第一章 I will ring a bell until you feel me by your side
第一話 殴る青年
走って殴る。
その男の仕事は、それだけだった。
ーーーカンカンカンカン
「さぁさぁ始まります!我らの中間マージンを掻っ攫う常習犯! ラグ・グニルー!」
傾いた巨大な時計台がそびえる広場。
その中央で拡声器を持ったオールバックの男がしゃがれた声で煽る。
湧き上がる歓声と怒声、そして罵声。
群衆で出来た即席のリング。
浴びせられる熱狂も、飛び散る唾からも、そこに立つ選手には避ける術がなかった。
ラグ・グニルは、それらがまるで聞こえないと言った様子で肩を回す。
赤みがかった前髪から覗く辟易とした目。わずかに上がった口角。
引き締まっているようで、薄くあばらの浮いた身体をだらりとして晒し、気怠そうに、足元の土を素足で踏み固める。
膝下でほつれたズボンの糸が足の動きにつられて揺れる。
「対するは現役兵士の闇営業!ハリイ・ウィルスー!」
二メートルはあろうかという巨体。
鍛え抜いた筋肉を誇示するように膨らませ、拳を突き上げる。
太い革製のベルトが、膨れ上がった上体を締め上げる。
サイズの大きなブーツは足首をきっちりと締め、軍服越しに太腿の逞しさが窺える。
短く整った金髪の下は強い意志を宿す眼光。
ニヤリと覗く白い歯は、眼前の明らかに年下で、細い男に向けられる。
時計台を挟んだ両者が出揃い、観客の声は最高潮に達した。
歓声と罵声、そして砂埃が、観客が作る六メートル四方の舞台を塗りつぶしていく。
時計台の低く割れた重い鐘の音が十五時を報せた。
「始め!」
奇声のような合図と真鍮の音が広場を叩く。
ふぅぅっと深く息を吐き、流れるように沈むラグ・グニル。
瞬間。
足元の砂利が爆ぜた。
ハリイ・ウィルスの視界が、発射直前の右拳を捉える。
長年の経験が反射を呼ぶ。
重心を右に傾け、右手を伸ばす。――捕まえる。
が、ラグには見えていた。
時が刻まれる。
踏み込んだ右足で地を蹴り、左足へ重心を移す。ーー左拳が走る。
鈍い音。
ハリイ・ウィルスの顔面が砕け、巨体が宙へ浮く。
司会の合図から二秒足らず。
ブーツのつま先が地に触れ、巨体は、糸が切れたように膝から崩れ落ちる。
見下ろすラグの視線の先。
巨体は正座の体勢でうな垂れ、どうやら意識は肉体から離れていた。
舞い上がった砂埃が、無情に両者を覆う。
「やってくれたな、ラグ・グニルー!!」
激しく叩かれる真鍮はひどく耳障りだった。
再び湧き上がる歓声にも、応えない。
時計台の元までノロノロと歩き、ただ無言で、報酬を寄越せと、手で示す。
ーーー
「んー、確かに強そうだけど。なんかお猿さんみたいじゃない?」
「いやまあ、訓練兵じゃないしな」
「…それ本気か?」
観衆が形作る“リング”を、外套をまとった三人が廃れた建物の四階から見下ろしていた。稼ぎを握りしめ、ラグ・グニルは、その三人へと視線を向ける。
「ほら」
一人の男が、残る二人に呆れた表情を向けた。
ーーー
「なに?スカウト?」
所々アスファルトの欠け落ちた外壁。
廃れたビルの、剥き出しの鉄骨が骨のように突き出した一室。
大きな窓ガラスはずっと前に割れていた様子で、乾いた風と眼下の汚れた喧騒が、隔てられることなく部屋に居座っている。
ラグ・グニルは、申し訳程度の肉片を挟んだ硬いパンを齧りながら、三人を正面に見据えた。
「そう!強いって聞いてさ!誘いにきたんだよ」
長身の男が両手を広げ、朗らかに言った。
へぇとだけ返し、次の言葉を待つ。
顎を動かすたび、乾燥したパンの粉がボロボロと草履の隙間に落ちる。
長身の男は外套のフードを後ろに回し、整った麦のように明るい髪が現れる。
眉の上でサラサラと揺れる髪質は、明らかにその場に似つかわしくはなかった。
上着のポケットから小さな手帳のような物を取り出し示す。
「いや、失礼。私はリブルムンド王国対魔軍第8部隊所属ディル・レミントン」
「サイラス・フェイ」
「ミレイ・ブラウ!」
三人の名が、雑音に混じって部屋に響く。
訓練されたかのように順にフードを外す。
伸ばしっぱなし黒髪を真ん中で分けた男に、ショートカットの栗毛の女。
足元は同じブーツで揃えられていて、黒い皮が鈍く光っている。
ラグは視線を天井の鉄骨へ向ける。
「あー兵隊かぁ。とうとう軍隊からのスカウトか。でもオレ、銃なんか使ったことないぜ?」
ぐうっと腕を伸ばし、パンの包み紙を一番上で放る。
「なるほど。賭け事のスカウトと思われたか」
ディル・レミントンは顎に手を当て、視線を窓の外へと逃がした。
「武器は、銃だけとは限らないがな」
横に立つサイラス・フェイが、重々しくマントを払った。
腰に差した長剣の鞘が、鈍い光を反射する。
三人の中ではほぼ同じ身長の黒髪の男に、ラグは舐めるように視線を這わせる。
「危険な仕事だ。当然命にかかわる。対魔と言っても他国の人間相手の時もある。その代わり衣食住は保証される。相応の報酬もある。どうだ?」
ディルが視線を戻す。その瞳の奥に、冷たい圧力が宿る。
「ん?つまり魔獣狩りの人員補充だろ?」
「あーー、この人説明が必要な人だよー」
ミレイ・ブラウはため息混じりに肩を落とす。
「よし!お茶でもしようか!」
ディル・レミントンはまた朗らかに提案する。
「あーじゃあ家行くか。少し歩くけど。じいちゃんいるし」
四人は、砂埃の舞う路地を後にし、ラグの住処へと足を向ける。
「ラグは魔獣との経験はあるかい?」
「あー、何度かあるよ。町のみんなでボコボコにした」
最後尾を歩くサイラス・フェイだけは、前を行くラグの無防備な背中から、一度として視線を外すことはなかった。




