1-15 戻らないままの感覚
怪異が消えたあと、夜は驚くほど静かだった。
さっきまで張りつめていた空気が嘘みたいに、風が戻ってくる。
息を整えようとして、胸が少し詰まった。
(……深呼吸、だ)
吸う。
――思ったより、浅い。
吐く。
肺の奥まで空気が抜けきらない感覚が残る。違和感、と呼ぶほどでもない。
ほんの少し動きが悪いだけだ。
「……」
足先に力を入れ地面を踏みしめる。重心は取れている。膝も震えていない。
手を開いて閉じる。末端までちゃんと気は流れている。
問題はない。
「翔太」
紗季の声が、いつもより近くにあった。
気づくと、彼女がもうすぐ手を伸ばせる距離まで来ている。
「……本当に、大丈夫?」
念を押すような言い方だった。
それが、少しだけ引っかかる。
「見ての通りだろ」
軽く肩を回す。その動作で、身体の内側がわずかにきしんだ。――音はしない。でも、感覚だけが残る。
(成長痛だ)
すぐにそう結論づけた。
これまでにも何度もあった。回路が広がるとき。気の通り道が変わるとき。身体が追いつかず、動きに微妙なズレが出る。
今回も同じだ。
「無茶……してない?」
紗季の表情が、俺の答えを待っている。
「してないよ」
そう言ってから、少し間を置いた。
「……ちゃんと、制御してた」
自分に言い聞かせるような言い方になったのは、たぶん気のせいだ。
紗季が何か言いかけて結局それ以上は踏み込んでこなかった。
代わりにそっと息を吐く。
「……分かった」
納得したわけじゃないようだった。でも、これ以上押しても意味がないと判断した声音。
そのやり取りの間、誰かの視線を感じていた。
振り返らなくても分かる。――綾乃だ。
直接姿が見えるわけじゃないけど、気配だけは確かにあった。彼女がこちらを視ている。
(……何か言えよ)
一瞬そんな考えが浮かぶが、すぐに打ち消した。言われなくても分かる。今の俺は大丈夫だ。綾乃が何も言わないのは問題がないからだ。そう解釈するのが一番自然だった。
「戻ろう」
俺がそう言うと、紗季が小さく頷いた。並んで歩き出す。
最初の数歩は、何も問題なかった。
五歩目で、身体の感覚がわずかに遅れる。
(……?)
立ち止まるほどじゃない。
でも、着地の瞬間に地面が遠い。肩が、わずかに重さを残したまま動く。
「どうしたの?」
紗季が振り返る。
「いや、何でもない」
歩き出す。意識して重心をほんの少し前に置く。――たぶん、それでいい。次の一歩。今度は遅れない。
(……ほらな)
身体の内側に静かな手応えが広がる。うまくいっている気がする。ちゃんと扱えている――そう思えた。
理由を探そうとすれば、いくらでも浮かぶ。気の巡りが一時的に乱れているだけ。身体が、拡張に追いついていないだけ。
――いつものことだ。そう言い切ろうとして、言葉が、途中で止まった。
柔らかく巡るはずの気が、ところどころで、わずかに引っかかる。
流れはある。止まってはいない。
ただ以前と同じ流れではない。
(……使いすぎただけだ)
そう思ったはずなのに、感覚のほうが、先に答えを出してしまう。
違う。それだけじゃない。
明日、少し休めばいい――そう考えた瞬間、自分の呼吸がわずかに冷えた気がした。
――休む、という発想が浮かんだこと自体、成長痛という説明と、どこか食い違っている。
(……何考えてるんだ)
頭を切り替えようとする。けれど意識を向けるたびに、身体のほうは遅れて返ってくる。
深く、静かに気を巡らせるが――以前より、時間がかかる。
理由はもう考えない。考えれば考えるほど、感覚とのズレが広がる。
ふと、紗季の足取りが緩んだ。
「……ねぇ」
呼ばれて、顔を向ける。
彼女は言葉を探すように、目を彷徨わせ俯くと、一度だけ口を閉じる。
「……今日は、無理しなくていいから」
それだけ言ってまた歩き出す。
その背中は、どこか固く見えた。
(心配性だな)
そう言うとして、言葉にならなかった。
身体の内側に残る充足は、まだある。
だがそれは、手応えというより余熱に近かった。
触れれば確かにまだ温かい。けれど、それがどこから来たものなのか、もう説明できなかった。
(……まあ)
言葉を探してやめる。そんな日もある、とだけまとめた。
誰も何も言わない。けれど何かが――戻らないまま、残っていた。
それから先は、しばらく無言で歩いた。
道場の敷地を離れ、夜道に出る。街灯の下を通るたび、足音だけが浮き上がる。
歩けている。
けれど、歩幅がいつもより揃わない。
紗季の足取りが、わずかに遅い。
合わせているというより、間を測っているように見えた。
「……今日は、ここまでで」
門の前で、彼女が足を止める。
「ああ」
短く返す。
それ以上、言葉は続かなかった。
紗季は何か言いかけるように口を開き、すぐに閉じる。
軽く手を振って、背を向けた。
その背中を見送る。
完全に見えなくなってから、息を吐いた。
部屋に戻る。
灯りをつけると、昼間のままの机と、脱ぎっぱなしの上着が目に入る。
上着を取ろうとして、動きが一拍遅れた。
それだけのことなのに、少し気になる。
シャワーを浴びる。
温かい水が肩に当たる。
一瞬、楽になる。
次の瞬間、その感覚がどこに収まったのか分からなくなる。
タオルで髪を拭き、布団に腰を下ろす。
天井を見上げる。
目を閉じると、今日の動きが断片的に浮かぶ。
踏み出した足。
解放した瞬間。
着地。
順序は崩れていない。
ただ、配置が違う。
寝返りを打つ。
身体は動く。
それでも、落ち着かない。
深く息を吸って、吐く。
その動作が、どこか遠い。
もう一度、寝返りを打つ。
眠れないわけじゃない。
考えが止まらないわけでもない。
ただ、以前と同じ位置に戻らない。
目を閉じる。
闇の中で、感覚だけが残っている。
何かが変わった、とは言えない。
何かを失った、とも言えない。
それでも確かに、戻らないままの何かが、そこにあった。




