1-19 それだけ、言いに来ただけ
旧通用路に生徒が立ち入らない理由は単純で、わざわざ通る意味がないからだ。
翔太にとっては、ただ静かなだけの場所だった。
夕方の空気は、昼の熱をまだ引きずっている。風が吹き、葉が躍る。校舎の壁に落ちた影はゆっくりと伸びていた。
背後に、足音が一つ。
振り返る前に、それが誰か分かった。
紗季だ。
紗季はそれ以上踏み込まなかった。一歩分の距離を保ったまま、隣に立つ。以前なら、もう半歩近かったはずの位置。
「…………今も、一人で?」
「うん」
それだけで会話は終わった。
続けようと思えば続けられたはずだが翔太は視線を前に戻した。
空気が少しだけ濃い、旧通用路の奥……影。
紗季も気づいている。だが構えない。気配が動いた瞬間、彼女の指先はわずかに揺れた。
翔太が一歩、前に出たからだ。
「行く」
確認ではなかった。結論だけをそこに置いて。紗季は、返事をしなかった。
怪異は小さい。輪郭も薄く動きも鈍い。この距離、この程度なら問題はない。
翔太はそう判断した。
気を巡らせる。溜めない。押し出さない。流れの中で、必要な分だけ。
踏み込む。
動きは速く、無駄はなく。軌道は浅く、最短を。
怪異は抵抗する前に霧散した。
音もない。跡もない。
成功だ。
翔太は立ち止まり息を吐いた。
疲労は無し。鼓動も安定している。振り返ろうとした、その瞬間。
「……待って」
紗季の声が、背中に当たる。だが翔太は、それを気に留めなかった。
「もう終わった」
視線は向けない。前を向き、結論だけを返す。
紗季は何か言いかけてやめた。唇が動き――閉じる。
風が吹いた。木の葉が揺れた。影は地面をなぞる。
翔太は歩き出した。帰路につくための、自然な一歩のはずだった。
右腕に力が入らない。ただ、力が抜け落ちたような感覚。
「……っ」
声にならない息が漏れた。
腕が遅れる。身体が、鼓動がうるさい。地面に足をついたはずなのに、体重が乗らない――倒れる。
その前に、肩を掴まれた。
「翔太!」
紗季の声が近かった。ずっと近い。
支えられて、何とか立つが右腕は言うことをきかない。指先が思うように動かない。
「大丈夫……」
言いかけて言葉が途切れた。自分の声が少し遅れて耳に届いてくる。
紗季は翔太の右腕に視線を落とすが、触れない。だけど、離れない。
「……一回、力、抜いて」
静かな声だった。命令でも、懇願でもない。
翔太は従った。力を抜く――つもりで――抜けない。
抜こうとすると、逆に腕の奥で何かが引き攣る。肩の内側の、もっと深いところで、何かが噛み合っていない。
紗季の表情が変わった。
恐れではない。驚きでもない。
――それは確信。
その表情を見た瞬間、翔太は理解した。
戻らない……直感だった。理由は分からない。だが、前と同じにはならない。
「……歩ける?」
紗季が心配そうに覗き込んでくる。
翔太は、ゆっくりと頷いた。足は動く。問題ない。
右腕を庇うように体をずらす。紗季は何も言わなかった。ただ、半歩後ろを歩く。
旧通用路を抜け、校舎の影に戻る。夕方の光が、二人の影を長く引き伸ばした。
影は揃っている。だけど、右側だけわずかに遅れていた。
翔太は気づかない。前だけを見て歩いている。
紗季はそれを見ていた。何も言わず。手を伸ばさず。
ただ、戻ってこられる距離を保ったまま……
紗季と別れ、玄関を開けた瞬間温かい匂いが押し寄せてきた。
味噌汁の湯気と、揚げ物の油の香り。テレビの音。食器が触れ合う軽い音。
外の冷たい空気とは、あまりにも違う。
「おかえり」
台所から母の声がして、父はテレビを見たまま手を挙げた。妹の姿は見えない。先に食べ終えて部屋に戻ったらしい。
「手、洗ってきなさい」
言われた通りに洗面所へ向かい、蛇口をひねる。
水はいつも通り冷たく指先には感覚もある。泡立てた石鹸を流し、タオルで手を拭く。
(……大丈夫だ)
理由もなく、そう思った。
食卓に座ると、母が当たり前のように皿を置いた。
唐揚げ。ポテトサラダ。味噌汁。
俺の好きなものばかりだ。
「遅かったわね」
「ちょっと、寄り道してただけ」
曖昧に答えると、それ以上は聞かれなかった。
父がテレビに向かって笑い、母は箸を動かしながら今日の買い物の話を続けている。
いつも通りの夕食だ。
箸を取る。指に馴染む感触も、重さも、変わらない。
唐揚げを掴もうとして、箸先を合わせた。
――力が、分からない。
思ったより弱く、唐揚げがずれる。もう一度、今度は少し強く。今度は潰れかけて、油が皿に落ちた。
呼吸を整えて、もう一度。掴めない。
箸は閉じているのに、感触だけが曖昧で……指先に返ってくるはずの抵抗がない。
(……)
箸先を立てれば早い、と一瞬だけ思う。けれど、そのまま、箸を引いた。
母が一瞬だけこちらを見る。
「冷めちゃうわよ」
それだけ言って視線をテレビに戻した。
もう一度、試す。箸先が唐揚げに触れ、わずかに持ち上がった瞬間力が抜けた。皿の上に落ちる音は、思ったより大きく聞こえ、唐揚げは転がった。
父はテレビを見たまま。母は味噌汁を一口飲み、何も言わない。
(……疲れてるだけだ)
そう思い、今度は小さく割れた端を狙う。箸を動かす速度を落とし慎重に……
それでも、うまくいかない。強くすると崩れ、弱くすると逃げる。何度か繰り返すうちに、箸を動かす手つきそのものがぎこちなくなっているのが分かった。
(昼間、使いすぎただけだ)
理由は浮かぶ。納得できるものを選んで頭の中に並べる。
母が少しだけ眉を寄せた。
「翔太?」
「……ああ」
唐揚げは諦め、ポテトサラダに箸を伸ばす。
こちらは掴めた。掴めたが――力を抜くと落ちそうで、無意識に強く握っていた。口に運ぶまで、指先の感覚から意識を離せなかった。
味は、分からなかった。
「今日は、ちょっと手元が落ち着かないのね」
「まあね」
短く答えると、それ以上は何も言われなかった。
箸を持つ手を、膝の上に戻す。指を軽く動かす。開いて、閉じて。問題なく動く。
(……大丈夫だ)
そう思うことにして、味噌汁を飲んだ。湯気が立ち、喉を通る感覚はいつもと変わらない。身体は、ちゃんと反応している。食事は静かに続いた。
唐揚げは最後まで残したまま。
校門をくぐると、いつもと変わらない朝の音が流れ込んできた。下駄箱の前で笑う声、誰かが走る足音、チャイム前のざわめき。……普通だと思えたことに、少しだけ安堵する。昨夜のことが、遠い出来事みたいに感じられた。教室に入ると、青木がすぐに気づいて手を上げた。
「おー、翔太。生きてたな」
「その言い方やめろ」
軽口を叩き合いながら席に向かう。
「今日、数学小テストだぞ」
「……マジかよ」
そんなやり取りが、ちゃんと出来ている。昨日までの“別の世界”は、今は見えない。ノートを開いたところで、視線を感じた。顔を上げると、少し離れた席の紗季がこちらを見ていた。目が合いそうになって、彼女はすっと視線を外す。
(……なんだよ)
気にするほどのことじゃない。そう整理して視線を戻す。だが、しばらくしてまた気配を感じる。今度は紗季が立ち上がって、教室の後ろへ向かうところだった。――廊下に出る前、一瞬だけ足が止まる。誰かに声をかけようとして、やめた。そんな間。
(行きたいなら行けばいいだろ)
そう思っただけで、特に追いかける気にもならなかった。
結論はもう出ている。今さら話すことなんて、ない。
授業が始まり、板書を写す。文字は問題なく書ける。ペン先もぶれない。
(ほら、大丈夫だ)
自分に言い聞かせる必要すらなかった。
チャイムが鳴ると教室の空気がふっと緩む。その中で、紗季だけが席に戻らず、廊下の窓際に立っていた。窓の外を見ているようで、実際には何も見ていない横顔。その肩が、わずかに強張っているのを、翔太は見なかった。
校庭に出ると空気が一段軽くなった。午前中の授業が終わり、身体を動かす時間になると、クラスの空気も少しだけ雑になる。
「今日はソフトボールなー!」
体育教師の声が響く。グローブが配られ、ボールが転がっていく。
(久しぶりだな)
そう思いながら、翔太はグローブを受け取った。
革の感触はいつも通りだった。指も、握りも、違和感はない。キャッチボールが始まると、数メートル先の青木と向かい合い、軽くボールを投げ合う。
軽く腕を振る――問題なく、届いた。
「お、いいじゃん。最近運動してない割に」
「まあいいだろう」
笑いながら返す。
自分でも、肩は軽いと感じていた。
二球目。三球目。
距離を少し伸ばす。
(ほら、普通だ)
フォームを意識するでもなく、自然に腕を振る。ボールは放物線を描き、青木のグローブに収まった。「ナイス」と青木が親指を立てる。その一言に、胸の奥で何かが落ち着いた。
次は打撃練習だった。順番にバットを振る。軽いトスに合わせるだけの簡単なものだ。
バットを握ると、重さは変わらない。手の中にちゃんと収まっている。
(いける)
トスされたボールが浮く。踏み込み、腰を回し、振り抜く――空振り。
(……ん?)
特別おかしな感触はなかった。タイミングが少しズレただけだ。
二球目。同じように振る。カンッ、と軽い音がしてボールは内野に転がった。
「惜しいなー」
「今のは悪くない」
周りの声が飛ぶ。翔太はバットを戻しながら、首を軽く回した。
トスが上がる。今度は、少しだけ力を抜く――バットの先がわずかに遅れる。当たりはしたが、芯を外したボールは力なく転がった。
「……あれ?」
「相良、そんな感じだっけ?」
誰かが冗談めいた調子で言った。
(最近運動してないからな)
そう思って、それ以上は気にしなかった。失敗として数えるほどのものじゃない。バットを置いて、列の後ろに戻る。そのとき、視線を感じた。
校庭の端。紗季が、こちらを見ていた。
いや――正確には、見てから、目が合ってから……目を伏せた。
ほんの一瞬だった。
それだけの事だと翔太も視線を外した。
放課後の校舎は、昼間のざわめきが嘘のように静かだった。廊下に残るのは、部活の掛け声と、遠くで鳴るボールの音だけだ。
校舎裏の影は長く伸びていた。夕方の風が昼間の熱を少しずつ運び出していく。
紗季は翔太の正面には立たなかった。半歩横に立ち、視線は地面に。どこか所在無さげであった。
「……今日はもう……」
一度、言葉が途切れる。
「……明日にしない?」
翔太はすぐに返さなかった。理由を探すでもなく考え込むでもなく。
一呼吸置いて「明日も来るよ」それだけ言って、荷物を持ち替え歩き出す。
紗季の指が、胸の前で組まれたまま動かなかった。何か言いかけて……結局、何も言わなかった。
「……そっか」
短くそう言うと、遅れて歩き出す。
翔太は振り返らない。それは拒絶だとも、終わりだとも思っていなかった。
夜の空気は冷たく、昼間よりも静かだった。
紗季は翔太の家の前に立つと、一度だけ呼吸を整えた。
呼び鈴を押す。
少し間があって、扉が開いた。
「……紗季?」
翔太の声だ。一拍、間はあったが驚いた様子は見られない。
「急にごめん」
それだけ言って視線を上げる。
言葉を探すように、一拍置いてから、口を開いた。
「今日は……ちゃんと、休んでね……
……それだけ、言いに来たの」
確認ではない。お願いとも、命令とも違う。
翔太は理由を聞かなかった。問い返すこともしなかった。
「……うん」
短く、それだけ答える。
紗季は、それ以上何も言わなかった。
一瞬だけ、何かを言いかけるように唇が動いて――止まる。
「……じゃ」
小さくそう言って、一歩下がる。
扉が閉まる。音は思ったよりはっきりしていた。
廊下の足音が遠ざかり、夜が戻る。




