1-21 いつも通り
翌朝、校門をくぐるといつもと同じ音が流れ込んできた。
下駄箱の前で笑う声、誰かが走る足音、チャイム前のざわめき。
(……普通だ)
そう思えたことに、少しだけ気が緩む。昨夜のことは、うまく切り離せている気がした。
教室に入ると、青木が先に気づいて手を挙げた。
「おー、翔太。今日も眠そうじゃん」
「そうか?」
「うん。まあ俺もだけど」
軽口を叩き合いながら席に向かう。椅子に腰を下ろし、鞄を机に掛ける。
動作は問題ない。引っかかりもない。
(大丈夫だな)
ノートを出そうとして、ふと声が飛んできた。
「相良君」
前の席の女子だった。特別な用事でもなさそうな、いつもの呼び方。
「今日のプリントさ、後ろの人にも――」
言葉の途中で、翔太は顔を上げた。
「……ああ」
返事は出た。出たが――少しだけ遅れた。
相手は一瞬、言葉を探すように瞬きをする。
「あ、うん。ありがと」
それで会話は終わった。違和感を指摘されるほどでもない。誰も気に留めない程度の間。
プリントを回しながら、翔太は気にしなかった。視線をノートに戻す。
「相良、今日の昼さ――」
今度は後ろの席から。呼びかけは軽い。
「……ん?」
振り返る。声は聞こえている。内容も分かっている。
それでも、返事が一拍遅れた。
「……あ、ごめん。何?」
言い直したとき、相手はもう半歩引いていた。
「いや、いいや。後でで」
それだけ言って、視線を逸らされる。翔太は肩をすくめた。
日常の小さなことだ。そう思ったところで、一番前の席の紗季が立ち上がった。
配布物を取りに行くためだろう。一瞬だけこちらを見る。目が合う――すぐに逸らされる。それだけだった。何も言われない。呼び掛けられない。紗季はそのまま戻り、席に着く。
翔太は、ノートに視線を落とした。
(……昨日の話だろ)
そう結論づけてそれ以上考えなかった。
授業は始まり、黒板にチョークの音が走る。
翌朝、学校。
「相良、ちょっといいか」
教室を出ようとしたところで、担任に呼び止められた。
振り返ると、プリントの束を抱えたまま、こちらを見ている。
「この資料、準備室に運ぶの手伝ってくれないか」
「分かりました」
準備室は相変わらず薄暗く、紙と埃の匂いが混じっていた。
棚に資料を戻し終えたところで、担任が一度だけ翔太の顔を見る。
「……ありがとな」
それだけ言って視線を外した。それ以上、何も言われなかった。
チャイムが鳴り、次の授業が始まる。
黒板に書かれた文字を写しながら、翔太はペンを走らせた。
線は真っ直ぐ引ける。文字も崩れていない。
(……いつも通りだ)
そう判断して、次の行へ移る。
昼休み。廊下から聞こえる足音と話し声が、教室に流れ込んでくる。
翔太は席に座ったまま、ペンケースを閉じた。
「翔太」
後ろから、名前を呼ばれた。
振り返る前に、誰かは分かっていた。
「……何?」
少しだけ間があった。
紗季は一歩分の距離を保ったまま立っている。
視線は合っているが、踏み込んではこない。
「放課後、ちょっと」
言い切りだった。理由も付け足しもない。
翔太は一瞬だけ考える……断る理由も、受ける理由も、どちらも浮かばない。
「……うん」
返事は短く、声は小さかった。
紗季はそれ以上何も言わず、軽く頷く。そのまま踵を返し廊下へ出ていった。
背中が遠ざかる。呼び止められたはずなのに、何かを言われた感覚は残らなかった。
放課後。
教室を出る生徒の流れに乗って、昇降口へ向かう途中、視線を感じた。
少し離れた位置で、紗季が立ち止まっている。声をかけるでもなく、手を振るでもない。ただ、そこにいる。
翔太は足を止めなかった。歩調を変えず、その横を通り過ぎる。
「……」
背後で、何か言いかける気配がした。だが、呼び止める声は上がらない。下駄箱の前で靴を履き替え、校舎を出る。夕方の空気が、思ったよりも冷たい。歩き出してから、振り返らなかった。
朝の教室は、昨日と同じように騒がしかった。椅子を引く音、誰かが笑う声、窓際から入り込む風の気配。翔太は席に着き、鞄からノートを取り出す。指先はいつも通りに動いた。ペンを持つ感触も、紙に触れる感覚も、変わらない。
(……問題ない)
そう思った瞬間、その言葉を裏づけるようにチャイムが鳴った。授業が始まる。板書を写す。文字は乱れない。視線もぶれない。教師の声も、黒板を叩くチョークの音も、きちんと聞こえている。
隣の席から、椅子がきしむ音がした。
青木がこちらを顔を向ける。
「なあ、今日の放課後さ――」
言いかけた言葉が、途中で止まった。翔太は顔を上げる。青木は一瞬だけ首を傾げ、それから続きを口にした。
「……まあ、いいや。あとでな」
それだけ言って前を向く。翔太は特に気にしなかった。言いかけてやめることなんて、よくあることだ。教室の空気は流れ続け何も滞らない。廊下側の席に、紗季の姿が見えた。窓の外を見ている。視線は遠く、けれど焦点が合っていなかった。こちらを気にしている様子はない。
翔太は見続けなかった。
(……いつも通りだ)
そう結論づけて、視線をノートに戻す。
放課後、校舎を出ると空気が少しだけ冷たかった。部活へ向かう生徒の流れから外れ、翔太は校門を抜ける。
帰るつもりだった。
少なくともそのはずだった。
歩きながら――考え事をしていたわけじゃない。何かを振り返るでもなく、決断をするでもなく。ただ、足が前に出ていただけだ。
街灯が並ぶ通りを抜ける。人通りはまだある。
コンビニの前で立ち止まるグループを避け、横断歩道を渡る。
信号は青。
車の音が背後を流れていく。
次の角を曲がったあたりで、明るさが変わった。
街灯の間隔が広くなる。足元の影が妙に長い。
(……こんな道、あったか)
疑問は浮かんだが、立ち止まる理由にはならなかった。
翔太は歩く速度を落とさなかった。
舗装された道が途切れると、砂利を踏む音がやけに大きく聞こえた。
振り返る。来た道は見える、街灯もある、車の音も――かすかに届いている。
戻ろうと思えば戻れる距離だった。
それでも、前を向いた。
周囲に人の気配はなかった。
フェンスが立っている。工事用の仮囲い――ところどころに隙間があり、奥の暗がりが覗いている。
看板には再開発予定地の文字。着工日はまだ先らしい。
翔太は、その隙間から中へ入った。
理由はない。入れると思ったから入った。
地面は平らではなくところどころに盛り土が残っている。重機の影が、沈んだ闇の中に浮かんでいた。
吹き抜ける風は、遮るものがなく、冷たさがそのまま伝わってくる。
立ち止まり周囲を見回す。
「……ここ、どこだ」
声に出してみたが答えはない。
耳鳴りがするほどではないが、音は少なく静かだった。
まあ、いいか……そう思って、視線を前に戻した。
奥の方で、影が動いた。気配、と言うほどはっきりしたものじゃない。
視界の端で、何かが揺れた気がしただけだ。
翔太は足を止めなかった。
気を巡らせる。溜めすぎない。流れの中で、必要な分だけ。
身体が動く。踏み込む距離も、角度も、速度も、考えない。考える前に終わった。
影は、音もなく霧のように散り、跡形も残らなかった。
翔太は、その場に立ったまま息を吐いた。
(……ほらな)
鼓動は乱れていない。肩も、腕も、問題なく動く。
周囲を見回す。他に気配はない。
風が吹きフェンスがわずかに鳴った。
帰ろう。そう思って、足を動かした。
そのとき。
『――少し、見え方が違う』
背後からではない。前からでもない。
位置を特定できない声が、すぐ近くで聞こえた。
翔太は振り返らなかった。
驚きも警戒もない。綾乃の声だ。
『一部だけだ。全部じゃない』
淡々とした声だった。言い切ってそこで止まる。
続きを足す気配はなかった。
翔太は、しばらく黙っていた。
視線を動かす。重機の影。フェンスの向こうの街灯。欠けているわけでも、歪んでいるわけでもない――そう見える。
(……気のせいだ)
そう結論づけることは、簡単だった。
だが、その言葉は口に出すことは出来なかった。
「……そうか」――それだけ口にした。
綾乃はそれ以上何も言わなかった。
風が吹いた。
気配が薄れていく。
翔太はその場に立ったまま、しばらく動かなかった。
やがて踵を返す。フェンスの隙間を抜け、街灯のある道へ戻る。
背後で、再開発予定地は静かに闇に沈んでいった。
街の音が戻る。車の走行音、人の話し声、遠くの踏切の警報。
翔太は歩き出す。走らない。急がない。街灯の下を抜け、交差点を渡り、いつもの曲がり角を越える。足取りは一定で、呼吸も乱れない。頭の中に残っていたはずの声は、いつの間にか遠のいていた。
(……気のせい)
もう一度、そう思う。
考え直す理由はなかった。
その夜、空気は澄んでいた。
雲が薄く月は高い。下校中に見た、影のような綻び……今日、夜に何かが出る気がしていた。翔太は迷わず向かった。理由は要らない。行けば分かる。それで終わりだ。
路地を抜け、影の濃い場所へ入る。
気配はすぐに見つかった。小さい。輪郭が薄い。動きも遅い。
問題ない。
気を巡らせる。溜めない。押し出さない。流れの中で、必要な分だけ。
身体が前に出る。踏み込みは浅く、軌道は最短。角度も、速度も、考えない。
終わった。
音はない。
影は散り、跡形も残らなかった。
翔太は立ち止まらない。
次の気配はさらに奥。現れる間隔は短く、数も増えている。
それでも、問題はなかった。
一つ、二つ、三つ。
同じ手順。同じ結果。引っかかりはない。迷いもない。
勝っている、という実感すら薄い。ただ、終わっていく。
(……ほらな)
胸の奥で、結論だけが積み上がる。
最後の影が消えたとき、周囲は静かだった。
肩も、腕も、脚も、違和感はない。息は整っている。汗も、ほとんど出ていない。
帰ろう。
そう思って、足を動かした。
――一瞬。
視界の端で、何かが抜け落ちた気がした。
ほんの刹那。
見失った、というほどではない。欠けた、と言い切れるほどでもない。
次の瞬間には、街灯も、路地も、元の位置に収まっていた。
(……)
立ち止まる理由にはならなかった。
目を凝らす。瞬きをする。問題はない。ちゃんと見えている。
(……気のせいだ)
そう思おうとして、歩き出す。
道を戻る途中、足元の影が揺れた。
風だ。フェンスが鳴る。遠くで車が走る音。
いつもの夜だ。
翔太は歩く。
速くも、遅くもない。
決断もしない。振り返らない。
背後で、夜は静かに続いていた。
玄関の灯りは点いていた。
鍵を回す音が、夜の静けさに溶ける。扉を開けると、室内の空気が外よりも少しだけ温かい。
「おかえり」
台所から母の声がした。テレビの音。食器が触れ合う軽い音。
翔太は靴を脱ぎ、いつものように手を洗う。水は冷たい。泡立てて流す。タオルで拭く。
(……問題ない)
その言葉は、もう声に出さなかった。
食卓には、遅めの夕食が用意されていた。皿を引き寄せ、箸を取る。指先は動く。重さも、感触も、把握できる。
一口、口に運ぶ。味は、分かる。熱も、ある。
途中で箸が止まることはなかった。
皿は空になり、湯気は消える。会話は短く、当たり前で、特別なことは何も起きない。
部屋に戻り、灯りを落とす。
ベッドに腰を下ろし、天井を見る。視線を動かす。輪郭は揃っている。欠けていない。歪んでいない――そう見える。
(……気のせいだ)
そう思って、目を閉じた。
夕方の空は、昼の名残をまだ残していた。
校門を出ると、風が少しだけ冷たい。翔太は立ち止まらず、そのまま歩いた。
紗季は隣にいる。
近すぎず、離れすぎず。肩は触れない。
けれど、足音の間隔は揃っている。
会話はなかった。
何かを避けているわけでも、探しているわけでもない。
言葉が必要な場面じゃなかった。
交差点で信号を待つ。
横断歩道が赤から青に変わる。人の流れが動き出す。
翔太は前を見たまま、歩き出した。
紗季も、同じタイミングで踏み出す。
横断歩道の白線に視線を落とす。線はまっすぐだ。欠けても、歪んでもいない――そう見える。
(……大丈夫だ)
そう思って、目を上げる。
信号を渡りきる。
歩道に出たところで、紗季がほんの少しだけ速度を落とした。
翔太も、自然と合わせる。
並んで歩く。
どちらが前でもない。後ろでもない。
影が、足元に落ちる。
二つ並んで、同じ方向に伸びている。
紗季が、ふと足を止めた。
翔太も止まる。
「……また、明日」
短い言葉だった。確かめるようでも、引き留めるようでもない。
翔太は一瞬だけ間を置いて、頷いた。
「……ああ」
紗季はそれ以上何も言わず歩き出した。半歩分の距離をそのままにしなかった。
離れず、詰めすぎず――並ぶ位置を自分で選んだ。
部屋に戻ると、机の上に置いたままの本が目に入った。
閉じていたはずの表紙が、わずかにずれている。
翔太は近づき、ページを確認した。
開いていたのは、途中の一枚だけだった。
文字は少ない。技の説明でも、訓示でもない。
走り書きのような、短い線がいくつか残っている。
意味は、分からなかった。
翔太はそのページを閉じると、本を元の位置に戻し灯りを消した。
ベッドに横になり天井を見る。視線を動かす。欠けているとも、歪んでいるとも――言い切れない。
(……気のせいだ)
そう思って目を閉じた。
隣の部屋から生活音が聞こえる。
遠くで車が走る音。
夜はいつも通りに続いている。
翔太は眠る。
決意もしない。
答えも出さない。
ただ、明日も前に進むことだけは疑っていなかった。
第1章は、ここで一区切りとなります。
続きは、準備が整い次第、更新します。




