1-16 昨日と、同じじゃない
朝の空気は澄んでいた。
夜に残っていた重さは引き、身体も軽い。布団を出るとき、動きに引っかかりはない。
(……大丈夫だな)
深く息を吸う。胸はきちんと広がる。
吐く。余計な力は残らない。
昨日の違和感を思い出そうとして、やめた。
考えるほどのことじゃない。身体はこうして動いている。
道場へ向かう途中、歩幅を少しだけ意識する。
重心は安定している。足裏の感触も問題ない。
(調整できてる)
稽古場に入る。
畳の匂い。朝の静けさ。
気を巡らせると、流れは素直に応えてくる。
昨日より、むしろ整っている。
そう感じられた。
同じように巡らせ、同じ位置に圧を置く。
無理はしない。溜めすぎない。
柔らかさを保ったまま、強度だけを引き上げる。
理屈は、頭に入っている。
身体も、それを覚えているはずだった。
一歩、踏み出す。
――その瞬間、わずかなズレが生まれた。
転ぶほどじゃない。
崩れるほどでもない。
ただ、踏み出した足と、気の流れが、
一拍だけ噛み合わなかった。
(……?)
すぐに修正する。
重心を戻し、巡りを整える。
動きは、続けられる。
だが、同じ感覚が返ってこない。
昨日と同じはずなのに、
昨日の位置に戻らない。
息を吐く。
もう一度、同じ調整を試す。
(……今日は、噛み合わないな)
そう結論づけるには、まだ早い。
ただ――
身体が、昨日とは違う反応を返している。
足音に気づいたのは、二歩目だった。
振り返らなくても分かる。誰かが後ろにいる。
気を巡らせながら動きを続ける。距離は詰めてこないようだった。
(……様子見か)
そう判断して、意識を前に戻す。
昨日と同じ調整。流れを保ち、圧を置く。身体は応えている――はずだった。
一歩。わずかに遅れる。……すぐに修正する。重心を戻し体制を整える。
問題ない。続けられる。そのまま動きを重ねる。
気の流れは途切れていないのに、反応が、ほんの一拍だけ遅れる……毎回同じ場所で。
(……こんなはずじゃ)
考えるより先に身体を信じて動く。昨日もそうしたし結果は出せている。
踏み込もうとした瞬間――
「翔太」
声がすぐ後ろから届いた。
一瞬迷うが――声を聞き流し続ける。
「……ちょっと、待って!」
今度ははっきりとした調子だった。
振り向くと紗季が、いつの間にか後ろに立っていた。
「今の、昨日と何か違う」
断定ではない。確信とも言い切れない。
それでも目は逸らさなかった。
「違わないよ」
即答する。
「やり方を――」
遮られる。紗季が一歩、踏み込んでくる。いつもより近い。反射的に足に入れていた力を抜けなかった。
「合ってない!……違う、そうじゃなくて……何か、変なのよ」
声は低い。責める色はないが、揺れてもいなかった。
彼女は見守るのをやめたのだと……その一歩で、分かった。
「……大丈夫だ」そう言いかけたが、言葉が出なかった。
自分でも気づいていた。同じやり方で同じ場所に戻れていない。
出来たことが出来なくなっている。
紗季は、何も言わずに視線を外す。そして息を一つ吐いた。
「今日は、ここまでにしよ?」
それは提案だった。命令でも、制止でもない。今の自分には、それを拒む理由が見つからなかった。
沈黙が続く中、気を巡らせてみると、流れはまだある。巡らせることは出来てる。止まったわけじゃない。
「……今のさ、そんなに変だった?」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。言いながら、無意識に肩を一度回していた。
紗季はすぐに答えなかった……少しだけ視線を落とし地面を見る。指先は落ち着かず、何度も位置を変えていた。
「変、っていうより……」
言いかけて言葉を切る。探している――と言うより選んでいるような間だった。
「昨日と、同じじゃなかった」
それだけ言う。
「結果は出てるだろ」
昨日のことを思い返す。気を巡らせ開放し、敵を倒した……失敗はしていない。
「出てる。でも……」
紗季がほんの少しだけ眉を寄せた。
「今日は、スムーズじゃない」
何が、とは言わないが、胸の奥がわずかに反応する。
「やり方を工夫すれば――」
言いかけて、止まる。もう同じ言葉を、何度も使っている気がした。
紗季は否定しなかった。ただ一歩引く。
「……うん。そうかもしれない。でも、今日はやめよ」
その言葉に俯き考える。
説明もない。理由もない。しばらく、互いに何も言わない。
風が間を抜けていく。
気を巡らせると、やっぱり、どこかが遅れてる。
(……こんなはずじゃ)
視線を上げると、紗季がこちらを見ていた。責めるでも、疑うでもない。ただ、待っている。もう頷くしかなかった。
「……分かった」
そう言った瞬間、わずかな引っかかりが胸の内に残った。
納得したわけじゃない。拒んだわけでもない。
ただ、前と同じに戻れないまま話が終わった。
これ以上、続ける理由はなかったけど、続けない理由も、はっきりとは言えなかった。
紗季は一度だけ辺りを見回し肩の力を抜いた。
「……今日は、ここまで、いい?」
反論を待っているわけでも、押し切るつもりでもない。確認するような言い方だった。
「分かった」
そう答えた自分の声が、少し遠く感じた。
紗季は何か言いかけて、結局やめる。軽く頷き歩き出した。
並んで歩く距離がいつもより少しだけ広い。足音が嚙み合わない。
途中で、紗季が立ち止まる。
「……また連絡するね」
「ああ」
それだけだった。
彼女は振り返らずに歩き出す。
背中を見送る間、声をかけるタイミングは何度もあったけど……
何か違う気がした。
完全に姿が見えなくなってから、息を吐く。
***
そのまま部屋に戻ると、外の音が遠のいた。
扉を閉め、ベッドに腰を下ろす。
気を巡らせる。深く、静かに、ゆっくりと、初心を思い出して。
――流れはある……止まってはいない。
ただ、整え終わった感覚が、どこにも残らない。
(……こんなものか)
そう思った瞬間――
『……今、意識、向けてる?』
耳ではなく、内側に直接届く声。
距離があるのか、近いのか分からない。
(ああ)
『うん。流れは、あるね』
肯定でも否定でもない。
ただ、見たままをなぞるような声だった。
(……問題かどうか、まだ分からないだろ)
『問題がある、とは言わない。……前と同じかどうかは、まだ分からない』
胸の奥が、わずかに反応する。
(治るかどうかは?)
『可能性はある』
即答だった。
『ただ、どこを指して“戻った”と呼ぶかは、人による』
それ以上、続かない。
気を巡らせてみるが、やはりどこかが遅れる。
(……じゃあ、どうすればいい)
『今、何をしてると思う?』
問い返されて、言葉に詰まる。
(……整えようとしてる)
『うん』
短い相槌。
『それができてるなら、今日はそれ以上は見えない』
ただ、そこまでしか映っていない、という調子だった。
(……今は言葉にしなくていい、ってことか)
『大丈夫、という言葉も今は、置いていい』
沈黙が落ちる。
『今日は、ここまでにするといいわ』
指示ではなかった。区切りを示しただけの声。
『続きは、明日になってからでも遅くない』
それだけ残して、綾乃の気配が静かに引いていく。
一人になると、部屋に静けさが戻ってきた。
納得はしていない。
ただ――答えが出ないまま、夜が残った。




