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気が視えた俺と、守りたがりな彼女と、戻らない何か  作者: 白川


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1-5 痛みを伴う選択

 家の玄関を開けた瞬間、日常の匂いが押し寄せてきた。味噌汁の湯気、テレビの笑い声、食卓のざわめき。俺が外で味わった焦燥も恐怖も、ここには一切ないかのようだ。


「おかえり。手洗って来なさい」


 台所から母の声。父はビール片手にテレビを見て笑っている。妹はもう夕食を終えて部屋に戻っているようだった。

 どうやら俺は少し遅れたらしい。


(……俺だけ、昨日とは違う世界に来てしまったみたいだ)


 椅子に座ると当たり前のように温かい夕飯が出てきた。唐揚げ、ポテトサラダ、味噌汁。俺の好きなものばかりだ。いつも通りのくだらない会話。


「翔太? あんまり食べてないじゃない」

「ん? あ、疲れただけ」


 無理に笑ってごまかした。「そう?」母は不思議そうに笑って、それ以上追い込まない。俺の頭の中は、藤堂師範へ啖呵を切ったこと。紗季とのやりとり。生き延びることだけで埋まっていた。日常は優しい。優しすぎてこの平穏そのものが偽物に思えてしまう。

 部屋に戻り、机の上の古い武術書を見つめる。


(俺は……俺の力を俺の手で掴む)


 紗季にも師範にも頼らない。依存した瞬間きっと俺の道じゃなくなる。

 深く息を吸って丹田へ意識を向ける。身体の奥底を細い熱が走った。


(……確かにある。なのに――)


 形にならない。掴もうとしても、するりと逃げていく。焦りだけが募る。

 呼吸を乱すまいと続けても、汗が畳に落ち視界がにじむ。


(もっと……強くならなきゃ)



 ***


 そうして一週間が過ぎた。怪異は現れない。町は平穏そのもの。それなのに俺の胸は、ずっとざわついていた。


(何かが……迫っている)


 眠っても休まらない。不安が消えない。

 師範の言葉が何度も蘇る。『気が変わったら、いつでも来い』その優しさがいまは重荷だった。縋ればその瞬間に心が折れる。そんな気がした。

 自分の意地を吐き出すわけにはいかない。


「……寝るか」


 布団に潜り武術書をめくる。だが目は文字を追ってても、頭は同じ思考の沼をぐるぐると回る。


(俺だけ……取り残されている)


 そう呟き目を閉じた。その瞬間――身体が重くなった。圧力だ。水深何百メートルの海底で全身を押し潰されるような……息ができない。視界が闇に沈んだ。


 次に目を開けたとき、見えるはずの天井はなかった。木の梁。ゆらゆら揺れる行灯の光。畳の匂い。

 ここは――どこだ。起き上がると、外には広い庭と鬱蒼とした森。風の音だけが響いていた。現実の部屋ではない。


(……夢?)


「やっと目を覚ました?」


 鈴のように透き通る声。振り向くと銀色の髪を持つ女が壁にもたれていた。黒い瞳がまるで光を放つように俺を見つめている。


「ここは……」


 情けないほど震えた声に、女は笑みを浮かべた。


「焦らないで。ここはあんたが普段いる場所とは違う。まあ、精神世界ってところかな」

「精神……世界?」

「夢よ。でも現実でもある」


 意味が分からない。だけど女の目には確信しかなかった。

 胸の奥がざわめいた。知らない世界を見せられたときの本能的な恐怖――そして期待。


「……誰だ、お前」

「私は昔の者……。過去の人間とでも言っておこうか」

「過去の人間、だと? ……で、何が言いたいんだ」


 軽口を叩いて逃げたかった。……だが胸の奥の好奇心が勝っていた。

 女は微笑みを崩さず、その目は真剣だった。その視線に射抜かれるように俺は息を呑んだ。


  (この人は……ただ者じゃない。何かを知っている。俺の知らない世界を……)


「あんたは気の扱いがなっていない。このままだと死ぬ。悠長に待っていられない。

 ……だから鍛えると決めたのさ。気に目覚めたばかりのあんたは、異界の者にとって格好の餌。このままだと――確実に死ぬ」


 冷ややかな言葉の裏に奇妙な情の気配があった。しかし遠慮のない言い草に反発心が、苛立ちが湧く。藤堂師範に「自分のやり方でやる」と言った手前、他人に教えを乞うつもりはない。俺が言い返そうとした瞬間、女は手を上げて制した。


「あんたは反抗的だね。でも――気を知りたい。強くなりたい。……その欲があるなら素質は十分だ。この武術書の『技』を継ぐ資格はある」


「どういう……」


 女が差し出した武術書――それは俺のもの。片手に持ちニヤリと笑い、少しだけ目を細めた。


「私がこの武術書でもあるのさ。私はこの流派の開祖の一人。技を残すため自らの魂を宿した。才能のある者との巡り合い――その時を待っていた。そうして、今日、あんたに会いに来た」


「勝手だな」


 女は肩をすくめる。


「勝手よ。でも選ぶのはあんた。私は教えるだけ。進む道は奪わない」


 俺の意地を踏みにじらず必要な力を授ける――そう言っているのか。


「……条件は?」


 女は一度視線を伏せ言葉を選ぶように静かに答えた。


「稽古に耐えること。そして――自分の意思で立つこと」


(それだけ?)


 肩透かしのような気がした。もっと残酷な要求を覚悟していた。命を賭けろ、誰かを犠牲にしろ、全てを捨てろ――そういう類いの。

 “タダで技を授ける”なんてそんなうまい話があるだろうか。


(『才能のある者との巡り合い』と言っていたが俺にそんな才能なんて……ない。それに、信じて裏切られたら堪ったもんじゃない……)


 嫌な記憶が脳裏に浮かぶ。誰も助けてくれなかった。期待したところで傷つくだけだ。

 気づけば奥歯を噛み締めていた。


「……話が良すぎる。それが本当なんて保証はどこにもないだろ」


 自分でも驚くほど弱々しい声だった。疑っているのは条件ではなく――自分の価値だ。

 女は視線を逸らさない。突きつけられた言葉はどこか包むような優しい声音だった。


「保証が欲しいなら何も選ばないことね。選択には必ず不安がつきまとうもの」


(選ばなければ……死ぬだけか)


 結末はもう決まっている。あとはどう足掻くか。それとも沈むか。


「……立てると思うか、俺が」


 漏れた弱音で声はかすれて震えていた。女は少し驚いたように目を見開いたあと――優しく微笑む。


「自分が立たないと決めるまでは、何度でも立てるものよ」


 胸の奥を何かが刺した。そんなふうに言ってくれた人は誰もいなかった。

 呼吸は震えたままで拳を握りしめる。


「……教えてくれ」


 ゆっくりと、言葉が強くなる。


「俺は――生き残りたい。強くなりたい!」


 女の瞳が細められる。


「それでいい。命は自分のために使いなさい」


 その声には、救いがあった。

 言葉は少ないが決意は込めて言った。


「……俺は相良翔太。そっちは?」

「綾乃。あんたの師匠になる女だよ」


 彼女は歩み寄り目の前で止まる。

 近くで見ると子狐のような愛嬌のある可愛らしさだった。

 小さな鼻、少し上がった口角。ふわりと笑えば警戒心が溶けそうになる、そんな笑顔。甘さと鋭さが共存している。不思議な怖さがあった。


「……ひとつだけ確認だ。あんたは、自分の意思で強くなるのね?誰かに言われたからでも、守られたいからでもなく――」


「俺が、生き残りたいからだ」


 答えは反射で遮るように、迷いない声がでた。

 彼女はその返事に満足げに目を細めると、手を差し出してくる。

 まるで握手を求めるように。


「なら契約だ。これから先、あなたに起こる痛みも苦しみもすべて自分の選択だと胸を張りなさい」


(この手を取れば、戻れない)


 息が詰まるほどの恐怖と――それを上回る、どうしようもない期待。

 それでも俺は迷わなかった。


「よろしく頼む、綾乃」


 手を握った瞬間に強い圧が返ってきた。小柄な体に似合わない鉄を握り潰すような力。彼女は初めて満足そうに微笑む。


「まずは痛みに慣れなさい。生き延びるにはそれが最低条件よ。……ようこそ、地獄の入り口へ」


 光が彼女の掌に集まる。それは綺麗な輝きだった――次の瞬間までは。

 世界が砕けた。


「――――ッッ!!」


 悲鳴すら間に合わない。肺が潰れ心臓が握り潰され全身の神経が悲鳴をあげる。


(ぎゃあああああああああ――!!)


 視界が白く弾ける。音も匂いも思考も――全部遠のいていく。意識が消える寸前彼女の声だけがやけに近かった。


「死ぬなよ。弟子」




「――っはぁ!!」


 むせるように息を吸い、布団から飛び起きた。汗でシーツが肌に張り付いている。

 あれほどの痛みだったのに……もう何も苦しくない。しかし胸を押さえるとまだ焼けるような痛みがそこにある気がした。


「……殺された……?」


 何をされた?理解が追いつかない。けれどはっきり一つ分かることがある。


(あれが……最初の訓練か)


 吐き気と同時に体に震えが走る。恐怖か。興奮か。多分その両方。

 窓の外は変わらない夜。世界は平和な顔をしている。

 だが俺は――昨日までの俺じゃない。


「……来いよ。なんでも来い」


 強がりじゃない。約束したからだ。自分の意思でやるんだと。

 布団の上で乱れた呼吸を整えながら思う。


(これが、生き残るってことだ)

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