1-20 まあ、こんなもんだろ
朝の教室は、いつも通り騒がしかった。机を引く音、笑い声、誰かが椅子を蹴る乾いた音。翔太は席に着き、鞄を足元に置く。
「翔太、ノート見せてくれ」
前の席から声が飛んできた。聞こえている。内容も分かる。だから返事をしようとした。
――だが言葉が出る前に、ほんの一拍の空白が入った。
「……ああ」
自分でも遅れたと分かるほどの間だった。相手は特に気にした様子もなく、ノートを受け取って礼を言う。それだけだ。誰も何も言わないし、教室の流れも止まらない。
翔太は黒板に視線を戻す。さっきの間について考えようとして――やめた。
体育館に入ると、空気が一段ひんやりしていた。
床に引かれた白線、ネット、籠にまとめられたラケットとシャトル。
「今日はバドミントンなー。準備できたら始めろ」
教師の声で、クラスがばらける。
翔太はラケットを取った。柄の重さも、握った感触も、昨日と変わらない。
(問題ない)
向かいに立ったのは青木だった。
軽くシャトルを打ち合う。
一打目。
ちゃんと当たる。高く、素直な軌道。
「お、いいじゃん」
二打目。
今度は少し力を入れる。
――シャトルが、想定よりも高く跳ねた。
コートの奥を越え、ラインの外へ落ちる。
「うわ、飛びすぎ」
「力ありすぎだろ」
周りから笑いが起きる。
翔太はラケットを持ち直した。
(ちょっと強かっただけだ)
次は抑える。
そう思って振った。
今度は、空振りだった。
シャトルは目の前を落ちる。
(……)
おかしくはない。
タイミングが合わなかっただけだ。
三打目。
当たる。だが、芯を外し、ネットすれすれで失速する。
「翔太、ムラありすぎじゃね?」
「さっきのはすげーのに」
青木は笑いながら言う。
責める調子じゃない。
翔太は曖昧に笑って返した。
(別に、できてないわけじゃない)
次のラリー。
強く打てば、飛びすぎる。
抑えれば、遅れる。
極端だが――壊れてはいない。
そう判断した。
休憩の笛が鳴る。
翔太はラケットを下ろし、息を整える。
息は乱れていない。
肩も痛くない。腕も動く。
視線を感じて、ふと体育館の端を見る。
紗季が、立っていた。
試合を見ていたわけじゃない。
翔太を、見ていた。
目が合いかけて、彼女は視線を落とす。
何かを言いかけるように、唇がわずかに動いた――が、声にはならない。
次の組がコートに入る。
流れに押されて、翔太は一歩下がった。
ラケットを持つ右手を、無意識に握り直す。
(……まあ、たまたまか)
そう思った瞬間、シャトルが床に落ちる乾いた音が、やけに大きく響いた。
体育館を出ると、外の光が強く感じられた。昼前の風が校舎の間を抜けて、汗の引きかけた肌を冷やす。
翔太はタオルで首元を拭きながら、昇降口へ向かう。足取りは普段と変わらない。身体も、ちゃんと動いている。背後に足音が一つ。
「……翔太」
呼ばれて、立ち止まる。振り返ると、少し距離を空けた位置に紗季が立っていた。
体育着のまま、手を胸の前で組んでいる。息は整っている。だが視線が定まらず、一瞬、言葉を探す間があった。
「……昨日、ちゃんと休んだよね」
確かめるような声……責める調子ではない。ただ、事実をなぞるみたいな問いかけ。
「……うん」
短く答える。理由も、補足も、続けなかった。
紗季は、その返事を一拍受け取ってから、視線を落とす。納得したわけじゃない。だけど、それ以上踏み込まなかった。
「……それで、今は……今日は……どうするの?」
少しだけ声が揺れた。それでも、笑おうとはしなかった。
「……うん」
声は出たはずだった。
翔太は頷いた。
紗季は一歩下がり、進路を空ける。引き留めない。手も伸ばさない。
すれ違うときの風が、シャツの裾を揺らして、すぐ戻す。
紗季は振り返らなかった。
翔太も、追わなかった。
昇降口の扉が開き、閉まる。
その音が、思ったよりはっきり響いた。
翔太は、その場に一瞬だけ立ち止まり、
それから、何事もなかったように歩き出した。
朝の教室は、いつも通りだった。チャイム前のざわめき、机を引く音、誰かの笑い声。
翔太も席に着き、鞄からノートを出す。椅子に腰を下ろす動作も、指の動きも、問題ない。
「翔太」
名前を呼ばれて、顔を上げた。
青木が振り返ってこちらを見ている。
口を開けたまま、ほんの一拍の間。
「今日の英語さ――」
続く言葉は普通で。小テストの話。範囲がどうとか、そんな内容。
翔太は頷きながら聞き、短く返す。
「そうなんだ」
その返事に、青木が一瞬だけ首を傾げた。
聞き返すほどじゃない。ただ、何かを確かめ損ねたような顔。
「まあ、あとでな」
そう言って離れていく。
翔太はノートに視線を落とした。ペン先は紙の上を滑り、文字もいつも通りに並ぶ。
(……普通だ)
そう思った瞬間、教室のざわめきが、ほんの少しだけ遠くに感じられた。
ふと見渡すと、廊下側の席で紗季が窓の外を見ていた。こちらは見ていない。
チャイムが鳴り授業が始まる。翔太は前を向き、板書を写し始めた。
さっきのことは、もう考えていなかった。
体育館に入ると、音が変わった。
天井に反響する声、シューズの擦れる音、シャトルが空気を切る軽い音。
「今日もバドミントンなー!」
教師の声と同時に、ラケットが配られる。
翔太はそれを受け取り、軽く握り直した。
(軽いな)
違和感ではない。ただ、思ったより重さを感じない。
コートに分かれラリーが始まる。相手は青木だった。
最初のシャトルが上がる。翔太は自然に踏み込み、振った。
――当たった。
乾いた音。
シャトルは想像以上の高さで跳ね、奥のラインを大きく越えた。
「おお……」
誰かが声を漏らす。
「今の、飛びすぎじゃね?」
「力入れすぎだろ」
青木が苦笑いする。
「すげーけど、アウトだな」
翔太は一瞬、首を傾げた。力を込めた感覚はなかった。
(……こんなもんだろ)
次のラリー。今度は少し抑えるつもりで、手首を返す。
――空振り。
シャトルは、ラケットのすぐ横を抜けて床に落ちた。
「え?」
「今のミスる~?」
ざわめきが起きる。翔太は視線を落としラケットの先を見た。
もう一度。
今度はしっかり引きつけて、振る。
――当たった。
音はいい。
だがシャトルは、ネットすれすれで失速し、相手コートの手前に落ちた。
「……極端だな」
「さっきのと別人じゃん」
誰かが笑う。冗談めいた空気だ。
翔太も口元だけで笑った。
(たまたまだ)
そう結論づけるには、十分な軽さだった。失敗でもない。成功でもない。安定していないだけ。
視線を上げると、コートの外。紗季が壁際に立っていた。ラケットは持っていない。ただこちらを見ている。
正確には――打つ瞬間を見て、結果を見る前に、目を伏せていた。
翔太は気づかない。次のシャトルが上がる。集中しようとするが、力の入れどころが定まらない。ラケットの先が遅れて戻ってくる感覚。
「……チェンジ!」
教師の声が響きラリーが止まる。
翔太は一歩下がり、息を整えた。息は乱れていない。肩も、腕も、痛くない。
「翔太」
紗季の声が、すぐ後ろで聞こえた。振り返ると、いつもより少し遠い位置に立っている。
「今のさ……」
言いかけて、止まる。
体育館の喧騒が、二人の間を横切る。
シャトルの音、笑い声、床を叩く足音。
紗季は一度、唇を噛んだ。
「……後で、少し」
それだけ言って、視線を外した。
翔太は答えなかった。
(またか)
そう思っただけで、ラケットを持ち直す。
笛が鳴り次のラリーが始まる。翔太はコートに戻る。
紗季は壁際から動かなかった。
着替えの時間になり、クラスがばらける。
翔太は体育館の隅でラケットを返し、タオルで汗を拭いた。
腕を動かす。指を開いて、閉じる。
――動く。
(……ほらな)
そう思ったところで、背後に足音が止まった。
「翔太」
呼ばれて、振り返る。
紗季が立っていた。
体育着のまま、両手を胸の前で組んでいる。
息は整っている。だが、視線が一度だけ泳いだ。
「……昨日、ちゃんと休んだよね」
問いかけだった。
責める調子ではない。
翔太は、ほんの一拍置いてから答えた。
「……うん」
それだけだった。
理由も、続きもない。
紗季は、その返事を受け取ったまま、何も言わなかった。
シャワー室から水音が聞こえ、誰かが笑う。
ロッカーの扉が閉まる音が、間を埋める。
「……それで、今日は……」
言いかけて、紗季は言葉を切った。
翔太は、続きを待たなかった。
聞き返すこともしなかった。
(……何だよ)
そう思っただけだった。
言いたいことがあるなら、最後まで言えばいい。言わないならそれで終わりだ。
昨日もそうだった。「ちゃんと休んだか」と聞かれて「休んだ」と答えた。
それで話は終わったはずだ。
今日はどうするのか。そんなの決まっている。
(いつも通りだろ)
そう結論づけて、翔太は視線を前に戻した。
タオルで首元の汗を拭き、ロッカーに向かう。
もう振り返らなかった。




