23 わざとジュースをかぶってみた
王立貴族学園の寮に併設された大食堂は、柔らかな灯りに包まれていた。天井の高い空間に、貴族の子女たちの談笑が響いている。
食堂の中ほど、窓際に近いテーブルで、俺は妹を待っていた。あまり目立ちすぎず、それでいて彼女がすぐに気づける位置。オルディアーク公爵家の名に恥じない品格を保ちながら、アメリアが落ち着いて食事できる場所を選んだつもりだ。
──そして、現れたアメリアを見て、俺の時間が一瞬止まった。
淡い青のドレス。光沢のあるシルクのような生地が、アメリアの肌の白さと柔らかさを引き立てている。
裾には花のようなレースの刺繍、袖口は細い腕を華奢に見せ、首元には控えめな真珠のネックレス。
なにより、妹の笑顔が……すべてを輝かせている。
「……なんて綺麗で、可愛いんだ」
思わず零れた言葉は、心の底からの本音だった。──俺の妹は、世界一だ。
「アメリア、こっちだ。席はここ。ゆっくり座って待ってろ。おまえの好きそうなもの、取ってきてやる」
そう言って立ち上がり、ビュッフェの台へと向かう。
皿を手に、アメリアが喜びそうな料理を思い浮かべながら、ひとつひとつ丁寧に盛っていく。
「わ……お兄ちゃん、これ、全部?」
席に着いたアメリアが、並べられた皿を見てぱちくりと瞬きをする。それぞれの皿には、色とりどりの料理が少しずつ。見た目にも楽しく、どれも妹の好きそうなものばかりだ。
「おまえが好きなやつを、ちょっとずつ全部取ってきた。せっかくだし、楽しみながら食べろ」
「は、はい……でも、食べきれるかなぁ。放課後、屋台でけっこう食べちゃったし」
そう言いながらも、アメリアは嬉しそうに笑ってフォークを手に取った。
俺も向かいに腰を下ろし、その様子を目を細めて見つめる。
こうして、元気に食べる姿を見るたび、安心する。少し前までは、スプーンを持つ手すらおぼつかなかったのに。
「……小舟、とっても楽しかったです。それに、いろんなお店が目新しくて……大道芸人さんのパフォーマンスも素敵でした」
嬉しそうに話すアメリアの瞳が、まるで星のようにきらきらと輝いている。
「そうか。楽しめたなら、何よりだ。……また行きたくなったら、いつでも言え」
「はい! お兄ちゃんが一緒なら、どこでも嬉しいです」
その笑顔があまりに眩しくて、思わず言葉が漏れた。
「……それに、そのドレスもよく似合ってる。今日のアメリアは、誰よりも可愛いよ」
アメリアは一瞬ぽかんとし、それから真っ赤になって俯いた。
「そ、そんなこと……っ。でも、ありがとうございます……!」
アメリアは照れくさそうに頬を染めながらも、嬉しそうにこちらを見上げてきた。
その仕草が、もうどうしようもないくらい愛らしい。
――やっぱり、俺の妹は世界一だな。
今日だけで、もう何度目か。
心の中で“世界一”を更新するたびに、アメリアの笑顔が、さらにその記録を塗り替えていく気がする。
そこへ、影が差した。ピアスン侯爵令嬢。艶やかな赤のドレスに身を包み、わざとらしく俺たちのテーブルに近づいてきた。目は、アメリアのドレスに釘付けだった。
――ああ、またか。まったく懲りないな。
俺が前に「次は容赦しない」と釘を刺したはずなんだが……。
本当に、耳がついてるのか疑わしい。
その勘は、すぐに的中する。ピアスン侯爵令嬢は、手に持っていたグラス──オレンジジュースをたっぷり注いだそれを片手に、足元でバランスを崩したふりをした。
「きゃっ……!」
そして、ジュースがこちらに向かって飛ぶ。狙いはアメリアのドレスのようだ。
本来なら、魔法で軌道を逸らすのは簡単だ。だが、俺は《《あえて》》それを《《しなかった》》。代わりに、アメリアの肩を抱き、身を挺して妹を庇う。冷たい感触が頭から肩へ、そして背中へと広がった。
「……っ」
周囲がざわめいた。
息を呑む音、低く囁かれる声、そして俺に向けられる驚きと同情の視線。
あからさまに笑う者はいなかったが、どこか面白がるような目つきが、いくつか突き刺さる。
──俺のような立場の人間が、こんなふうにジュースを浴びせられる光景は、普段うつむいてばかりの下位貴族の子息たちには、きっと痛快に映るんだろうな。
だが俺は、ただ静かにアメリアの顔を覗き込んだ。濡れたままの自分の姿には、構っていられない。
「アメリア。ドレスは……濡れなかったか?」
「お、お兄ちゃん……! なんで、庇ってくれたの? ……びしょ濡れじゃない、どうしよう……っ」
アメリアの瞳に、じわりと涙がにじむ。震える声に、胸が少しだけ痛んだ。
俺はふっと笑い、濡れた前髪をかき上げた。
「よかった。せっかくの綺麗なドレスが台無しになるところだったな。俺のことは……まぁ、気にするな。――ほら、水もしたたる、いい男ってやつだ」
「……?」
アメリアが首を傾げる。
――ああ、そうか。そういう洒落は、この世界にはないんだったな。
俺は苦笑しながら、ジュースに濡れた袖を軽く払う。
そして、ゆっくりと視線を巡らせ、ピアスン侯爵令嬢を真っすぐに見据えた。
彼女は唇をきつく結び、俯いている。
だが、逃げ場なんて与えるつもりはない。
「さて……これは“《《わざと》》”かな? それとも、《《まともに歩くこともできない》》ほど、淑女教育が追いついていないだけか」
くすくすと、小さな笑い声が周囲から漏れ始めた。遠巻きに見ていた生徒たちが、口元を押さえながら囁き合う。
やがて、事の異変に気づいた教師たちが食堂へ集まり、そして数分もしないうちに、学園長までもが駆けつけてきた。濡れたままの俺の姿を見て、学園長の目が大きく見開かれる。
「ピアスン侯爵令嬢が、俺にオレンジジュースをかけた」
俺は濡れたままの袖を一瞥し、ゆっくりと口を開く。
教職員たち、そして学園長へと視線を向けながら続けた。
「もし、これが“故意”であったのなら――ピアスン侯爵家に正式に抗議する。公衆の面前で貴族の面目を潰されたわけだからな。それ相応の慰謝料を請求させてもらう」
ざわりと空気が揺れる。
「逆に、ただ《《歩行が不安定》》で、偶然だったというのなら……学園長。彼女には、淑女教育の《《基礎から》》もう一度、きっちり教えて差し上げたほうがいい」
そして俺は、にっこりと笑ってとどめを刺す。
「まずは、特別授業で“《《歩き方の練習》》”から始めるといいんじゃないか」
その瞬間、静まり返っていた空気が破裂したかのように周囲の貴族子女たちから、どっと笑い声が上がった。
ピアスン侯爵令嬢の肩が、小さく震えた。




