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気が視えた俺と、守りたがりな彼女と、戻らない何か  作者: 白川


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1-2+3 初遭遇

目覚ましの音が意識を現実へと引き戻した。昨夜の出来事が夢ではないのだと、机の上に置かれた武術書が教えてくれている。かすれた文字は朝の光に照らされ、不思議な存在感を放っていた。


「……やっぱりあるんだな」とぼんやりと呟く。


夢の中で見た光景が頭を離れない。呼吸を整えると心臓の鼓動は落ち着いてきた。

学校に行く気にはなれなかったが、学生である以上休むわけにはいかない。

朝食をとり、制服に袖を通し鞄を肩に掛ける。鏡に映る自分の顔は少し疲れているように見えた。昨日は恐怖と興奮であまり眠れなかったのだろう。目の下には薄い影があり、昨夜感じた熱がまだ残っているように思える。


「いってきます」


玄関を出ると、朝の空気が冷たく頬を撫でた。通学路はいつも通りだ。商店街の喧騒、校門をくぐる生徒たちに、教室にはクラスメイトの笑い声。


「おい翔太、昨日の動画見たか?」

「いや……」

「またかよ。お前、ほんと流行に乗らないな」


友人の軽口に笑って返すが心は上の空。笑い声が響く中で、俺の心は昨日の夜に囚われていた。ノートの文字は乱れて授業には集中できなかった。

……理解されるはずがない。そう思うと誰かに話すことはできなかった。自分自身でさえ、まだ信じ切れていないのだから。


(本当に、あれは一体……)


放課後。本の続きを読むために部活や友人との誘いを断り帰ろうとしたが、担任に呼び止められた。


「相良、ちょっといいか」


教室を出ようとした俺の背中に、担任の声が飛んできた。振り返ると、腕にプリントの束を抱えた担任が立っている。


「はい、先生」

「今日の六限で使った資料、準備室に持っていかなければならん。悪いが片付けを手伝ってくれないか」

「分かりました」


本当はすぐに帰って続きを読みたかった。昨夜の感覚を確かめたくて仕方がない。だが、教師の頼みを断るわけにもいかない。俺は鞄を机に置き直し準備室へ向かった。

準備室は薄暗く、窓際に積まれた資料の山が影を落としている。紙の匂いと埃が混じり、鼻を刺激する。担任は軽く笑いながら言った。


「すまんな。お前は真面目だから頼みやすいんだ。整理整頓も手伝ってくれて助かったよ、ありがとうな」

「これで全部ですか?」

「そうだな……もう十分だ。助かったよ」


作業が終わった頃には夕方で、窓の外はオレンジ色と紺色が混ざり合っていた。担任は時計を見て「もうこんな時間か」と呟くと、ビニール袋を差し出してきた。


「気をつけて帰れ。これはお礼だ。帰ったら食べてくれ。ここのロールケーキは美味いんだぞ。先生のおすすめだ」


中身を見るとコンビニエンスストアのロゴが入った商品が見える。俺は少し笑いながら受け取った。


「ありがとうございます。内申点も期待してますね」

「はは、そう来たか。まあ頑張れよ」


校舎を出ると、校庭は静まり返っていた。どうやら部活動も終わったようだ。


(遅くなったな……)


商店街を抜ける頃にはほとんどの店が閉まっていた。人通りはまばらで自分の足音がやけに響く気がした。自宅へ向かう道の街頭は薄暗し頼りない。不規則な点滅が不安を煽る。

その時だった。路地の奥の暗がり、その隙間から黒い影が差し込んだ。空気が揺れ、異様な輪郭が浮かび上がる。

人の形に似ているが、人ではない。長い腕、歪んだ背、空洞のような目。異界の化け物――そう呼ぶしかない存在が、空っぽの目でこちらを覗いていた。影がゆらりと揺れている。だが通り過ぎる人々は何も気づかない。ただの暗がりとして見過ごしていく。


「……見えているのは、俺だけか」


まるでそこには何も存在しないかのように日常は過ぎていく。だが俺の目には確かに映っている。昨夜、窓の外に揺れていた影と同じく偶然ではない。

背筋が冷たくなり、足が震える。呼吸を整えようとしても、心臓の鼓動が耳に響いて落ち着かない。


「逃げろ……いや、立ち向かえ……」


声が震える。昨夜はただ見ているしかなかった。だが今は違う。目の前に迫る影は、確かに俺を狙っている。

視線を周囲に走らせると、街路樹の根元に落ちた木片、工事現場の看板、ゴミ捨て場の鉄パイプ。 俺は鉄パイプに目を止め、駆け寄った。冷たい鉄の感触が掌に伝わる。


「……これしかない」


武器を手にした瞬間、通りすがりの人が怪訝そうな顔を向けてきた。俺が鉄パイプを握りしめている姿は、彼らにはただの不審者にしか見えないのだろう。


(ここで振り回したら……完全に頭のおかしいヤバい奴だと思われる)


喉の奥が乾く。だが目の前には、確かに異形の影が迫っている。俺だけが見えている。誰も助けてはくれない。


「……場所を変えるしかない」


戦うためにも人目のある場所ではまずい。

俺は鉄パイプを目立たないように持ち直すと、影から視線を逸らさずに歩き出した。足音が夜の路地に響く。背後から、爪がアスファルトを削る嫌な音が追いかけてくる。

人気の少ない裏通りへと足を踏み入れると、そこは街灯の光が途切れ闇が濃くなっている。呼吸を整え、心臓の鼓動を抑え込む。


(逃げるんじゃない。戦うために移動しているんだ)


そう自分に言い聞かせながら鉄パイプを強く握りしめ、影と対峙した。


――奴はそのまま、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。


鳥肌は立つのに、心は妙に落ち着いている。俺は自分を奮い立たせるため、わざと軽口を心の中で吐いた。


(鉄パイプ一本で怪物に挑む高校生ってのは刺激的だよな。退屈しないぜ。)


化け物の歩みは遅い。長すぎる腕はだらんと垂れ下がり、爪がアスファルトを削る音は不快で神経を逆撫でる。

近づかれるたびによく見えてくる。

不気味なほど痩せているのに、皮膚の下で蠢く筋肉は太くしなっている。首はほとんど無く、顔は前へ突き出た歯がなんでも噛み砕きそうな鋭さだ。

距離が詰まる。


「来いよ。俺は逃げない。」


声は自分を奮い立たせるためのものだ。俺の声に反応したのか、それが戦いの合図となった。化け物が腕を振り下ろす。爪が空気を裂き、風圧が頬を打つ。


「っ……!」


俺は半身に切って鉄パイプを滑らせ、爪の軌道を逸らして距離を取る。火花が散り金属音が路地に響いた。手首が痺れるが幸いにも握力は健在だ。


「おいおい、冗談だろ……」


平均的な男子学生より力には自信があった。しかし単純な力は相手の方が上で、殴り合いでは勝てないことを悟る。

吸って、吐いて、吸って、吐いて。呼吸を整えながら考える。


横薙ぎの一撃に一歩引き、鉄パイプの角度を変えて衝撃を受け流す。だが壁際まで吹き飛ばされ、背中が石壁にぶつかると息が詰まった。肺の中の空気が一気に押し出される。


「ぐっ……なんて馬鹿力だ……!」


化け物が低い唸り声を上げる。その声は耳ではなく骨に響くようで背筋が凍る。


(余計な距離を取ったら終わりだ。動きは単純……真っ直ぐ。なら、まだ勝機はある!)


化け物の視線がわずかにぶれる。

次の瞬間、槍のような腕が直線軌道で迫った。


「来る……っ!」


地面を蹴り、交差するように踏み込む。鉄パイプの先端を渾身で膝へ叩き込んだ。

鈍い肉の軋みとともに、膝が沈み、巨体がたわんだ。


「……効いたか!」


だが、安心する暇など与えられない。

もう一方の腕が、鞭のように唸りを上げて迫る。

俺は転がりながらギリギリで躱したが、腕の皮膚が裂け、焼けるような痛みが走る。血の匂いが鼻を刺す。


「痛ぇ……でも、まだ……倒れてるわけにはいかねぇ!」


苦痛をごまかしつつ立ち上がり、視線を走らせると化け物が前進してきた。俺は半歩だけ下がると重心は低いままに踵を浮かせ、いつでも切り返せるように待ち構える。


「来い……!」


腕が振り下ろされた瞬間、鉄パイプを斜め上から添えるように当て、わざと滑らせて力を逃がす。相手の体重が前へ落ちた。その隙は見逃さない。肩口へ一撃、全力で叩き込む。そのまま頭部へ渾身の強打――だが硬い。

化け物が怒号のような唸りと共に腕を振り抜く。肩→肘→手首へ力が伝わるのが見えた。


「っ……今!」


低く潜り込み、鉄パイプの先を空洞の眼窩へ突き立てる。わずかな抵抗、その先にぐにゃりとした感触――貫いた!


化け物が仰け反り、黒い霧を目から吐き出すようにもがく。

俺は即座に距離を取った。腕を掠めた爪が再び血を散らすがもう足は鈍い。膝が折れ巨体が崩れ落ちる。


(深手は与えた……。仕留められなくても、追わせなければ勝ちだ)

「窮鼠、猫を噛む……ってな。これ以上来るなら、もう一回くらい噛んでやるよ」


自嘲か虚勢か、自分でも分からない声だった。視線は外さず一歩、また一歩と後退する。追撃はない。人通りの多い方へ早足で向かった。


(逃げ切る。生き延びる。それが今の勝ちだ)


――化け物と渡り合い、鉄パイプ一本で生き残る。上出来だ。

そう強引に自分へ言い聞かせる。


交差点に出て信号待ちをする頃には鼓動は徐々に落ち着いていった。

街灯の下、俺の影はただの高校生に戻っていた。

家の明かりが見える頃には、足取りもほぼ普段通りで、玄関の鍵を回す指だけがわずかに震えていた。

扉を開けると――いつもの生活が出迎えてくる。

テレビの音、妹の笑い声、キッチンから母の気配。


「おかえり。遅かったのね、翔太」

「ただいま」


言いかけて――やめた。

袖口から見える乾いた血を隠すように握りしめる。

俺の戦いなんて知られなくていい。知ったところで巻き込むだけだから。

そう言い聞かせて靴を脱いだ。靴を静かに揃えると、そのまま廊下を小走りで抜けて洗面所へ向かった。冷たい水で顔と腕を洗い血の匂いを薄める。タオルで押さえるように拭き、深手ではないことを確認しながら、見た目だけでも普段通りに整えていく。


服についた血を流水でごまかし、制服を脱いで洗濯かごへ押し込む。

これなら「転んだ」程度で通せる、と自分に言い聞かせた。

乱れた呼吸を整え、自室で手早く部屋着に着替える。

平静を装いながらリビングへ戻ると、父がソファの向こうから声をかけてきた。


「おかえり」

「ただいま。学校で先生に雑用を頼まれちゃってさ」


できる限り自然に笑ってみせる。だが父の視線は、袖口から覗いた切り傷に吸い寄せられた。


「その傷……どうした?」


浅い裂傷。血は隠せてもその跡までは隠しきれるものじゃなかった。俺は肩をすくめ、軽く笑った。


「帰り道でちょっとコケただけ。大したことないよ」

「消毒くらいはした方がいいわよ」


母の声が台所から飛んでくる。


「洗面所で洗ったから、ほんと平気」


会話はいつもの日常そのもの。だからこそ――胸の奥にひどく違和感が残った。

夕飯を済ませリビングでTVを見ながら傷の痛みを確かめる。ひりつくような痛みはあるが、動くのに支障はなさそうだ。


自室へ戻ると、机の上にはあの古びた武術書が変わらぬ姿で鎮座していた。

深く息を吐き、椅子に腰を落とす。


(いきなり化け物が現れて……何がどうなってる)


腕に残る爪の感触。鼻腔に蘇る鉄の匂い。背筋を撫でる恐怖――全部、紛れもない現実だ。だが、恐怖と同じ重さで湧き上がる感情がある。

ゾクリとする高揚。知らなかった世界が唐突目の前に広がった。興奮してしまった自分がいる。


(俺は……怖がってるのか。楽しんでるのか)


どちらにせよ、目を背けられない。

拳を軽く握ると指先がまだわずかに震えている。

その震えすら、妙に心地よかった。


「次は……もう少し上手くやる。いや……次なんて来なきゃいい、けど」


思わず笑いが漏れた。

窓の外は紺に沈み、風の音だけが世界を満たしていた。

この夜を越えた先に何が待とうと――前に進むだけだ。

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