで残ったんですか?寂しくないんですか?」
「この国のご飯が好きになっちゃったからかな。それと——自分の店が、手放せなかったんだよね」
リサはさらりと言った。
「夫のことは好きだったけど、夫についていくより、自分の店を続けることを選んだの。夫も納得してくれた。今も年に二、三回、会いに来るよ」
「……それで、いいんですか?」
「いいの。いいの。私たちはそれでうまくやってる。夫婦にはね、いろんな形があるのよ」
フェリシアは黙って聞いていた。
「あんたはどう? 一人でこっちに来て、誰かのことが心配?やっぱり子供とか?両親とか?」
フェリシアは少し考えてから、首を振った。
「実は、私の子供たちは……別の人が育てています。私より、上手に育ててくれていると思います」
「そっか。変なこと聞いちゃって、ごめん」
リサはそれ以上聞かなかった。
フェリシアにはそれがとても、ありがたかった。
* * *
春が過ぎ、夏が来た。
フェリシアがこの村に来て、三ヶ月が経っていた。
ある朝、台所のかまどの前に座って、フェリシアは泣いていた。
泣きながら、カレーを食べていた。
理由は、自分でもよくわからなかった。でも——涙が出て止まらなかった。
ちょうどそこへ、リサが入ってきた。
フェリシアは慌てて顔を上げた。
「リサさん、今日は早いですね」
「スパイスのおすそわけがあったから。って……泣いてる?」
「ごめんなさい……少し泣いちゃって。スパイスが辛かったかもしれません」
「カレー食べながら泣いてる人、初めて見たよ。どしたん?」
リサは笑いながら、フェリシアの隣に腰を下ろした。
「おいしいから泣いてるの?」
「……おいしいから、だと思います」
「ははは。そんなこともあるよね〜」
リサは鍋を覗き込んだ。
「上手になったじゃない。三ヶ月前とは別物ね」
「リサさんが教えてくれたから」
「才能があったのよ。私が教えたのは技術だけ。センスはあなたのもの」
フェリシアはまた、少し泣いた。褒められることに、慣れていなかった。貶されることには慣れていたのに。
* * *
リサが「ところで」と言ったのは、二杯目のチャイを淹れながらだった。
「最近、顔色よくなったよね」
「……そうですか」
「うん。来たときより、肌がきれいになった。体も——少し変わった?」
フェリシアは少し考えてから、頷いた。
「少し、体重が落ちてきています」
「それは体がいい状態に戻ってきてるってことよ」
「……そうかもしれません」
フェリシアは手の中のカップを見つめた。
「でも」
少し間があった。
「でも?」
「実は……痩せて綺麗になるのが、怖いんです」
リサが手を止めた。
「痩せるのが怖い?どうして?世の女性たちは、みんな痩せて綺麗になりたがってるよ?」
「あの……実は」
フェリシアは言葉を探した。ずっと誰にも言えなかったことを、言葉にするのは難しかった。
「若くて、美しかったとき——何もいいことが、なかったんです」
フェリシアは、ゆっくりと話し始めた。
両親のことから。十五歳から始まった「訓練」のことから。
リサは口を挟まなかった。チャイを飲みながら、ただ聞いていた。
学園のことも話した。五人の男たちのことも。自分の意志ではなく、でも逃げることもできず、ただ言われた通りに動いていたこと。庇われながら、見えないところで嫌がらせを受け続けていたこと。
「誰も、私の中を見ようとしなかったし、外側だけを見ていたと思います」
「もし、私が美しくなければ、若くなければ、女性でなければ、こんなに搾取されることもなかった気がします」
フェリシアの声は、静かだった。
「美しければ利用できる。美しくなくなれば捨てる。十年で六人子供を産まされて、体型が戻らなかったら——もう用無しだ・愛していないというように、追い出されました」
喉の奥が熱く、苦しくなるのを感じながらフェリシアは続けた。
「……一番情けないのは、そんな風に搾取されるがままだった自分なんです。私、時々思うんです。あの十五歳の少女だった時、もっと賢く、もっと強くいられたらって。
例えば、死を覚悟して家を飛び出していれば。貴族なんて身分を捨てて、名もなき誰かとして逃げ出していたら……。野垂れ死んでいたかもしれないけれど、少なくとも、こんな風に自分を安売りして、自分も、関わる人たちも傷つけずに済んだんじゃないかって。
何も抵抗しなかった、無力で間抜けな自分を、どうしても許せないんです。
だから怖いんです。もし痩せて綺麗になったら、あの頃と同じ過ちを繰り返してしまうんじゃないかって。抗えず、男や世間に利用される人生に逆戻りするのが、怖いんです」
「……」
「……また女として見られることが、怖いんです」
フェリシアの声は、今にも途切れそうなほど細く、震えていた。
リサは、しばらく何も言わなかった。
窓の外で、夏の風が木の葉を揺らす音がした。
「フェリシア」とリサは優しく声をかけた。
「はい」
「ちょっとこっちおいで」
リサはそう言って、腕を広げた。
フェリシアは一瞬、動けなかった。
抱きしめられることに、慣れていなかった。「相手の欲を満たすために」抱かれることには慣れていたが——「優しさから」抱きしめられることを、知らなかった。
でも、リサの腕は待っていた。
フェリシアは、ゆっくりとその腕の中に入った。
リサの体は温かかった。スパイスと、少し汗の匂いがした。それがひどく人間らしくて——フェリシアは、声を出して泣いた。
子供みたいに、声を出して。
* * *
しばらくして、リサがぽんぽんと背中を叩いた。
「ねえ、言っていい?」
「……はい、いいですよ」とフェリシアは頷いた。
「その男たちと、公爵と、全員まとめて言いたいんだけど」
「はい」
「みんな最低ね。クズ中のクズだわ!」
フェリシアは、泣きながら笑った。
「確かに、そうですよね」
「あなたのお父さんとお母さんも、最低ね」
「……そうですよね」
「あんたは悪くない。だからもう気にしちゃダメよ」
リサの声は、静かだった。でも、ぶれなかった。
「あんたは悪くないよ、フェリシア。あなたは十五歳のときから、ずっと逃げ場がなかった。それは、あんたのせいじゃない」
「……でも、私は、いろんな人を傷つけて——」
「あんたが傷つけた人がいたとしても、あんたが傷つけられた事実は消えない。二つは別のことよ。全部ひとまとめにして自分を責めなくていいんだから」
フェリシアはまた、わんわん泣いた。
リサはずっと、背中に手を当ててポンポンと優しく叩いた。
* * *
少し落ち着いてから、リサが言った。
「ね、いいこと教えてあげようか」
「いいこと?……何ですか?」
「悪い男への対処法よ!」
フェリシアは顔を上げた。リサは真剣な顔をしていたが、目だけは笑っていた。
「第一条。求められたとき、断っていいということを知っておく。断れない状況を作るのが向こうの手なんだから、その手を先に知っておく」リサは右手の指を一本立てながら言った。
「……」
「第二条。相手が何かをくれるとき、必ず何かを取ろうとしている。ただの親切に見えても、帳簿があると思って動く」リサは右手の指を二本立てながら言った。
「第三条。あなたを大切にする人は、あなたが笑っていないときでも大切にする。それ以外の人は、大切にしているんじゃなくて、利用しているだけ」リサは指を三本立てて言った。
フェリシアはしばらく考えた。
「……テオは、そうでした」
「テオ?どんな人だったの?」
「図書館にいた人です。私が泣いていても——特に何も言わずに、隣にいてくれた唯一の人でした」
「いい人もいたのね」
「平民でしたけど、素敵な人でした」
「平民かどうかは、関係ないわ」
リサはあっさり言った。
「身分より、人の中身の方が大事。身分は変えられないけど、中身は変わる。いい方にも、悪い方にも」
フェリシアは、チャイを一口飲んだ。
冷めていたが、甘かった。
「リサさん」
「うん」
「私、痩せて、綺麗になってもいいんでしょうか?」
リサが少し、首を傾けた。
「そうね。綺麗になるのはいいことよ」
「痩せて綺麗になることが、怖い、と言いました。でも——本当は」
フェリシアは少し考えてから、続けた。
「本当は、綺麗になることが怖いんじゃなくて、綺麗になったらまた利用されることが怖い、だったんだと思います。でも——それは、綺麗になることが悪いんじゃなくて、利用する人間の方が悪い、ですよね」
「そうよ」
リサは静かに頷いた。
「あんた、やっと気づけたのね」
「リサさんのおかげで今、気づきました」
「大丈夫よ」
リサはまた、にっこりと笑った。可愛らしい八重歯が見えた。
「あなたは綺麗になっても大丈夫。今度は——使い方を知っていけばいいから」
「使い方、ですか?」
「自分の綺麗さを、自分のために使う方法。自分が好きな人に向ける方法。そして——利用しようとしてくる人間を、遠ざける方法」
フェリシアは、その言葉を胸の中で転がした。
自分のために、使う。
今まで、考えたことがなかった言葉だった。
「あんたは幸せになれるよ、フェリシア」
リサの声は、断言するような強さがあった。
「綺麗だから不幸だったんじゃない。綺麗さを搾取する人間に囲まれていたから不幸だったのよ。その環境から出た今、もう同じことは繰り返さなくていいのよ」
窓の外で、夏の風が吹いた。
スパイスの香りが、ゆるやかに漂った。
フェリシアは目を閉じて、その香りを吸い込んだ。
体の奥が、温かかった。
* * *
秋が来た。
フェリシアの体は、少しずつ変わっていた。
産後のむくみが引き、肌に艶が戻ってきた。体重が落ちて、顔の輪郭が変わった。鏡を持っていなかったので細かくは確認できなかったが、水桶の水面を見るたびに、「変わってきている」とわかった。
でも——今はもう、それが怖くなかった。
リサに言われた言葉が、まだ胸の中にある。
「あなたは綺麗になっても幸せになれるわ」
今のフェリシアは、もうすでに幸せだった。
リサとカレーを食べて、リサの店を手伝う。
そんな日常を、ずっと大切にしたいと思えていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
よろしければ評価ボタン(☆)やブックマークで応援よろしくお願いたします。




