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気が視えた俺と、守りたがりな彼女と、戻らない何か  作者: 白川


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19/20

1-20 まあ、こんなもんだろ

 朝の教室は、いつも通り騒がしかった。机を引く音、笑い声、誰かが椅子を蹴る乾いた音。翔太は席に着き、鞄を足元に置く。


「翔太、ノート見せてくれ」


 前の席から声が飛んできた。聞こえている。内容も分かる。だから返事をしようとした。

 ――だが言葉が出る前に、ほんの一拍の空白が入った。


「……ああ」


 自分でも遅れたと分かるほどの間だった。相手は特に気にした様子もなく、ノートを受け取って礼を言う。それだけだ。誰も何も言わないし、教室の流れも止まらない。

 翔太は黒板に視線を戻す。さっきの間について考えようとして――やめた。




 体育館に入ると、空気が一段ひんやりしていた。

 床に引かれた白線、ネット、籠にまとめられたラケットとシャトル。


「今日はバドミントンなー。準備できたら始めろ」


 教師の声で、クラスがばらける。

 翔太はラケットを取った。柄の重さも、握った感触も、昨日と変わらない。


(問題ない)


 向かいに立ったのは青木だった。

 軽くシャトルを打ち合う。


 一打目。

 ちゃんと当たる。高く、素直な軌道。


「お、いいじゃん」


 二打目。

 今度は少し力を入れる。


 ――シャトルが、想定よりも高く跳ねた。


 コートの奥を越え、ラインの外へ落ちる。


「うわ、飛びすぎ」

「力ありすぎだろ」


 周りから笑いが起きる。

 翔太はラケットを持ち直した。


(ちょっと強かっただけだ)


 次は抑える。

 そう思って振った。


 今度は、空振りだった。


 シャトルは目の前を落ちる。


(……)


 おかしくはない。

 タイミングが合わなかっただけだ。


 三打目。

 当たる。だが、芯を外し、ネットすれすれで失速する。


「翔太、ムラありすぎじゃね?」

「さっきのはすげーのに」


 青木は笑いながら言う。

 責める調子じゃない。


 翔太は曖昧に笑って返した。


(別に、できてないわけじゃない)


 次のラリー。

 強く打てば、飛びすぎる。

 抑えれば、遅れる。


 極端だが――壊れてはいない。


 そう判断した。


 休憩の笛が鳴る。

 翔太はラケットを下ろし、息を整える。


 息は乱れていない。

 肩も痛くない。腕も動く。


 視線を感じて、ふと体育館の端を見る。


 紗季が、立っていた。


 試合を見ていたわけじゃない。

 翔太を、見ていた。


 目が合いかけて、彼女は視線を落とす。

 何かを言いかけるように、唇がわずかに動いた――が、声にはならない。


 次の組がコートに入る。

 流れに押されて、翔太は一歩下がった。


 ラケットを持つ右手を、無意識に握り直す。


(……まあ、たまたまか)


 そう思った瞬間、シャトルが床に落ちる乾いた音が、やけに大きく響いた。


 体育館を出ると、外の光が強く感じられた。昼前の風が校舎の間を抜けて、汗の引きかけた肌を冷やす。

 翔太はタオルで首元を拭きながら、昇降口へ向かう。足取りは普段と変わらない。身体も、ちゃんと動いている。背後に足音が一つ。


「……翔太」


 呼ばれて、立ち止まる。振り返ると、少し距離を空けた位置に紗季が立っていた。

 体育着のまま、手を胸の前で組んでいる。息は整っている。だが視線が定まらず、一瞬、言葉を探す間があった。


「……昨日、ちゃんと休んだよね」


 確かめるような声……責める調子ではない。ただ、事実をなぞるみたいな問いかけ。


「……うん」


 短く答える。理由も、補足も、続けなかった。

 紗季は、その返事を一拍受け取ってから、視線を落とす。納得したわけじゃない。だけど、それ以上踏み込まなかった。


「……それで、今は……今日は……どうするの?」


 少しだけ声が揺れた。それでも、笑おうとはしなかった。


「……うん」


 声は出たはずだった。

 翔太は頷いた。

 紗季は一歩下がり、進路を空ける。引き留めない。手も伸ばさない。


 すれ違うときの風が、シャツの裾を揺らして、すぐ戻す。


 紗季は振り返らなかった。

 翔太も、追わなかった。


 昇降口の扉が開き、閉まる。

 その音が、思ったよりはっきり響いた。


 翔太は、その場に一瞬だけ立ち止まり、

 それから、何事もなかったように歩き出した。






 朝の教室は、いつも通りだった。チャイム前のざわめき、机を引く音、誰かの笑い声。

 翔太も席に着き、鞄からノートを出す。椅子に腰を下ろす動作も、指の動きも、問題ない。


「翔太」


 名前を呼ばれて、顔を上げた。

 青木が振り返ってこちらを見ている。

 口を開けたまま、ほんの一拍の間。


「今日の英語さ――」


 続く言葉は普通で。小テストの話。範囲がどうとか、そんな内容。

 翔太は頷きながら聞き、短く返す。


「そうなんだ」


 その返事に、青木が一瞬だけ首を傾げた。

 聞き返すほどじゃない。ただ、何かを確かめ損ねたような顔。


「まあ、あとでな」


 そう言って離れていく。

 翔太はノートに視線を落とした。ペン先は紙の上を滑り、文字もいつも通りに並ぶ。


(……普通だ)


 そう思った瞬間、教室のざわめきが、ほんの少しだけ遠くに感じられた。

 ふと見渡すと、廊下側の席で紗季が窓の外を見ていた。こちらは見ていない。


 チャイムが鳴り授業が始まる。翔太は前を向き、板書を写し始めた。

 さっきのことは、もう考えていなかった。




 体育館に入ると、音が変わった。

 天井に反響する声、シューズの擦れる音、シャトルが空気を切る軽い音。


「今日もバドミントンなー!」


 教師の声と同時に、ラケットが配られる。

 翔太はそれを受け取り、軽く握り直した。


(軽いな)


 違和感ではない。ただ、思ったより重さを感じない。

 コートに分かれラリーが始まる。相手は青木だった。

 最初のシャトルが上がる。翔太は自然に踏み込み、振った。


 ――当たった。


 乾いた音。


 シャトルは想像以上の高さで跳ね、奥のラインを大きく越えた。


「おお……」


 誰かが声を漏らす。


「今の、飛びすぎじゃね?」

「力入れすぎだろ」


 青木が苦笑いする。


「すげーけど、アウトだな」


 翔太は一瞬、首を傾げた。力を込めた感覚はなかった。


(……こんなもんだろ)


 次のラリー。今度は少し抑えるつもりで、手首を返す。


 ――空振り。


 シャトルは、ラケットのすぐ横を抜けて床に落ちた。


「え?」

「今のミスる~?」


 ざわめきが起きる。翔太は視線を落としラケットの先を見た。


 もう一度。


 今度はしっかり引きつけて、振る。


 ――当たった。


 音はいい。

 だがシャトルは、ネットすれすれで失速し、相手コートの手前に落ちた。


「……極端だな」

「さっきのと別人じゃん」


 誰かが笑う。冗談めいた空気だ。

 翔太も口元だけで笑った。


(たまたまだ)


 そう結論づけるには、十分な軽さだった。失敗でもない。成功でもない。安定していないだけ。

 視線を上げると、コートの外。紗季が壁際に立っていた。ラケットは持っていない。ただこちらを見ている。

 正確には――打つ瞬間を見て、結果を見る前に、目を伏せていた。

 翔太は気づかない。次のシャトルが上がる。集中しようとするが、力の入れどころが定まらない。ラケットの先が遅れて戻ってくる感覚。


「……チェンジ!」


 教師の声が響きラリーが止まる。

 翔太は一歩下がり、息を整えた。息は乱れていない。肩も、腕も、痛くない。


「翔太」


 紗季の声が、すぐ後ろで聞こえた。振り返ると、いつもより少し遠い位置に立っている。


「今のさ……」


 言いかけて、止まる。

 体育館の喧騒が、二人の間を横切る。

 シャトルの音、笑い声、床を叩く足音。

 紗季は一度、唇を噛んだ。


「……後で、少し」


 それだけ言って、視線を外した。


 翔太は答えなかった。


(またか)


 そう思っただけで、ラケットを持ち直す。

 笛が鳴り次のラリーが始まる。翔太はコートに戻る。

 紗季は壁際から動かなかった。




 着替えの時間になり、クラスがばらける。

 翔太は体育館の隅でラケットを返し、タオルで汗を拭いた。

 腕を動かす。指を開いて、閉じる。


 ――動く。


(……ほらな)


 そう思ったところで、背後に足音が止まった。


「翔太」


 呼ばれて、振り返る。

 紗季が立っていた。


 体育着のまま、両手を胸の前で組んでいる。

 息は整っている。だが、視線が一度だけ泳いだ。


「……昨日、ちゃんと休んだよね」


 問いかけだった。

 責める調子ではない。


 翔太は、ほんの一拍置いてから答えた。


「……うん」


 それだけだった。

 理由も、続きもない。


 紗季は、その返事を受け取ったまま、何も言わなかった。

 シャワー室から水音が聞こえ、誰かが笑う。

 ロッカーの扉が閉まる音が、間を埋める。


「……それで、今日は……」


 言いかけて、紗季は言葉を切った。


 翔太は、続きを待たなかった。

 聞き返すこともしなかった。


(……何だよ)


 そう思っただけだった。

 言いたいことがあるなら、最後まで言えばいい。言わないならそれで終わりだ。

 昨日もそうだった。「ちゃんと休んだか」と聞かれて「休んだ」と答えた。

 それで話は終わったはずだ。


 今日はどうするのか。そんなの決まっている。


(いつも通りだろ)


 そう結論づけて、翔太は視線を前に戻した。

 タオルで首元の汗を拭き、ロッカーに向かう。

 もう振り返らなかった。

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